この記事のテーマ
「神の国」は、イエスの教えの中で大きな主題の一つであり、極めて重要度の高いものです。この言葉は、福音書のマタイにほぼ50回、マルコに16回、ルカにおよそ40回、ヨハネに3回登場します。「主の祈り」の中であれ、「山上の説教」の中であれ、あるいは他の説教やたとえ話の中であれ、神の国という言葉が登場する箇所ではどこでも、それは、神が罪の問題に取り組み、サタンとの大争闘に最終的かつ決定的な決着をもたらそうとして、歴史の中で人類のためになさったことをあらわしています。神の国は、この世がこれまでに知っている国とは異なります。なぜなら、それはこの世的な国ではないからです。
「神の国は、目立つような外観をもって現れるのではない。それは、神のみ言葉の静かな感動や、心の中の聖霊の働きや、魂とその生命であるキリストとの交わりによって来るのである。人間の性質がキリストの完全な品性と同じようになる時に、神の国の力の最高のあらわれが見られるのである」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』31ページ)。
私たちは今回、(とりわけルカによる福音書における)この主題に焦点を合わせます。
神の国の特徴(その1)
四福音書は神の国への言及にあふれており、それらすべてが積み重なるようにして、新しい秩序がイエスによって始まったと証言しています。
問1
神の国について、ルカ11:2は何と言っていますか。それはだれの国ですか。なぜそのことは重要なのですか。
私たちが、この国は神のものであると言うとき、それはわかりきったことを言っているのではありません。むしろ、神の国は哲学的概念でも倫理的体系でもない、と断言しています。神の国は、空腹な者たちにパンと水を、政治的に抑圧された者たちに平等と公正を宣言する社会的福音ではありません。それは人間のあらゆる善意や道徳的行為を超えたものであり、その中心は受肉されたみ子における神の主権的活動の中にあります。み子はこの世に来て、神の国の福音を宣べ伝えられました(ルカ4:42~44、マタ4:23~25)。
問2
神の国はだれが始めたのか、その最終的な結果はどうなるのかということについて、ルカ1:32、33はどんなことを教えていますか。
この箇所は二つの理由によって極めて重要です。第一に、旧約聖書の中で期待されていたメシアは、「いと高き方の子」であられるイエスにほかならないということ。第二に、「その支配[国]は終わることがない」ということ。この意味するところは、イエスが御自分の受肉、死、復活を通して、神の主権に対するサタンの挑戦を退け、神の国を未来永劫にわたって打ち建てられたということです。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」(黙11:15)。キリストとサタンの対立において、アダムとエバが罪に堕ちたのち、サタンは勝利宣言をしました。しかしイエスの福音宣教の働きは、サタンのその主張が間違っていたことを証明しました。ことあるごとに、イエスはサタンを打ち負かし、御自分の死と復活によって神の国が到来したことを、全宇宙に保証なさいました。
神の国の特徴(その2)
問3
神の国の市民権がどのようなものかということについて、次の聖句は何を教えていますか。
ルカ18:16~30
ルカ12:31~33
ルカ9:59~62
神の国への入国は、人の地位や身分、富があるかないかによって決まるのではありません。ルカはほかの福音書の著者と同様、妥協なき服従、完全な依存、子どものような信頼といった態度で人はイエスのもとに来る必要がある、と指摘しています。これらの態度は、神の国に入った者たちの特徴です。必要とあらば、彼らはすべてを喜んで諦めるに違いありません。なぜなら、彼らが諦めたくないと思うものは何であれ、ある意味において、イエスと競合するだけでなく、実際にはイエスに勝るものだからです。イエスと、私たちの人生に対する彼の要求が、私たちの生活のあらゆる面において最優先されます。煎じ詰めれば、そもそも私たちが存在するのは、ただイエスによるのですから、このことは筋が通っています。それゆえに当然ながら、イエスが私たちの全面的な忠誠をお受けになるでしょう。
ルカ18:29、30を読み直してください。イエスは私たちに何とおっしゃっていますか。彼は何を約束しておられますか。神の国のために、私たちは両親、伴侶、子どもさえも捨てなければならないのですか。それは厳しい義務ではありませんか。イエスは、このような行為がすべての信者に求められている、とおっしゃっているのではありません。そうではなく、もしだれかが神の国のためにこれらのものを捨てるように求められたとして、神の国はそれに値するのだ、とおっしゃっています。
神の国—「すでに」と「いまだ」
イエスは神の国を宣べ伝えるためにおいでになりました。ナザレの公の場で最初の宣言をなさった際に(ルカ4:16~21)、彼によってその日、神の国に関するイザヤのメシア預言が成就し、その救済の働きが始まった、とイエスは断言なさいました。
ルカは、神の国が現在の現実[「すでに」の現実]であることを裏づけるもう一つの言葉も記録しています。神の国はいつ来るのか、とファリサイ派の人々から問われて、イエスは彼らに、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とお答えになりました。ほかのいくつかの翻訳は、神の国があなたがたのただ中にあることを示唆しています。つまりイエスの到来によって、神の国は、それを構成する諸要素—病人をいやすこと(同9:11)、福音を告げ知らせること(同4:16~19)、罪を赦すこと(同7:48~50、19:9、10)、悪の勢力を打ち砕くこと
(同11:20)—とともに、すでにやって来ていました。ですから、イエスは神の国を個々の人の中に現在において実現し、その人を彼に似せて変えられました。神の国はまた、(義と救いのあらわれである)信者の共同体の中にも見られます。神の国のこの現在の側面は、神の「恵みの御国」とも呼ばれています。「神の恵みのみ国は、罪と反逆に満ちた心が、日ごとに、神の愛の主権に服する時、今も建設されつつあるのである」(『希望への光』1168ページ、『思いわずらってはいけません』142ページ)。
この「すでに」の側面が神の国の最終的状態(つまり、罪とサタンの敗北、大争闘におけるイエスの勝利)を確定したのに対して、「いまだ」の側面は、悪の物理的終了と新しい地の建設を待ち望みます。「神の栄光のみ国の建設は、キリストがこの世界に再臨される時まで完成を見ることはない」(『希望への光』1168ページ、『思いわずらってはいけません』142ページ)からです。
最終時代における神の国について、ルカ17:23、24、21:5~36を読んでください。私たちの世界とその状況(紛争、悲しみ、混乱)は、イエスがここで述べておられる言葉をまさに反映しています。この世の苦悩は、神が存在しないことを意味している、と主張する人たちがいます。しかし、およそ2000年前にイエスが警告されたことを考慮するなら、私たちの世界の状況は、神の存在のみならず、聖書の真実性をも証明するのに役立つと、私たちは返答できるでしょう。もし現在、この世がパラダイスであるなら、イエスの言葉はうそだったということになります。終わりに至って初めて、神の国は完全に建設されるのです。そのときまで、私たちには忍耐が必要です。
神の国とキリストの再臨
神の国について語るとき、イエスは二つの確実なことを口にされました。(1)人間を罪から救うために、神が歴史の中のキリストを通して働かれることと、(2)救われた者たちを(新しくされた地球で、永遠に神とともに住むという[黙21:1~3])原初の計画に戻すことによって、神が歴史を閉じられること。すでに述べたように、第一の部分は、キリストの宣教と働きにおいて到来しました。キリストにおいて、私たちはすでに恵みの御国の中にいるのです(エフェ1:4~9)。栄光の御国に救われた者たちを集めるという第二の部分は、キリストにある者たちが待ち望む未来の希望です(エフェ1:10、テト2:13)。イエスや新約聖書のほかの書巻は、忠実な者たちが栄光の御国を受け継ぐこととキリストの再臨とを結びつけています。
キリストの再臨は、イエスが初臨なさったときに宣べ伝えられた福音の最終的な頂点です。カルバリーで罪とサタンに勝利されたその同じイエスが、間もなく戻って来て、罪を根絶し、サタンが神の被造物にもたらした悲劇からこの地球を清める作業を開始されます。
問4
ルカ21:34~36を読んでください。その基本的なメッセージを、あなた自身の言葉で要約してみてください。そのときに、あなた自身の生活を振り返り、これらの言葉があなたにいかに当てはまるか、自問しましょう。イエスがここでおっしゃっていることにきちんと従うために、あなたは何を必要としていますか。
私たちはイエスの再臨を待ちながら、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21:36)と命じられています。
恵みの御国を体験した者たちは、目を覚まして栄光の御国を待ち、そのために祈る必要があります。恵みの御国と栄光の御国の間、「すでに」と「いまだ」の間で、信者は働きと宣教、生きることと望むこと、育てることとあかしすることに専念する必要があります。再臨を期待して待つには、今ここにおける私たちの生き方に聖化が必要だからです。
証人
使徒言行録1:1~8を読んでください。ルカが初代教会の大まかな歴史という形で福音書の続編を書いたとき、心の中で第一に考えていたのは神の国でした。使徒言行録という歴史的記事の冒頭部分で、ルカは神の国に関する三つの基本的真理を述べています。
第一に、イエスが再び来られることを確信する必要があるということ。主はその復活から昇天までの40日間、十字架につけられる前に弟子たちに教えておられたこと、つまり「神の国のこと」(使徒1:3、口語訳)を教え続けられました。十字架や復活といった壮大な出来事も、神の国に関するイエスの教えを何も変えていませんでした。それどころか、復活されたイエスは弟子たちに、神の国の現実を40日にわたって印象づけられました。
第二に、神が定められた時にイエスが再臨なさるのを待つ必要があるということ。イエスが復活されたあと、弟子たちは重大で気がかりだった質問をしました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)。イエスはその質問には答えず、弟子たちの考え方を正されました。神は常に神でなくてはならない。神の御心を探り、御計画の細部を予測し、その秘密を理解することは、人間の仕事ではない。「時の満ちるに及んで」(ガラ4:4、口語訳)、恵みの御国をもたらすために神が御子をお遣わしになったように、栄光の御国がいつ来るのかをご存じなのは神であり、神はご自分が定められた時にそれを実現なさるのだ(使徒1:7、マタ24:36)。
第三に、イエスの福音の証人になる必要があるということ。イエスは弟子たちの意識を、わかっていない(栄光の御国がいつ来るのかという)ことを推測することから、わかっていることや実行しなければならないことへ、向け直されました。再臨の時期は明らかにされていませんが、私たちはその栄光の日を待ち、そのときまで「専念しなさい」(ルカ19:13、欽定訳からの直訳)と求められています。これは、イエス・キリストの福音を「地の果てに至るまで」(使徒1:8)届けることに私たちは関わる必要がある、という意味です。それは私たちの責任ですが、私たち自身の力による働きではありません。見たこと、聞いたことの証人となる者すべてに注がれると約束された(同1:4~8)聖霊の力による働きです。
さらなる研究
「心の貧しい者についてイエスは、『天国は彼らのものである』と言われる。この王国は、キリストの聴衆が望んだような一時的な、地上の統治ではない。キリストは人々に、ご自身の愛とめぐみと義の霊的王国を開いておられた。メシヤの統治の旗印は、人の子のかたちであるから、はっきり目立っている。主の国民は心が貧しく、柔和で、義のために責められる者である。天国は彼らのものである」(『希望への光』1127ページ、『思いわずらってはいけません』10ページ)。
「私たちは今、神の作業場にいる。私たちの多くは、採石場から切り出された荒削りの石である。しかし、私たちが神の真理をつかむとき、その影響力は私たちに及ぶ。それは私たちを高め、あらゆる不完全さと罪を—それがどのような性質のものであれ—私たちから取り除く。このようにして私たちは、美しい王とお会いするために、そしてついには栄光の御国において、汚れなく、美しい天使たちと一緒になるために用意されるだろう。この業が成し遂げられ、私たちの肉体と霊が不死に適したものとされるのは、この地上においてである」(『教会へのあかし』第2巻355、356ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。