イエスの働きの中における女性たち【ルカによる福音書解説】#6

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ルカによる福音書は、「女性たちの福音書」と呼ばれることがあります。なぜなら、イエスが女性たちの必要を気遣い、また女性たちが主の働きに関わったことについて、ほかのどの福音書よりも特に触れているからです。

イエスが地上におられた時代、今日のいくつかの文化においてと同様、女性たちはわずかな価値しか認められていませんでした。当時のユダヤ人の男性たちの中には、自分が奴隷や異邦人や女性に生まれなかったことを神に感謝する人もいました。ギリシア人やローマ人の社会は、ときとしてもっとひどい扱いを女性たちにしました。ローマの文化は、ほとんど限りない放縦さに寛容な態度を示しました。しばしば男性たちは、財産を相続する嫡出子を産ませるためだけに妻を持ち、一方で、罪深い欲望のために複数の愛人を抱えていました。

イエスが、女性たちはアブラハムの娘である(ルカ13:16参照)という良き知らせをもたらされたのは、彼女たちがそのようなひどい扱いを受けている背景のもとでのことでした。当時の女性たちは、自分がイエスにあって神の子どもであり、神の目には男性と同じ価値があるのだと聞いたとき、とても喜んだに違いありません。あらゆる国の女性たちに対する今日のメッセージも同じです。私たちは男性も女性も、キリスト・イエスにあって一つです。

イエスの来臨を歓迎した女性たち

ルカだけが、宇宙史における奇跡—父なる神の贖いの使命を果たし、神の民のメシア待望をかなえるために、神の御子が人間の体を取られたという奇跡—に対するこの女性たちの反応を記録しています。彼女たちは、何が起きているのかを十分に理解してはいませんでしたが、これらの驚嘆すべき出来事に対するその言葉や反応は、神の御業に対する彼女たちの信仰と驚きを明らかにしています。

問1

ルカ1:39~45(エリサベトとマリアの出会いに関する記事)を読んでください。限られた理解ではあるものの、エリサベトがこれから起きようとしている大いなる出来事を理解していることがわかります。彼女は何と言っていますか。

エリサベトが話したあと、マリアが言葉を継いでいます(ルカ1:46~55)。しばしば一つの歌だと理解されているこれらの言葉は、旧約聖書の断片であふれており、マリアが熱心な聖書の学び手であり、それゆえにイエスにとってふさわしい母親であったことを証明しています。マリアの歌は聖書に根差しているだけでなく、神との彼女の関係にも深く根ざしていました。この歌は、彼女の魂と主との間の深いつながりを、そして彼女の信仰とアブラハムの希望との間の強い関連性を示しています。

問2

ルカ2:36~38を読んでください。神殿におけるアンナの物語の中には、どんな重要な真理が明らかにされていますか。

待ちわびていた希望は、思いがけなくもイエスの中に成就を見ます。1人の年老いたやもめはその奇跡に気づき、以後、神殿にやって来たすべての人に救い主を宣べ伝えることを自分の抑えがたい使命としました。彼女は女性初の福音伝道者になりました。

女性たちとイエスのいやしの働き

ルカ7:11~17(ナインでの奇跡に関する物語)を読んでください。やもめとなり、貧しさにあえぐこの女性は、独り息子の死というもう一つの試練に今や直面しました。葬列には、彼女と一緒に嘆く者たちが大勢おり、悲しみと同情をあらわしていました。独り暮らしの不確かな未来に加えて、独り息子を失ったことが、このやもめをどうしようもない悲しみと絶望の中に追い込んでいました。

しかし、町を出て行こうとしていたその葬列は、町へ入って来ようとする別の行列に出会います。出て行こうとする列の先頭には、棺に納められた死があり、入って来ようとする列の先頭には、創造主の威光を持つ命がありました。二つの列が出会ったとき、望みなく、悲しみにあふれたそのやもめを、イエスはご覧になります。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(ルカ7:13)。泣かなくてもよいという訴えは、命の主であられるイエスから出たものでなければ、無意味だったでしょう。「もう泣かなくてもよい」という命令の裏側には、彼女が泣く理由を取り除く力があったからです。イエスは手を伸ばし、棺に触れ、若者に起き上がるよう、お命じになりました。イエスが触れられたのは、儀礼的に汚れを清める行為だと考えられますが(民19:11~13)、イエスにとっては、儀式よりも憐みのほうがはるかに大切でした。人間の必要に応えることは、単なる儀式をきちんと行うことよりもずっと重要でした。

ナインの村は大いなる奇跡を目撃しただけでなく、すばらしいメッセージを受け取りました。イエスの目には、男性の心の痛みも女性の心の痛みも違いはないというメッセージです。そして彼の御臨在が、死の力をおののかせ、うろたえさせます。

ルカ8:41、42、49~56も読んでください。ヤイロは有力者であり、会堂長(会堂の世話やそこでの礼拝の責任を負った役人)でした。安息日ごとに、祈りを先導し、聖書を読み、そして説教する人を、彼は選んでいたことでしょう。彼は有名で影響力があっただけでなく、裕福で権力を持っていました。彼は娘を愛しており、その子をいやしてもらうために、ためらうことなくイエスに近づきました。

感謝と信仰にあふれた女性たち

ルカ7:36~50において、イエスは1回の食事を、罪深い女性に尊厳を与えるという霊的に重要な出来事に変えておられます。有力な市民でファリサイ人であったシモンが、イエスを食事に招きました。招待客が席に着いたところで、突然の中断が入りました。「その町で罪の女であったものが」(同7:37、口語訳)イエスに駆け寄り、非常に高価な香油の入った石膏の壺を割り、その油を彼に注ぎ、足もとに彼女の頭を垂れ、涙でその足を洗い、髪の毛でぬぐいました。

「マリヤの問題が人間の目には絶望的に見えた時にも、キリストは彼女のうちに善への可能性をごらんになった。キリストは彼女の性格のよい面をごらんになった。あがないの計画によって、人類は大きな可能性をさずけられていたので、こうした可能性がマリヤのうちに実現されるのであった。キリストの恵みを通して、彼女は、神の性質にあずかる者となった。……マリヤは、イエスの復活ののち一番先に墓にいた。よみがえられた救い主のことを一番先に言いひろめたのはマリヤであった」(『希望への光』968、969ページ、『各時代の希望』中巻396ページ)。

ルカ8:43~48において、極めて悲惨な病状が救い主の最高の関心事になっています。長い間、この女性は不治の病を抱え、身も心もボロボロでした。しかし、その12年間の悲劇の中で、希望の兆が突然あらわれました。彼女は「イエスのことを聞」(マコ5:27)きました。

彼女が何をどのくらい聞いたのかはわかりません。しかし、彼女は知っていました。イエスが貧しい者たちを気遣われること、社会的に見捨てられた者たちを抱きしめられること、重い皮膚病を患う者たちに触れられること、水をぶどう酒に変えられたこと、とりわけ、彼女のように絶望した者たちを愛されることを……。しかし、聞くだけでは十分でありません。聞くことは信仰につながる必要があります(ロマ10:17)。そしてその信仰によって、彼女はイエスの服の房に触れるという単純な行為に及びました。それは信仰に駆られた行為、目的があり、有効で、キリストに焦点を合わせた行為でした。そのような信仰だけが、命を与えるお方の祝福を得ることができるのです。「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8:48)。

イエスに従った女性たち

ルカ10:38~42を読んでください(ルカ8:14も参照)。接待する側として、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働(き)」(ルカ10:40)、客のために最善を尽くしていました。ところが、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入ってい」(同10:39)ました。マルタはとても忙しかったので、自分だけがきつい仕事をさせられている、とイエスに文句を言いました。マルタがもてなすことに一生懸命だったので、イエスは彼女を叱らなかったものの、生活における正しい優先順位の必要性を指摘なさいました。イエスとの交わりは、弟子であることにおいて不可欠な第一のことであり、会食はそのあとにすることができるでしょう。

「キリストのみわざには、注意深い、精神的な働き人が必要である。マルタのような人たちが熱心に宗教活動をする広い分野がある。しかし彼らをまずマリヤといっしょに、イエスの足下にすわらせなさい。勤勉と敏速と精力とをキリストの恵みによってきよめなさい。その時、そのような生活は、征服されることのない善の力となるのである」(『希望への光』946ページ、『各時代の希望』中巻336ページ)。

ルカ8:1~3、23:55、56、24:1~12を読んでください。キリストの働きにおける女性たちの役割について、これらの聖句は教えています。

働きが広がるにつれ、イエスは十二弟子を伴って「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられ」(ルカ8:1)ました。ルカはまた、イエスにいやしていただいた女性、イエスの教えに感動した女性、あるいは裕福な女性たちが何人か、彼の拡大する働きの中、彼に付き従っていたという力強い証言も記録しています。ルカが言及しているのは、次のような人たちです。(1)マグダラのマリアを含む、悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの女性たち、(2)ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、(3)スサンナ、(4)「そのほか自分の財産をもって彼ら[イエスと弟子たち]に仕えている大ぜいの女性たち」(同8:3、新改訳)。

粘り強く祈り、惜しみなくささげる

重要な霊的真理を教えるために、イエスがどのように2人のやもめに目を向けられたのか、ルカは記しています。

イエスは最初の事例において(ルカ18:1~8)、正義のための戦いで、意地が悪く力のある裁判官に対抗する貧しく非力なやもめを気の毒に思っておられます。彼女は不正の犠牲者でしたが、律法の支配と正義を信じていました。しかし、この裁判官は神にも人にも敵対し、やもめを助ける気など明らかにありませんでした。しかし、やもめには粘り強さという武器があり、これを用いて裁判官を疲れさせ、正義を手に入れました。

このたとえ話は、三つの重要な教訓を教えています。(1)気を落とさずに絶えず祈るということ(ルカ18:1)。(2)祈りは物事を(不正な裁判官の心さえも)変えるということ。(3)粘り強い信仰が強い信仰だということ。真の信仰には、すべてのクリスチャンに対する永遠の助言—「決してあきらめてはならない」—があります。たとえそれが、「人の子が来る」(ルカ18:8)最終的な裁きを待つことを意味するとしてもです。

イエスは二番目の事例において(ルカ21:1~4、マコ12:41~44)、神殿の周囲にいる律法学者や指導者たちの宗教的な偽善や見せかけを非難し終えると、続いてすぐに、彼らとはまったく対照的なもの—純粋な信仰の本質を明らかにした貧しいやもめ—を指摘なさいました。

イエスは宗教指導者の中のある者たちを、「やもめの家を食い物にし」(ルカ20:47)、やもめや貧しい者の世話をせよという聖書の命令に背く者たち、と評しておられます。多くの者が敬虔に見せるためだけにささげ、彼らの献げ物には、個人的な犠牲がまったく含まれていませんでした。それとは対照的に、真の宗教の模範としてそのやもめを見るようにと、イエスは弟子たちに言われました。なぜなら、彼女は持っていたすべてをささげたからです。

見せびらかすことが、最初のグループの動機であり、犠牲と神の栄光が、やもめの動機でした。自分のあらゆる持ち物の所有権は神にあることを認め、持っているすべてを用いて神に仕えることが、やもめにレプトン銅貨2枚をささげさせた原動力でした。すべてを見通される創造主の前で大切なのは、私たちが何をささげるか、どれだけささげるかではなく、なぜささげるか、私たちの犠牲の尺度は何かなのです。

さらなる研究

「十字架上の苦しみの中で母親を覚えておられたお方、泣いていた女たちに現れて、彼女たちを救い主の復活の最初の喜ばしいおとずれを伝えるご自分の使者とされたお方—このお方は今も女性の最良の友であられ、生活のあらゆる関係において、いつでも彼女を助けようとしておられる」(『希望への光—クリスチャン生活編』687ページ、『アドベンチスト・ホーム』220、221ページ)。

「主は男性と同様、女性のためにも働きを持っておられます。女性もこの危機の時代に御業の中で果たすべき役割を持ち、主は彼女たちを通して働かれます。もし女性が使命感に満たされ、聖霊の影響力のもとで働くなら、この時代に要求される沈着さを持つことができます。救い主はこれら自己犠牲的な女性に御顔の光を照らし、男性を越えた力をお与えになります。彼女たちは家庭において男性にできない働き、つまり内面的な生活にかかわる働きをすることができます。女性は男性の近づくことのできない人たちの心に近づくことができます。女性の働きは必要です」(『伝道』下巻166ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

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