炉の中から宮廷へ【ダニエル―主イエス・キリストの愛と品性の啓示】#4

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この記事のテーマ

「こうして、この青年たちは聖霊に満たされ、彼らが礼拝するお方だけが真の、生ける神であるという信仰を全国民に表明した。このような青年たちの信仰の実証は、彼らの原則の最も雄弁な提示であった。生ける神の力と偉大さを偶像礼拝者に印象づけるには、神の僕たちが神に対する畏敬の念をあらわさなければならない。神が彼らの称賛と礼拝の唯一の対象であられること、またどんな理由も、命を守ることさえも、偶像礼拝に譲歩するよう彼らを少しも誘惑しえないことを明らかにしなければならないのである。このような教訓は、終末時代における私たちの経験と直接的かつ重要な関係がある」(『天上で』149ページ、英文)。

礼拝の問題のゆえに死の脅威に直面するなどということは、科学以前の時代、迷信的時代のことのように思えるかもしれません。しかし聖書は、この世が大いに「進歩した」終末時代に、同様のことが起きると、しかも世界規模で起きると明らかにしています。それゆえ、私たちはこの物語を学ぶことで、聖書によれば、神の忠実な者たちが遭遇するであろう問題に対して洞察を得るのです。

金の像

問1

ダニエル3:1~7を読んでください。王がこの像を造ったのは、おそらくどのような動機からですか。

あの夢からこの像の建設までの間に、幾年かが経過しました。それにもかかわらず、王は、夢と、バビロンがほかの勢力に置き換わるように運命づけられているという事実を、もはや忘れられなかったようです。頭だけが純金であることに満足できなかった王は、自分の国が歴史上ずっと存続することを臣民に伝えるため、全体が純金の像によって象徴させたいと思ったのです。

このような高慢な考え方は、バベルの塔を建てた人たちを思い起こさせます。彼らは傲慢にも、神御自身に挑戦しようとしました。ここでのネブカドネツァルも同様に傲慢です。彼はバビロンの支配者として多くを成し遂げたので、自分の王国が最終的に消え去るという考えを抱きながら生きられなかったのです。それゆえ、自己称揚の努力の一環として、自分の権力をまざまざと再現し、それによって臣民の忠誠心を評価するために像を建てました。この像が王や神を象徴することを意図したものであったかどうかは定かでないかもしれませんが、大昔は、宗教と政治を区別する線が、(たとえ存在したとしても、)しばしばあいまいであったことを、私たちは覚えておくべきです。

私たちはまた、ネブカドネツァルには真の神を知る機会が二度あったことも忘れてはなりません。第一に、彼は若いヘブライ人たちを試験し、彼らがバビロンの賢者たちよりも十倍優れていることを知りました。次に、あらゆる専門家が王に夢を思い出させることに失敗したあと、ダニエルが王の心の思い、夢、夢の解釈を伝え、最終的に王は、ダニエルの神のすばらしさを認めました。しかし驚くべきことに、それまでの神学的教訓は、ネブカドネツァルが偶像礼拝に戻るのを防ぐことができませんでした。なぜでしょうか。十中八九、高慢が原因でしょう。罪深い人間は、自分たちの物質的、知的業績がむなしいものであり、消え去る運命にあるという事実を認めたがらないのです。時折、私たちは自分の業績に意識を向けすぎ、永遠を前にしてそれらがいかに無意味であるかを忘れ、小さな「ネブカドネツァル」のように振る舞うことがあるかもしれません。

礼拝への招集

問2

ダニエル3:8~15、黙示録13:11~18を読んでください。ダニエルの時代に起こったことと将来起こるであろうことの間に、どのような類似点を見ることができますか。

ドラ(アッカド語で「壁で囲まれた所」の意)の平野に立つ金の像は、その区域が広大な聖所であるかのような印象を与えます。あたかもそれでは十分でないかのように、近くの炉は祭壇を連想させます。バビロンの音楽が儀式には欠かせません。あたかもその崇拝儀礼の完璧さ、有効性を示唆するように、多くの楽器が列挙されています。

今日、私たちは、新しいライフスタイル、新しい価値体系を取り入れ、御言葉の中に示された神の権威に献身する代わりに、現代のバビロン帝国の後継者たちに忠誠を尽くすようにと、四方八方から攻撃を受けます。この世の魅力は、時として圧倒的に思えますが、私たちは、私たちの究極的忠誠が創造主なる神に属することを思い出すべきです。

預言の予定表によれば、私たちは地球史の最後の時代に生きています。黙示録13章は、地球の住民が獣の像を拝むように命じられるだろうと告げています。その存在は、「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた」(黙13:16)。

6種類の人たちが、獣の像に忠誠を誓うと書かれています―「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも」。獣の数字である666も6を強調しています。これは、ネブカドネツァルによって建てられた像が、終末論的バビロンが終わりの時代にすることの例証にすぎないことを示しているのです(6と60の比喩的表現についてはダニ3:1参照)。それゆえ、私たちは、この物語の中で起きることや、神がいかに主権を持ってこの世の出来事を方向づけておられるかということに、細心の注意を払うことが賢明です。

火の試練

その3人のヘブライ人にとって、王から強要された像の礼拝は、エルサレムにおける神殿礼拝の露骨な模造品でした。彼らは帝国の中で官職に就き、王に忠実でしたが、神に対する彼らの忠誠心は、人間に対する忠誠心に勝るものでした。彼らは忠実な行政官として王に喜んで仕え続けたいと思っていましたが、その儀式に加わることはできませんでした。

問3

出エジプト記20:3~6と申命記6:4を読んでください。これらの聖句は、この人たちが明確にした態度に確実に影響を及ぼしたどのようなことを告げていますか。

王が発した命令に従って、すべての人が楽器の音とともにひれ伏し、金の像を拝みました。その3人―─シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ―─だけが、あえて王の言うことに従いませんでした。直ちに、数人のバビロニア人がこの件を王に伝えました。この告発者たちは、次のように言うことで王を激怒させようとします―─①この3人の青年にバビロンの行政を任せたのは王自身であり、②このユダヤ人たちは王の神々に仕えず、③王が建てた金の像を拝まない、と(ダニ3:12)。しかし、3人に対する激しい怒りにもかかわらず、王は彼らに第二のチャンスを与えます。王は自ら進んですべての式次第を繰り返させ、この青年たちが自分の態度を取り消し、像を拝めるようにしたのです。万一彼らがそれを拒めば、燃え盛る炉に投げ込まれます。そしてネブカドネツァルは、非常に傲慢な主張で彼の訴えを締めくくりました―─「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(ダニ3:15)。

超自然の勇気に満ちあふれた彼らは、王に答えます。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニ3:17、18)。

第四の人

問4

ダニエル3:19~27を読んでください。どのようなことが起きましたか。火の中の別の人はだれですか。

忠実なヘブライ人たちを火の中に投げ込んだあと、ネブカドネツァルは炉の中に第四の人がいるのに気づいて当惑します。王が知る限りにおいて、彼はその第四の人物を「神の子」(ダニ3:25)と見なしています。

王はそれ以上のことを語れませんが、私たちはその第四の人がだれであるかを知っています。彼は、ソドムとゴモラが滅びる前にアブラハムにあらわれ、ヤボクの渡しのかたわらでヤコブと格闘し、燃える柴の中でモーセに御自身をあらわされました。彼は、受肉される前のイエス・キリストでした。苦境に陥った御自分の民とともに神がおられることを示すために来られたのです。

エレン・G・ホワイトはこう記しています。「しかし主はご自身の者たちをお忘れにならなかった。主の証人たちが炉の中に投げ入れられた時に、救い主は彼らにご自身をあらわされた。そして自ら彼らとともに火の中を歩かれた。熱と冷気を支配される主の前にあっては、炎も焼きつくす力を失った」(『希望への光』576ページ、『国と指導者』下巻117ページ)。

神がイザヤ書の中でおっしゃっているとおりです―─「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない」(イザ43:2)。

私たちはこのような物語が好きですが、信仰に対する迫害から奇跡的に救い出されなかった人たちはどうなのかという疑問が生じます。聖なる歴史を通じて、しかも現代に至るまで、忠実なクリスチャンたちはひどい苦しみを耐えてきました。少なくともこの地上において、彼らはその苦しみから奇跡的に救出されることなく、痛ましい死を遂げました。ここにあるのは、忠実な者が奇跡的に救われた一つの事例ですが、知ってのとおり、そのようなことはしょっちゅう起こることではありません。

そのような信仰の秘訣

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの経験を振り返るとき、「これほど強い信仰の秘訣は何なのだろうか」と、私たちは自問するかもしれません。彼らはどうして、像を拝むことよりも生きたまま焼かれることを進んで受け入れることができたのでしょうか。彼らが王の命令に従ってひれ伏すことを正当化できた方法をいろいろ考えてみてください。しかし、ほかの多く人たちと同様、彼らは死ぬかもしれないことを自覚しつつも、自分の立場を貫いたのです。

問5

ヘブライ11章を読んでください。信仰について何を教えていますか。

このような信仰を育むには、信仰とは何かということを理解する必要があります。ある人たちは、信仰を量的にとらえています。彼らは、神から与えていただいたと思われる答えによって自分の信仰を量るのです。ショッピング・モールに行くとして、彼らは、駐車場が空いているようにと祈ります。到着したときに、駐車スペースがあれば、自分は強い信仰を持っていると判断します。もしすべての駐車スペースが埋まっていたら、自分の信仰は、神が祈りを聞いてくださるほど強くないのだ、と考えます。このような信仰の理解は危険です。なぜなら、それは神を操作しようとし、神の主権と知恵を考慮に入れていないからです。

実際には、ダニエルの友人たちに見られるように、真の信仰は、私たちと神との関係の質と、その関係の結果としての神への絶対的信頼によって量られます。本物の信仰は、私たちの意志に従わせるために神の意志を曲げようとはしません。むしろ、私たちの意志を神の意志に従わせるのです。すでに見たように、3人のヘブライ人の青年は、王に異議を申し立て、神に忠実であり続ける決心をしたとき、神が彼らのために計画しておられることを正確には把握していませんでした。彼らは結果にかかわらず、正しいことをしようと心に決めたのです。これが、成熟した信仰を真に特徴づけるものです。私たちが真の信仰を示すのは、自分の望むことを主に祈り求めつつも、神が私たちにとって最善をなしてくださると信じるときです。たとえ、何が起きているのか、なぜ起きているのか、私たちには理解できないときにも……。

さらなる研究

「ドラの平野でのヘブルの青年たちの経験から学ぶべき教訓は、実に重大である。このわれわれの時代においても、神のしもべたちの多くは何の悪い行為もしていないにもかかわらず、サタンにそそのかされてねたみと宗教的頑強さに満たされた人々の手に渡されて、屈辱と迫害を受けるのである。特に第4条の安息日を清くする者に対しては、人々の激しい怒りが燃やされる。そしてついに、世界的法令が発布されて、これらの人々を死に価する者として告発するのである。

神の民はこれらの悩みの時を前にして、揺らぐことのない信仰を持たなければならない。神の民は、ただ神だけが礼拝の対象であること、そしていかに重大なことであり、それが生命そのものにかかわるものであっても、彼らを偽りの礼拝に少しでも妥協させることはできないことを明らかにしなければならない。忠実な心の持ち主にとっては、罪深い有限な人間の命令は、永遠の神の言葉と比較する時に、全く無意味なものとなってしまうのである。たとえ投獄と追放の憂き目に遭い、死に処せられても真理には従うのである」(『希望への光』577、578ページ、『国と指導者』下巻120、121ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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