御足の跡を踏み従う【ペトロの手紙1―生ける望み】#8

目次

中心思想

キリストは十字架上で私たちの罪のための刑罰を受けられたゆえに、私たちをゆるし、私たちに勝利させてくださいます。また、私たちがキリストのために耐え忍ぶことのできる力を与えてくださいます。

アウトライン

  • キリストの罪なき模範(Iペテ2:21、22)
  • キリストの忍耐(Iペテ2:23)
  • 私たちの罪を負われるキリスト(Iペテ2:24前半)
  • 私たちの義、キリスト(Iペテ2:24後半)
  • 私たちの牧者、キリスト(Iペテ2:25)

神の命令

ポール・A・シーダーは、ペテロの第1の手紙に関連して次のように記しています。「しばらく前のこと、私はある実業家の人々と共にヤコブの手紙を研究していた。その話の中で、私はヤコブの重要な教えである「信仰』という言葉をとりあげて、聖書に教えられている信仰とは『積極的な服従』であること、また神が私たちを従順なしもべとなるように召しておられるといったことを強調したのである。ところが、彼らが初めに示した態度は驚きと反抗であった。

私たちの多くの者と同じように、彼らは自己中心的な生活におちいっていた。彼らはだれかのしもべとなることを望まないし、従順な生き方に対して好意的ではなかった。彼らが望んだのは、むしろ神が自分たちの生活の中に入ってきて、自分たちの望みを受け入れてくださることであった。

彼らは真のクリスチャンに必要な基本的要求の一つを拒絶していたのである。主イエス・キリストに従順に従い、仕えることは、真のクリスチャンの生き方に求められる選択権ではない。それは命令なのである」(『コミュニケーターズ・コメンタリー』ヤコブ、ペテロⅠ、Ⅱ、ユダ、148ページ)。

キリストの罪なき模範(Iペテ2:21、22)

質問1

私たちはキリストの生き方のどんな二つの面を模範とするように教えられていますか。Iペテ2:21、22

ある小学校の教室にアルファベット文字を書いた細長い紙がはってあります。生徒はその文字を書き写すことによって正しい書き方を覚えるのです。「模範」と訳されたギリシア語は注意深く手本に倣う子供を思い起こさせます。イエスはその生涯によってご自分の弟子たちの従うべき模範を残されました。イエスは忍耐をもって苦しみに耐え、あらゆる罪から自由であられました。

質問2

次の聖句はイエスに従う者たちにどんな基準を示していますか。ロマ6:4~13、18、22、ピリ2:5、1ヨハ、3:3~9、黙示3:21

内住されるキリストの力によって罪に勝利することは、新約聖書によく強調されている教えです。イエスが父なる神の力によって勝利されたように、私たちも神に信頼することによって勝利することができます。ペテロ第1.2:22はイザヤ書53:9の繰り返しになっています。ペテロはそのことを見ました。イエスのうちに偽りや汚れがなかったように、終わりの時代の印を受けた神の民にも偽りや汚れはありません(黙示7:3を黙示14:1、5と比較)。

私たちもイエスに似る者となる

「天国への道は救い主の時代と同じく決して平坦ではない。私たちのすべての罪が取り除かれなければならない。私たちの信仰生活の妨げとなるすべての大事にしている放縦を捨てなければならない。……どんなに限られたものであっても、私たちの交わりは自分に対して何らかの影響を与えるものである。……このように、キリストとの交際・交わりによって、私たちは唯一の完全な模範であるキリストに似る者となることができる」(『教会へのあかし』第5巻222、223ページ)。

キリストの忍耐(Iペテ:23)

質問3

イエスは不当な非難や虐待に対してどんな態度をとられましたか。Iペテ2:23

「ペテロはここで、最後の試みにおけるイエスの驚くべき慎みを強調している。宗教指導者たちはイエスの目に目かくしをし、つばを吐きかけ、こぶしで打ち、『言い当ててみよ』とからかうことによって、イエスを侮辱した(マル14:45、15:31、32参照)。ローマの兵士たちはイエスにいばらの冠をかぶせ、王のまねをしてからかった(マル15§17~20)。イエスが苦しんでおられるときに十字架のそばを通る者たちでさえ、イエスをののしった(マル15:29、’30)。

イエスはどのように応じられたであろうか。威厳ある沈黙をもってである。彼は仕返しをされなかった(マル14:61、15:5、ルカ23:9参照)。イエスの目的は正しかったが、その苦しみは不当なものであった。彼は神の小羊として、人類の罪のための刑罰を静かに負われた。イエスを苦しめた者たちでさえ、そのゆるしの輪の中に含まれていた」(ロバート・H・マウーンス『生ける望み』36、37ページ)。

質問4

イエスの苦難と忍耐について記すことによって、ペテロは私たちに何を教えようとしましたか。Iペテ2:20、21

何年か前のこと、ある子供が小児麻痺にかかり、それが原因で足が不自由になりました。ひとり息子がそのようになったことに怒りと恨みを抱いた父親は酒にひたり、ついにアルコール中毒になってしまいました。母親と子供にとって、毎日がまさに悪夢でした。そのうち二人は教会に通いはじめるようになり、やがてキリストを救い主として受け入れます。

ある晩、酔った父親は息子を激しく打ちたたきました。しかし、子供はじっとがまんしていました。不思議に思った父親は、なぜそんなに静かにしているのかとたずねました。少年は答えました。「ぼくがお父さんを愛しているからです。神さまはお父さんを愛しています。ぼくもそうです」。

この言葉は父親の心に強い印象を与えました。ある晩、聖霊に動かされた彼は息子にこう言いました。「お父さんも、お前やお母さん、それに神さまを愛するようになりたい。どうしたらいいだろう」。その晩、12歳の少年が父親をキリストに導き、劇的な変化が生じました(ポール.A・シーダー『コミュニケーターズ.コメンタリー』ヤコブ、ペテロⅠ、Ⅱ、ユダ、150ページより)。

私たちの罪を負われるキリスト(Iペテ2:24前半)

質問5

ペテロ第1.2:24にはイザヤのどんな言葉が繰り返されていますか。イザ53:4~6、8、10~12

キリストはただどのようにして死ぬかを示すために来られたのではありません。彼は私たちを死から救うために来られたのです。それは、私たちの罪をご自分の身に負うて、その刑罰を受けることによってなされました。罪に対する最終的な刑罰は永遠の死です(ロマ6:23、黙示20:14参照)。イエスはこれと同等の死を経験されたのです。

質問6

次の聖句は十字架上のキリストの苦難のもつ法的な側面についてどんなことを教えていますか。Iヨハ2:2、1ヨハ4:10、ヘブ9:28、Ⅱコリ5:21

1ヨハネ2:2、4:10で「あがないの供え物」と訳されているギリシア語は、新改訳では「なだめの供え物」となっています。このことから、この言葉が世の罪の責任を負われたキリストの罪祭をさしていることがわかります。

キリストは「わたしたちの罪をご自分の身に負われ」ました(Iペテ2:24)。彼は私たちの罪責を負われたので、その苦しみは最終的なものでした。事実、キリストの肉体的な苦痛は、父なる神からの分離がもたらす無限の苦悩に比べるなら小さいものでした。

キリストは罪に対する神の怒りに会われた

「われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫ひとりびとりの不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の恐るべきあらわれが、み子の魂を非常な驚きと恐れで満たした。……しかしいま、自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎの顔を見ることがおできに、ならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。この苦悩は、肉体的な苦痛などほとんど感じられないほど大きかった」(『各時代の希望』下巻274、275ページ)。

私たちの義キリスト(Iペテ2:24後半)

質問7

「義に生きる」とはどういう意味ですか(Iペテ2:24)。次の聖句から考えてください。Iコリ1:30、ピリ3:9、ロマ3:21、22、ロマ4:5

聖書は次の二点について教えています。

1.キリストの義は私たちのものとされる。

2.それは、私たちが信仰によってキリストを心に受け入れることによる。

マルチン・ルターはこのことを次のように表現しています。「したがって、信仰によって受け入れられ、心に生きておられるキリストは、真のクリスチャンの義であって、神はこのことのゆえに私たちを義とみなし、私たちに永遠のいのちを与えてくださるのである」(「ルター著作集、ガラテヤ書講義』第26巻130ページ)。

神は決して、自分の罪のうちにとどまる罪人を義とみなされることがありません。神はこう言われます。「わたしは悪人を義とすることはない」(出エ23:7)。神が不信心な者を義とされるのは、不信心な者が神を信じて、神の支配と内住に心をゆだねるからです。キリストは悔い改めて信じる罪人にご自分の義をお与えになるとき、同時にその信じる者の内にお入りになり、内住する義となられるのです(「セレクテッド.メッセージズ』第1巻366、397ページ参照)。

質問8

キリストはどのようにして私たちを義とされますか。ロマ3:7、1ヨハネ2:29、3:7

キリストが信じる者の心に臨在されるということは、つまり聖霊が臨在されるということです(ヨハ14:18参照)。キリストが聖霊によって信じる者の心にお住みになるとき、その人は内住する義を持つことになります。心に聖霊を与えられて、新しく生まれたクリスチャンは、神の目に正しいわざをなす力を持ちます(Iヨハ2:29)。彼がキリストと同じく義であるのは(Iヨハ3:7)、完全に義であられるキリストが聖霊によってその心に住んでおられるからです。

私たちの牧者、キリスト(Iペテ2:2)

質問9

ペテロはどんなたとえによって、私たちがキリストに全的に依存していることを強調していますか。Iペテ2:25

迷い出た羊が全く無力であるように、キリストを牧者としない罪人も全く無力です。彼らは自分をとりこにしている罪のわなから逃れることができません。彼らはまた、サタンが堕落した人間性を通してたえず働きかけてくる衝動や誘惑の犠牲者です。

主はご自分の民の頑迷さのゆえに嘆いておられます(エレ50:6参照、エゼ34:6比較)。

イエスはかつてご自分のもとに来られた群衆を養われました。イエスは今日も、救われていない多くの人々を心にとめておられます。「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」(マタ9:36)。

質問10

私たちの牧者として、イエスは私たちのために何をしてくださいますか。ルカ15:3~7、ヨハ10:1~16

私たちが道に迷うとき、イエスはあとからついてきてくださいます。私たちの人生がいかに厳しく、罪の誘惑がいかに強くても、イエスは限りないあわれみをもって私たちを捜し出してくださいます。私たちが彼の導きに従うとき、イエスは私たちをその強い肩にのせて、あたたかく安全なおりの中に入れてくださいます。

イエスはそれから私たちの傷をいやし、平和な牧場と生ける水の泉に導いてくださいます。「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザ40:11)。何とすばらしい救い主でしょう。

イエスはまた私たちの監督

1ペテロ2:25で用いられている「監督」という言葉は、監視者、管理者、保護者を意味します。新約聖書の中で4回、監督という言葉は神の民を世話する者としての牧師に対して用いられています(使徒20:28、ピリ1:1、1テモ3:2、テト1:7参照)。しかし、注意深くご自分の教会を見守られる大監督はイエスご自身です。

まとめ

キリストのように喜んで苦しみに耐えることによってまた罪に勝利させてくださるキリストにたえず信頼することによって、私たちはキリストの模範に従うべきです。キリストは聖霊によって私たちに義を与えてくださいますが、それは救いの基礎である十字架におけるキリストの犠牲のゆえです。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年3期『ペトロの第一の手紙 生ける望み』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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