きよい生活【ペトロの手紙1―生ける望み】#5

目次

中心思想

私たちのあがないのために払われた身の代金は金銭的な価値を越えたものです。イエスの血は私たちを罪の力からあがないました。この代価は私たちが神にとっていかに尊いものであるかを示しています。

アウトライン

  • クリスチャンの生活(Iペテ1:13)
  • きよい行い(Iペテ1:14~16)
  • キリストの血によるあがない(Iペテ1:17~19)
  • 私たちの確信の基礎(Iペテ1:20、21)
  • 新しく生まれる(Iペテ1:22~25)

聖潔の始まり

ペテロはイエスから漁をしてみるように言われた日のことを決して忘れませんでした(ルカ5:1~11)。ペテロは魚の習性についてよく知っていたので、昼間に漁をしても無益であると考えました。それだけに、イエスの言われたところに網をおろし、網が破れそうになるほど魚がとれたときのペテロの驚きは大変なものでした。彼は救い主のみまえにいることを認め、ひれ伏して告白しました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5:8)。

ペテロの告白後、イエスは彼を奉仕のために召されます。「すると、イエスがシモンに言われた、『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』」(ルカ5:10)。自分の罪深さを認めるときに初めて、私たちは聖潔と奉仕に対する神の召しにあずかることができるのです。ぺテロのように真心から告白する前でも、私たちは自分をきよい者であると考えるかもしれませんが、それはただ私たちの目にそのように見えるだけのことです。

クリスチャンの生活(Iベテ1:13)

ペテロ第1.1:13~16において、ペテロはクリスチャンのより高尚で、きよい生き方をするために必要なことがらについていくつかあげています。それらは命令形のかたちをとっていますが、実際には人々の行動を促すための招きになっています。ポール.A・シーダによれば、きよい生活を送ろうとするクリスチャンは次の三つの勧告に従う必要があります。(1)準備をしていること(13節)、(2)従順であること(14節)、(3)聖なる者となること(15、16節)。

質問1

ペテロが与えている第一の勧告は何ですか。Iペテ1:13

帯をしめることは西洋の人々にはあまりなじみのない習慣ですが、ゆったりした衣を着る国々ではよく知られていることです。これらの国々では、激しい労働をするときには衣のすそをまくり上げて、腰のまわりの帯にたくし込みます。こうすれば、激しく動いても衣がじゃまになることがありません。心の腰に帯をしめるように勧めることによって、ペテロは私たちの心を霊的な活動に向けさせようとしています。

心を注意深く守らなければならない。心の健康的な活力をそこない、滅ぼすようなものを何ひとつ入らせてはならない。むしろこれを防止するために、いのちによみがえり、実のなる枝を茂らせるような良い種を心にまかなければならない」(『今日のいのち』83ページ)。(ピリ4:8参照)

質問2

ほかにペテロは読者にどんなことを求めていますか。Iペテ1:13

身を慎む

ペテロは読者に対して罪を警戒するように勧めています。これは必然的に、心の腰に帯をしめることに続くものです。私たちの霊性の中心は脳の中にあります。心と魂をしっかりと守るなら、脳にいたるすべての道(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)は強められて、サタンの誘惑から守られます。

いささかも疑わずに待ち望む

フィリップスはこれを、「全面的に望みをかける」と訳しています。ペテロは私たちに、神の恵みがイエスの再臨において完全に成就するという固い確信を持つように勧めています。

質問3

あなたの心はどの程度聖霊に支配されていますか。私たちはどうしたら自分の思いを完全に神の支配のもとにおくことができますか(Ⅱコリ10:4、5参照)。

きよい行い(Iペテ:14―16)

質問4

ふたたび罪の汚れを受けることのないように、ペテロは読者に何と勧告していますか。Iペテ1:14

従順な子供か、従順の子供か

ギリシア語では「従順の子供」となっています。「従順な子供」は目上の人の言うことを何でも聞くという含みがあります。服従という行為は自発的であるか強制的であるかのどちらかです。一方、「従順の子供」は、その服従が心から出たものという含みがあります。どちらもそれなりの真理があります。

「心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストのいのちを生きる。これがキリストの義の衣を着ることである」(『キリストの実物教訓』292ページ)。

従順の子供は以前の生き方に逆もどりすることを警戒すると、ペテロは教えていますが、これは一度救われれば永遠に救われるという考えに対する警告でもあります。

質問5

神は私たちにどうなるように求めておられますか。Iペテ1:15、16(マタ5:48、ルカ6:36比較)。

私たちは「あらゆる行い」において聖なる者とならなければなりません。これは、あらゆるわざにおいて聖なる者となることによってイエスに見習う者となるということです。神は何回かイスラエルに言っておられます。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ11:44、4519:2、20:7)。神はご自分の子供である私たちに対して、堕落した人間性、罪を愛する心・性格が聖霊によって征服され、支配されるように望んでおられます。私たちは御子イエスに似る者となる必要があります。

罪を追い出す

「罪を追い出すことは、その魂自身の行為である。なるほどわれわれは、サタンの支配からわが身を解放する力はない。だが罪から解放されたいと望み、非常な必要を感じて、われわれ以外の、そしてわれわれ以上の力を求めて叫ぶとき、魂の能力には聖霊の天来の力が吹きこまれ、その能力は神のみこころを成就することにおいて意思の命令に従うのである」(『各時代の希望」中巻255、256ページ)。

キリストの血によるあがない(Iペテ1:17―19)

質問6

さばき主である神はどんな特性を持っておられますか。Iペテ1:17

ペテロはここで、私たちがこの時代をまじめに慎み深く生きなければならない理由について述べています。私たちが父と呼んでいる神はさばき主でもあられます。

父と子の関係は13節からくり返されています。私たちは従順の子供として、さばき主なる父、あるいは父からさばきのわざをゆだねられた御子に対して恐れをいだく必要はありません(ヨハ5:22、使徒17:31参照)。イエスは完全な正義と公正をもってさばいてくださいます。事実、私たちは確信をもってさばきに臨むことができます。なぜなら、私たちの意思はイエスの意思と、私たちの思いはイエスの思いと同じであることを知っているからです。したがって、

父なる神がさばかれるとき、私たちのうちに愛する御子のかたちをごらんになるのです(Iヨハ4:17参照)。

寄留者また旅人

「地上に宿っている」と訳されているギリシア語は、一時的な居住者、旅人を連想させます。旅人、放浪者という考えはイスラエルの荒野における経験を思い出させます。私たちは救いに対する備えをしたうえで、この世の荒野を旅する必要があります。

質問7

私たちはどんな代価によって罪からあがなわれましたか。Iペテ1:18、19

この代価はサタンに対して払われたのではありません。神はサタンと取り引きされたのではありません。イエスが私たちの罪のために十字架上で払われた代価(身の代金)は、イエスが私たちに代わって神の律法を犯したことに対する刑罰を受けられたことを意味しています。彼は父なる神からの隔絶という無限の苦痛を経験されました。イエスにとって、それは神からの永遠の分離を意味しました(Iペテ2:24、1ヨハ2:2、イザ53:5、6参照)。ペテロはあがないの代価、イエスの血を、きずもしみもない小羊の血にたとえています。この言葉は過越の儀式を示唆しています。イエスを象徴していた過越の小羊は、傷のないものでなければなりませんでした(出エ12:5参照)。小羊の流された血はエジプト人を恐れさせた死の災いからイスラエル人を「あがない」、彼らに救いをもたらしました。

私たちの確信の基礎(Iペテ1:20、21)

質問8

小羊イエスの犠牲はいつ決定されましたか。Iペテ1:20(黙示13:8、使徒2;23、1コリ2:7参照)

神は罪によって不意をつかれたわけではありません。この世界が造られる前に、神は罪の発生とその終局を予見しておられました。「あらかじめ知られていた」(欽定訳では、あらかじめ定められていた)という言葉は、御子が世の罪のために死なれるように、神があらかじめ決めておられたことを意味します。このことは、神が人類の罪を予定しておられたこと、あるいはキリストがご自分の使命達成に失敗することを不可能とされたことを意味するものではありません。神は予見されることを必ずしも確定されるわけではありません。

神は世界を創造される前から、将来の出来事を知っておられた。神はご自分の目的を状況に合わせるようにはされず、ものごとが発展し、完成するのをお許しになった。神はものごとがある状態になるようにされなかったが、そのような状態があることは知っておられた。天の高い知性を持った者の離反に対応してなされるべき計画—それは秘密であり、いにしえから隠されてきた奥義である。こうして、永遠の目的のうちに立てられた一つの計画が、神が堕落した人類のためになされた働きをなすために用意されたのである」(「SDA聖書注解』第6巻1082ページ、エレン.G・ホワイト注)。

「この終りの時に至って現れた」

犠牲の計画はこの世界が造られる永遠の昔に立てられてはいましたが、小羊は定められた時まで地上にお現れになることがありませんでした(ガラ4:4参照)。ペテロによれば、それは「終りの時」に起こるのでした(Iペテ1:20)。メシヤの来臨、その犠牲、聖霊の降下といった旧約聖書の預言の成就は、初期のクリスチャンにとって、自分たちが終わりの時代に生きていることの証拠でした。

質問9

私たちの信仰と望みがどこにあると、ペテロは強調していますか。ペテ1:21

私たちは自分の目でイエスを見たわけではありません(Iペテ1:8)。イエスがよみがえられたとき、その場にいたわけでもありません。しかし、私たちはイエスが生きておられると信じています。私たちの信仰と望みは神にあります。

新しく生まれる(Iペテ1:22―25)

質問10

人が新しく生まれ変わったことの最もはっきりした証拠は何ですか。Iペテ1:22

イエスが死なれるまでは、使徒たちはお互いに相手をねたみ、イエスの御国ではだれがいちばん偉いか言い争っていましたoイエスは彼らに対して、そのような精神の持ち主は御国にふさわしくないと言われました。「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」(ルカ9:48)。

ペンテコステの備え

イエスの昇天からペンテコステの日にかけて、使徒たちは約束された神の賜物である聖霊を受けるために、心の備えをしました。その一つがお互いに和解し合うことでした。

「意見の不一致や優位を望む心をすべて捨て、クリスチャンの交わりの中で互いに親密になった」(『患難から栄光へ』上巻31ページ)。

兄弟姉妹に対する真の愛は、クリスチャンが新しく生まれ変わったことの最も力強い証拠です。生まれ変わったクリスチャンは真心からの愛をもって互いに愛し合うと、ペテロは言っています。偽善的なみせかけは見られません。

質問11

クリスチャンはどんな方法によって生まれかわりますか。Iペテ1:23~25

畑にまかれた良い種のように、神のみことばは聖霊によって人の心にまかれます。それは人の魂を神の国に入るにふさわしいものとします。人は草花と同じくいつかは消えうせます。しかし、神のみことばは生き残り、人の心に救いのわざを成し遂げます。

質問12

聖霊によって心を支配していただくとき、クリスチャンはどんな経験にあずかることができますか。Iヨハ3:3~9

ヨハネのこの言葉に対応するのがペテロ第1.1:22、23です。ペテロはここで、真理に対する従順は「御霊によって」与えられると言っています。それは、新しく生まれ変わるときの、朽ちることのない神のみことばが人の心を支配する経験によって可能となります。この種、すなわち聖霊が心を支配されるかぎり、罪は人の心に住むことができません(Iヨハ3:9-1ヨハ5:18比較)。

まとめ

ペテロは一連の勧告によって、読者にイエスの再臨に備えるように教えています。過越の小羊の血によってあがなわれ、みことばの力によって新しく生まれ変わっているので、従順の子らはみな天の父のさばきに確信をもって臨むことができます。彼らの生活は聖霊によって導かれているので、罪を犯すことがありません。彼らはみことばの原則に一致した生活を送ります。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年3期『ペトロの第一の手紙 生ける望み』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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