争いの扱い【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#7

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「箴言」は、外面的なものに欺かれることを改めて非難しています。私たちは、この世が与えるあらゆるもの—富、権力、楽しみ、名声—を持っているように見えるかもしれませんが、その裏側には緊張や苦悩を持っています。その緊張や苦悩の原因は、まさに人々が手に入れようと懸命に努力している富や楽しみの可能性すらあります。エジプトの格言が言うように、「悩みをもたらす富よりもパンと明るい気持ちのほうがいい」(ミリアム・リヒトハイム『古代エジプト文献』第2巻156ページ、英文)のです。「箴言」によれば、この問題を解決する第一歩は、私たちの優先事項が何であるかに気づくことです。平安な人間関係は、富よりもずっと重要でしょう(箴17:1)。大切なのは、どれだけ持っているかではなく、私たちが内面においてどんな人間であるかということです。このあとに続く助言は、このような優先順位を取り戻すのに役立ち、幸福を増し加える内的平安(ヘブライ語で「シャローム」)へと私たちを導いてくれるでしょう。

罪と友人

問1

箴言17:9、19:11を読んでください。これらの聖句の中で、どんな重要な指摘がなされていますか。私たちは罪を犯す人をどのように扱うべきでしょうか。

だれかが失敗をすると、そのことをほかの人に話して、広めたくなるものです。「ねえねえ、だれそれがしちゃったこと、もう聞いた?」。私たちはその行動にあきれたようなふりをするかもしれませんが、それでも、起こったことをだれかにこっそりと話したくなります。要するに、私たちはうわさ話をしているのであり、それは、しないようにと警告されていることです。そのような行為は、たとえ親友同士の間であっても争い事を生み出すでしょう。結局のところ、もしあなたの友人が失敗したとして、あなたがそのことをほかの人に言いふらすなら、あなたはなんといいかげんな友だちでしょうか。

そのようなことをするのではなく、友人の間違いを「覆う」ように、と私たちは勧められています。しかしそれは、過ちを隠すとか、何も起こらなかったかのように振る舞うとか、当人が不正をしなかったかのようにしなければならない、という意味ではありません。実のところ、このような表現での「覆う」に相当するヘブライ語には「赦し」という特別な意味が含まれています(詩編85:3[口語訳85:2]、ネヘ3:37[口語訳4:5])。だれかが間違いをしたなら、私たちはうわさ話ではなく、愛で応じましょう。

箴言17:17とIコリント13:5~7を読んでください。私たちは、友人や伴侶が完全だから愛するのではありません。彼らに間違いや欠点があるにもかかわらず、私たちは愛します。愛することを通してのみ、私たちはほかの人々を裁かないことを学びます。なぜなら、私たちは自分の短所や欠点があるので、同じくらい過ちを犯しているからです。私たちは裁く代わりに、彼らがしてしまったことを一緒に嘆き、彼らがそれを乗り越えるために、あらゆる可能な方法で助けることができます。結局のところ、もしこういうことをしないのなら、一体何のための友だちでしょうか。

正しくあれ!

真の愛は盲目ではありません。私たちが愛によってだれかの過ちを「覆う」というのは、その罪を見ないとか、罪として認識しないとかいう意味ではないのです。「正義」に相当するヘブライ語の「ツェデク」には、「愛」とか「慈善」といった意味もあります。私たちは正しくなければ、真の憐れみを持つことができませんし、憐れみや愛を持っていなければ、正しくあることができません。二つの概念は一緒でなければなりません。

例えば、貧しい人々への施しは、正義を犠牲にしてなされるものではありません。それゆえ、法廷において貧しい人をひいきしないことが勧められています(出23:3)。もし私たちが愛に迫られて貧しい人を助けるとして、彼らが間違っているときに、単に貧しいという理由だけで彼らをかばうことは正しくないでしょう。正義と真実は愛と憐れみに協力します。神の律法であるトーラーを特徴づけ、「箴言」の中で教えられ、奨励されているのは、このような賢明なバランスです。

問2

箴言17:10と19:25を読んでください。叱責や懲らしめの必要性について、これらの聖句は何と言っていますか。

箴言17:10が、愛によって過ちを覆いなさいという要求(同17:9)のすぐあとに続いているのは、偶然ではありません。「愛」との関連で「叱責」に言及することで、愛を正しく位置づけています。愛によって叱責を受けるとき、それは強い力を持つからです。

ヨハネ8:1~11を読んでください。

「この女をゆるし、もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して、イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる。罪のないお方は、罪人の弱さを憐れみ、彼女に助けの手をさしのべられる。偽善的なパリサイ人は攻撃するが、イエスは、彼女に『お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と命じられる(ヨハネ8:11) 」(『希望への光』913ページ、『各時代の希望』中巻249ページ)。

再び言葉について

問3

箴言18章を読んでください。さまざまな主題がここに出てきますが、私たちの言葉について書かれている内容に注目してください。私たちが口にすることや口にしないことに関して、どんな重要な考えがここで示されていますか。

私たちは再び、言葉の現実とその力に向かい合います。今回は、愚か者が何もしないことに対して、いかに自分の口を用いるかを考えます。特に13節は啓発的です。私たちに向かって言われたことに注意深く耳を傾け、それを理解する前に口を開いてしまうのは、なんとたやすいことでしょう。口を開く前に、私たちが耳にしたばかりのことを注意深くじっくり考えられるようになってさえいたなら、自分自身やほかの人に苦しみや争いをどれだけもたらさずに済んだことでしょうか。確かに、沈黙が最善の応答である場合があります。

箴言18:4を読んでください。「深い水」というたとえは、「箴言」において、知恵をあらわすために肯定的な意味で用いられています(箴20:5)。それは、「静けさ」とともに「奥深さ」「豊かさ」といったニュアンスを伝えます。知恵ある人は浅薄でありません。彼らは、個人的な考察と経験の深みから自分の言葉を引き出します。明らかに知恵と知識を持っている人から出た深い思想や洞察に、驚嘆したことのない人がいるでしょうか。

箴言18:21を読んでください。「箴言」は、私たちがすでに知っていると思われることを改めて述べています。私たちの言葉は強力で、善のための力にも、悪のための力にもなるし、はたまた生死に関わる力にさえなります。ですから、この強力な道具の使い方に関して、私たちはどれほど注意深くあるべきでしょうか。

一つの物語の二つの側面

問4

箴言18:2を読んでください。愚か者は自分の意見をまとめるのに、なぜ時間を必要としないのですか。

愚か者は自分に自信があり、自分の意見を表明したくてたまらないので、ほかの人から学ぶことに興味がありません。彼らの閉じた心は、開いた口に付随しており、これは極めて有害な組み合わせです。私たちは、とりわけ自分が確信を持っている主題について、いつの間にか同じことをしないように、十二分に注意する必要があります。

ある事柄について、その時は正しいと思っていたことが、あとになって間違っていたと気づいたことはありませんか。これは、私たちが考え方において曖昧であるべきだ、という意味ではありません。そうではなく、私たちはだれ1人としてすべての正しい答えを知らないし、たとえ私たちの答えが正しいとしても、真理はしばしば、私たちが認識し、理解しえるよりもずっと深く、微妙な意味を持っているのだから、私たちは謙遜であるべきだ、という意味です。

問5

箴言18:17を読んでください。どんな重要な指摘がここでなされていますか。

神だけが第二の意見を必要となさいません。なぜなら、神の目があらゆる所に注がれているので(箴15:3)、本質的に神はそれをすでに持っておられるからです。神は、いかなる物事であれ、そのすべての側面を見る能力を有しておられます。対照的に、たいてい私たちはあらゆることに対して非常に狭い見方をしており、その見方は、特に私たちが重要だと思う事柄に関して一つの立場に捕らわれたときに、ますます狭くなる傾向があります。

すでにお分かりのように、あらゆる物語には複数の側面があり、情報がたくさんあればあるほど、私たちは物事のより正しい見方をすることができます。

誠実であれ

ある王が、その国の最高の職を担う新しい大臣を任命することになりました。そのために王は、だれが最も大きなうそをつけるのかを競う、うそに関する特別なコンテストを開催しました。現職の大臣は全員参加し、1人ひとりやって来ては、最大のうそをつきました。しかし、王は満足できませんでした。彼らのうそが説得力に欠けているように思えたからです。そこで王は、側近中の側近であり、最も信頼していた相談役に尋ねました。「どうしてお前は参加しなかったのだ」。すると、その相談役は答えました。「陛下を失望させてしまい、申し訳ありません。しかし、私は参加できません」。「なぜだ」。「私は決してうそをつかないからです」。その言葉を聞いた王は、この相談役を最高の職に任命しました。

罪人である私たちは、自分で思っている以上に、簡単にうそを思いつきます。ですから、改めて私たちは自分の言葉にどれほど注意深くあるべきでしょうか。

問6

箴言19章を読んでください。そこには多くの主題が出てきますが、うそをつくことに関しては、何と書かれていますか。

「箴言」は、高い道徳的基準を堅持しています。もし私たちが富や昇進のためにうそをついたり、完全を犠牲にしたり(箴19:1)、人をだましたりしなければならないのであれば、あるいは、誠実を代償にするのであれば(同19:22)、貧しいままでいるほうが、あるいは、昇進を逃すほうがよいのです。

箴言19:9を読んでください。うそをつくことは、それ自体で十分に悪いことですが、法廷でのうそや宣誓したうえでのうそは、一層悪質です。多くの国において、偽証は犯罪、しかも重大な犯罪です。それゆえ、証人は正直な証言をしなければなりません。先の聖句が、「贈り物をする人」(箴19:6)や、友人や兄弟からさえ嫌われる貧しい人(同19:7)に言及したあとに続いているのは、偶然ではありません。要するに、証人はわいろや証言する相手の社会的地位などに影響されてはならない、ということです。

さらなる研究

「うわさ話や告げ口の精神は、いさかいや争いを起こし、友人を仲たがいさせ、私たちの立場の正しさに対する多くの人の信頼を傷つけるサタンの特別な働きのひとつである。兄弟姉妹がたは、ほかの人の中にあると自分で勝手に思っている誤りや間違いについて、とりわけ、神から与えられた叱責や警告のメッセージを果敢に伝えた人の誤りや間違いについて語りがちである。

このような不平を言う人の子どもたちは、耳を澄まして毒のような不満を聞く。こうして親たちは、子どもの心に届く通路を無思慮にも閉じている。どれほど多くの家族が、疑念と疑問で日々の食事に味つけしていることだろう。彼らは友人たちの性格を批評し、おいしいデザートとして食卓に出す。悪口や中傷がひと口ずつ、大人だけでなく、子どもたちによってもコメントを加えられるために食卓を順々に回されている。このようにして、神が辱められている。イエスは、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』と言われた。それゆえキリストは、彼の僕を中傷する者たちによってないがしろにされ、虐待されておられる」(『教会へのあかし』第4巻195ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

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