この記事のテーマ
私たちの教会は、今期の研究対象であるダニエル書のページの中から生まれました。研究を始めるに際して、私たちは研究の指針となるポイントとして次の点を心に留めておくべきでしょう。
第一に、聖書全体の中心がキリストであるように、ダニエル書の中心もキリストであること。
第二に、ダニエル書は、文学的に美しい形で、しかも主要な焦点がわかりやすい形で構成されていること。
第三に、古典的預言と終末論的預言の違いを理解する必要があること。このことは、ダニエルの預言と、イザヤ、アモス、エレミヤたちの預言とを区別するのに役立ちます。
第四に、ダニエル書の時の預言を研究するとき、ダニエル書の預言の概略が長期間に及んでおり、「1日=1年の原則」に従って計算されることを理解すべきであること。
第五に、強調すべきは、ダニエル書が預言の情報を伝えているだけでなく、現代に生きる私たちの個人的生活にも深く関わっているということ。
キリスト―─ダニエル書の中心
問1
ルカ24:25~27、ヨハネ5:39、Ⅱコリント1:19、20を読んでください。キリストはどのように聖書の中心なのですか。
疑いの余地なく、聖書の中心はイエスであり、ダニエル書も例外ではありません。例えば、ダニエル1章は、限られた不完全な形ではあるものの、ダニエルの経験がキリストの経験に似ていることを示しています。ダニエルと彼の友人たちは、闇の勢力に立ち向かいました。2章は、キリストの王国が最終的にこの世のあらゆる王国に置き換わることを伝えるために、終わりの時の(終末論的)石の姿を描いています。3章は、燃える炉の中で、御自分の忠実な僕たちと一緒に歩いておられるキリストを明らかにしています。4章は、神がしばらくの間、ネブカドネツァルを王位から外されることを示しています。それは、「天こそまことの支配者である」(ダニ4:23〔口語訳4:26〕)と王に理解させるためでした。「天こそまことの支配者である」という言葉は、7章で描かれているように、キリストが「人の子」(ダニ7:13)として権威と王権をお受けになることを思い出させます。
5章は、酒盛りと遊興の夜にベルシャツァル王が死去し、バビロンがペルシアの手に落ちたことを明らかにしています。これは、キリストとその天使たちによってサタンが敗北し、終末時代のバビロンが取り除かれることを予示しています。6章は、イエスに対して大祭司が声をあげた偽りの告発に似た形で、ダニエルに対する陰謀を明らかにしています。さらに、ダレイオス王がダニエルの命を助けようとしてうまくいかなかったように、ピラトもイエスの命を助けようとして失敗しました(マタ27:15~26)。7章は、人の子としてのキリストが王権を受け、御自分の民を支配されることを描いています。8章は、天の聖所の祭司としてキリストを明らかにしています。9章は、いけにえの献げ物としてキリストを描いており、その死が神と神の民との契約を改めて確定するのです。10章から12章は、大天使長ミカエルとしてキリストを描いており、ミカエルは悪の勢力と戦って神の民を死の力から救出することに成功します。
このように、キリストがダニエル書の中心であることを心に留めましょう。
ダニエル書の構造
ダニエル書(2~7章)はアラム語で書かれていて、次のような構造になっており、ダニエル書全体の中心メッセージを強めるのに役立っています。
A.四つの王国に関するネブカドネツァルの幻(ダニ2章)
B.燃える炉から神がダニエルの友人たちを救出される(ダニ3章)
C.ネブカドネツァルへの裁き(ダニ4章)
C´.ベルシャツァルへの裁き(ダニ5章)
B´.獅子の穴から神がダニエルを救出される(ダニ6章)
A´.四つの王国に関するダニエルの幻(ダニ7章)
この種の文学上の配列は、構造の中心に要点を置くことによってそれを強調するのに役立ちます。2章から7章の強調点は、神が地上の王たちを立てたり、取り除いたりなさる神の主権に置かれています。
最も効果的にメッセージを伝え、強調する方法の一つは、繰り返しです。例えば、神はファラオにエジプトの近い将来に関する二つの夢をお見せになりました(創41:1~7)。二つの夢は同じことを表現していました。七年の豊作のあと、七年の飢饉が続くということです。
ダニエル書の中でも、神は繰り返しを用いています。一連の預言が4回登場し、この預言は神の究極的な主権を示しています。四つの預言の概略は、それぞれ異なる様相を呈していますが、同じ歴史的期間を扱っています。
問2
次の聖句は、私たちの長期的見通しについて、どのような希望を提示していますか(ダニ2:44、詩編9:8~13〔口語訳9:7~12〕、Ⅱペト3:11~13)。
ダニエル書の終末論的預言
ダニエル書に記録されている預言の幻は、旧約聖書のほかの預言者たちによって伝えられたほとんどの預言のメッセージとは質的に異なります。ダニエルの預言は「終末論的預言」に属するものですが、旧約聖書の預言のほとんどは「古典的預言」に属します。これらの預言の種類の基本的な違いを理解することは、聖書の預言を正しく理解するうえで極めて重要です。
「終末論的預言」には、古典的預言とは異なるいくつかの特徴があります。
幻と夢―─終末論的預言では、神はおもに夢と幻を使って御自分のメッセージを預言者にお伝えになります。古典的預言では、預言者は「主の言葉」(幻を含むこともある)を受け取ります。「主の言葉」という表現は、若干の違いはありますが、古典的預言者たちの中でおよそ1600回登場します。
合成的象徴物―─古典的預言では、象徴はわずかしか登場せず、それらはおもに現実の対象です。一方、終末論的預言では、神は人間の現実世界を超えた象徴やイメージを示されます。例えば、合成動物や羽や角を持つ竜などです。
神の主権と無条件性―─古典的預言の成就は、神とイスラエルとの契約という背景において、しばしば人間の応答に左右されますが、それとは対照的に、終末論的預言は無条件です。神は終末論的預言の中で、ダニエルの時代から終わりの時に至るまでの世界帝国の興亡を明らかにしておられます。この種の預言は、神の予知と主権に基づくものであり、人間の選択とは関係ありません。
問3
ヨナ3:3~10を読んでください。これは古典的預言ですか、それとも終末論的預言ですか。ダニエル7:6はどうですか。
古典的預言や終末論的預言など、預言の大まかな種類について知ることは、とても役に立ちます。第一に、このような種類は、神が預言者に真理を伝える際にさまざまな方法を使われることを示しています(ヘブ1:1)。第二に、そのような知識は、聖書の美しさと複雑さをより深く理解するうえで助けとなります。第三に、このような知識は、私たちが聖書の預言を、聖書全体のあかしと一貫性のある形で解釈し、「真理の言葉」(Ⅱテモ2:15)を正しく説明するうえで助けとなります。
神の時間の尺度
ダニエル書を学ぶときに私たちが心に留めるべきもう一つの重要な概念は、終末論的預言に対する歴史主義者的な研究方法です。歴史主義という名でも知られるこの研究方法は、過去主義、未来主義、理想主義といった異なる見解と比較することで、よりよく理解できます。
過去主義は、ダニエル書の中で告げられている預言的諸事件を過去に起こったこととしてみなす傾向があります。未来主義は、同じその預言が未来に成就するのをまだ待っていると主張します。次に理想主義は、終末論的預言というのは、特定の歴史的指示対象を持たない一般的な霊的現実であると考えます。
対照的に歴史主義は、神が終末論的預言の中で、その預言者の時代から終わりの時に至る途切れることのない一連の歴史を明らかにしていると考えます。ダニエル書を研究するとき、この書のそれぞれの主要な幻が(ダニ2、7、8、11章)このような歴史的概略を、異なる視点と新たな詳細を伴って繰り返していることがわかります。エレン・G・ホワイトを含むアドベンチストの先駆者たちは、ダニエル書や黙示録の聖書の預言を歴史主義者の観点から理解しました。
問4
民数記14:34とエゼキエル4:5、6を読んでください。預言に関する言葉において、「日」は、通常何を意味しますか。
ダニエル書を研究するとき、預言の時間を「1日=1年の原則」に従って計算することも心に留めておきましょう。預言における1日は、実際の歴史的時間の1年に等しいということです。それゆえ、例えば、「日が暮れ、夜の明けること二千三百回」(ダニ8:14)は、2300年を指していると理解します。同様に、70週の預言(同9:24~27)は490年と理解します。
この時間の尺度は、いくつかの明白な理由によって正しいと思われます。①幻は象徴的なので、示される時間も象徴的であるに違いないこと。②幻に描かれている諸事件は長い時間をかけて(場合によっては、「終わりの時」に至るまで)起こるものなので、これらの預言に関する期間もそれに応じて解釈されるべきであること。③「1日=1年の原則」は、ダニエル書によって裏づけられること。良い例は70週の預言で、それはアルタクセルクセス王の時代からメシアとしてのイエスの到来にまで及んでいます。それゆえ、ダニエル書の中に与えられている預言の期間の意味を理解するうえで最も明瞭かつ適切な方法は、「1日=1年の原則」に従ってそれらを解釈することです。
ダニエル書の現代的関連性
ダニエル書は2500年以上も前に書かれましたが、21世紀に住む神の民にも依然として深く関連しています。ダニエル書が私たちにとって実際的な価値を持つ三つの領域に注目しましょう。
神は私たちの人生を支配しておられます。物事がうまくいかないときでも、神は支配しておられ、人間の気まぐれな行動を通じて、御自分の子らに最善を提供するため働かれます。バビロンでのダニエルの体験は、エジプトでのヨセフや、ペルシアでのエステルの体験と似ています。これら3人の青年は外国において囚われの身であり、異教の国の圧倒的力の下にありました。表面的には、この青年たちが弱く、神に見捨てられたように映ります。しかし、主は彼らを力づけ、強力な方法でお用いになりました。試練、苦しみ、反対に直面するとき、私たちは、神がダニエルやヨセフやエステルにされたことを振り返ることができます。私たちは、主が依然として私たちの主であり、試練や試みの中にあっても、これまで私たちをお見捨てにならなかったことに安んじることができるのです。
神は歴史の針路を導いておられます。私たちは時折、罪と暴力にあふれ、錯綜して方向の定まらないこの世に不安を感じます。しかしダニエル書のメッセージは、神が主導権を握っておられるということです。ダニエル書のいずれの章でも、神が歴史の流れの舵を取っておられるというメッセージが強調されています。エレン・G・ホワイトは次のように述べています。「人類歴史の記録の中では、世界の諸国民の発展や諸帝国の興亡は、人間の意志や勇気に左右されているかのようにみえる。いろいろな事件の形成は、その大部分が人間の能力や野心やあるいは気まぐれによってきまるかのようにみえる。しかし、神のみ言葉である聖書の中には幕が開かれていて、われわれはそこに、人間の利害や権力や欲望の一切の勝ち負けの上に、また背後に、あるいはそれを通して、あわれみに満ちた神の摂理が、黙々と忍耐強くご自身の目的を達成するために働いているのをみるのである」(『教育』147ページ)。
神は、終末時代の御自分の民のために模範となる人を与えてくださいます。ダニエルと友人たちは、聖書の世界観と対立する社会での生き方の手本としての役割を果たしています。信仰を妥協させ、主に対する献身を否定することになる問題においてバビロンの制度に譲歩するよう圧力をかけられたとき、神の言葉に忠実に留まりました。彼らが主に忠実で、誠心誠意献身した経験は、私たちが福音のために反対や迫害に遭うときに励ましとなります。同時にダニエル書は、国や社会に貢献しながら、主に献身し続けることが可能であることも示しています。
さらなる研究
「聖書は、創造主のみこころを知りたいと願うすべての者を導くために与えられたものである。神は人々に預言の確かな言葉をお与えになった。天使だけでなく、キリストご自身さえおいでになって、ダニエルとヨハネに、やがて起こるべき事柄についてお知らせになった。われわれの救いに関する重要な事柄は、秘密につつまれたままにしておかれなかった。それは、まじめに真理を求める者を惑わせ誤らせるようには示されていない。預言者ハバククは、神の言われたことを次のように記した。『この幻を書き、これを……明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ』(ハバクク2:2)。
祈りの精神をもって聖書を学ぶすべての者に、神のみ言葉は明らかに示され、真に誠実な者はだれでも、真理の光にくることができる。『光は正しい人のために現れ……る』(詩篇97:11)。教会員が隠れた宝を捜すように真理を熱心に探究しないならば、どの教会も聖潔に進むことはできない」(『希望への光』1850、1851ページ、『各時代の大争闘』下巻264、265ページ)。
「ダニエルと彼の仲間の歴史を研究しなさい。あの場所に生き、あらゆる面で自分自身を甘やかす誘惑に遭いながらも、彼らは日々の生活の中で神をたたえ、神に栄光を帰した。彼らはあらゆる悪を避けようと心に決め、敵の道に自分の身を置くことを拒否した。そして神は、彼らの確固たる忠誠心に豊かな祝福で報いてくださったのである」(『原稿集(224番)』第4巻169、170ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。