この記事のテーマ
高慢は最初の罪と呼ばれてきました。それは、天の宮廷の天使ルシファーの中に初めてあらわれたものです。そういうわけで、神はエゼキエルに、「お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした」(エゼ28:17)と言っておられます。
高慢がルシファーを堕落させたので、彼はその高慢を用いて、数えきれない人々を破滅へと導いています。私たちはみな、堕落した人間であり、存在することそのものを神に依存しています。私たちが持つどんな賜物も、その賜物を用いて成し遂げるどんなことも、神からしかもたらされません。それゆえ、実際には、私たちの行うあらゆることを謙遜が支配するべきなのに、私たちはよくもまあ、高慢で、うぬぼれで、尊大でいられるものです。
ネブカドネツァルが謙遜の重要性を理解するには、長い時間がかかりました。燃え盛る炉の中に第四の人があらわれたことでさえ(先週の研究参照)、彼の人生の方向性は変わりませんでした。神が王国を取り上げ、彼を野の獣とともに生活するように追放されたあと、ようやく王は自分の真の立場を認めたのです。
バビロンは偉大ではないか
問1
ダニエル3:31~4:30(口語訳4:1~33)を読んでください。どのようなことが王の身に起こりましたか。なぜ起こったのですか。
神はネブカドネツァルに第二の夢をお見せになりました。今回、王は夢を忘れませんでした。しかし、バビロンの専門家たちがまたもや失敗したので、王は夢の解釈をさせるためにダニエルを呼び出しました。王が夢の中で見たのは、天に届くほど大きな木で、天使がこの木を切り倒すように命じています。切り株と根だけは地中に残され、天の露にぬれるままにされました。しかし、ネブカドネツァルを悩ませたに違いない部分は、天使が次のように言った部分でした―─「その心は変わって、人の心を失い/獣の心が与えられる。こうして、七つの時が過ぎるであろう」(ダニ4:13〔口語訳4:16〕)。夢の深刻さを認識したダニエルは、この夢が王の敵に関するものでありますように、と丁重に希望を述べます。しかし、夢によって伝えられたメッセージに忠実であるダニエルは、実際にはこの夢が王自身に関するものであると言いました。
聖書の中で、木は、王、民、帝国などの象徴(エゼ17章、31章、ホセ14章、ゼカ11:1、2、ルカ23:31)としてよく用いられています。それゆえ、この大きな木は傲慢な王にふさわしい象徴です。神はネブカドネツァルに支配と権力をお与えになりましが、それにもかかわらず、王は自分の所有物がすべて神からもたらされたものであることをいつまでも認めなかったのです。
問2
ダニエル4:27(口語訳4:30)に注目してください。主がお与えになった警告をまだ理解していないことを示すどんなことを、王は口にしていますか。
高慢がとても危険なのは、おそらく、私たちがあらゆるものをどれほど神に依存しているかを忘れてしまうからです。ひとたびそのことを忘れるなら、私たちは霊的に危険な状態になります。
預言者によって警告される
問3
ダニエル4:24(口語訳4:27)を読んでください。これから起きることについての警告とともに、ダニエルは王に、どのようなことをしてください、と言いましたか。なぜそう言ったのですか(箴言14:31も参照)。
ダニエルは夢を解釈するだけでなく、この状況を抜け出す方法をネブカドネツァルに指し示しました―─「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」(ダニ4:24〔口語訳4:27〕)。
ネブカドネツァルは大規模な建造工事をバビロンで行いました。庭園、運河、多くの神殿、そのほかの建造計画は、この町を古代世界の不思議の一つに変えました。しかし、そのような壮麗さや美しさは、少なくともある程度、奴隷たちから労働力を搾取し、貧しい人たちをなおざりにすることによって実現したのです。さらに帝国の富は、王とその側近たちの享楽を満たすために用いられていました。それゆえ、ネブカドネツァルの高慢は、彼が神を認める妨げになったばかりか、結果として、貧窮している人たちの困難に気づく妨げにもなったのです。神が貧しい人たちに示された特別な配慮を思えば、ダニエルが王の前に明らかにできたはずのほかの罪の中から、彼らをなおざりにした罪だけを選び出したことは、驚くに当たりません。
ネブカドネツァルへのメッセージは、決して目新しいものではありません。旧約聖書の預言者たちは、貧しい人たちを虐げないように、と神の民をしばしば警告しました。王の追放をもたらした罪の中でも、困窮している人たちをなおざりにしたことは際立っています。結局のところ、貧しい人たちへの思いやりは、クリスチャンの慈悲の最高のあらわれであり、逆に、貧しい人たちを搾取し、なおざりにすることは、神御自身を攻撃するのに等しいのです。貧窮している人たちのお世話をすることによって、私たちは、神がすべてを所有しておられることを認めます。つまり、私たちは所有者ではなく、神の財産の管理人にすぎないということです。
私たちの所有物を用いて他人に奉仕することで、私たちは神をほめたたえ、神が主であることを認めます。物質的所有物の価値や機能を究極的に決めるのは、神の所有権であるべきです。この点でネブカドネツァルは失敗しましたが、私たちも失敗する危険性があります。もし私たちが、私たちの功績に対する神の主権を認め、困っている人たちを助けることによって、この現実への認識をあらわさなければ……。
いと高き神の支配
悔い改めて神の赦しを求めるようにと言われたにもかかわらず、ネブカドネツァルの高慢はしぼむことなく、天の宣告が実行されることになりました(ダニ4:25~30〔口語訳4:28~33〕)。王宮の屋上を歩きながら、自分の成し遂げたものを自画自賛しているとき、王は精神障害を患い、宮廷から追放されざるをえなくなったのです。「狼化妄想症(狼憑き)」とか「獣化妄想症(獣憑き)」と呼ばれる病的精神状態を、彼は体験したのかもしれません。そのような精神状態の患者は、動物のように行動します。現代では、このような病気を「身体違和」と呼んでいます。自分の体が異なる種の体であるように感じられ、それゆえに動物になりたいと強く思うことです。
問4
列王記下20:2~5、ヨナ3:10、エレミヤ18:7、8を読んでください。これらの聖句は、王が罰を回避できた可能性について、どのようなことを述べていますか。
残念ながら、ネブカドネツァルはつらい体験をして学ばざるをえなくなります。王権を与えられていたとき、彼は神との関係についてじっくり考えることができませんでした。それゆえに神は、ネブカドネツァルから王権をはく奪し、野の獣とともに生きるように彼を追放することによって、彼が全面的に神に依存していることを自覚する機会をお与えになったのです。要するに、神が傲慢な王に教えたいと願われた究極の教訓は、「天こそまことの支配者である」(ダニ4:23〔口語訳4:26〕)ということでした。確かに、王に下された裁きには、神の御計画のはるかに大きな目的がありました。そのことは、天使の宣告の中ではっきり言いあらわされているとおりです―─「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである」(同4:14〔口語訳4:17〕)。
言い換えれば、ネブカドネツァルに適用された罰は、私たち全員にとっても教訓となるべきものです。私たちも「人間」に属するのですから、学ぶべきこの主要な教訓―─「人間の王国を支配するのは、いと高き神であ(る)」―─にもっと注意を払わねばなりません。
目を上げて天を仰ぐ
問5
ダニエル4:31~34(口語訳4:34~37)を読んでください。王にとって、状況はどのように、しかもなぜ、変わったのですか。
神は、ネブカドネツァルが奇妙な病気にかかることを許されたものの、最終的に彼を健康な精神状態へ快く回復してくださいました。興味深いことに、すべてが変わったのは、預言者によって予告されていた7年の終わりに、病んでいた王が目を上げて天を仰いだときでした(ダニ4:31〔口語訳4:34〕)。
「ネブカデネザルは7年の間、全国民の驚きの的であった。彼は7年の間、全世界の前で屈辱をこうむった。それから彼の理性が回復されて、彼は心を低くして天の神を見上げ、この懲罰が神の手によるものであることを認めた。彼は公の布告の中で自分の罪を認め、彼を回復させて下さった神の大きな憐れみを認めた」(『希望への光』580ページ、『国と指導者』下巻127ページ)。
間違いなく、私たちが目を上げて天を仰ぐとき、大きな変化が起こりえます。理解力が戻るや否や、王はこの教訓を学んだという証拠を示しました。
しかしこの物語は、ネブカドネツァルに関する物語というよりも、神の憐れみに関する物語です。王は、イスラエルの神を自分の人生の主として受け入れる機会をこれまでに3回逃しました。4人の若いユダヤ人捕虜の並外れた知恵を認めたとき(ダニ1章)、ダニエルが王の夢を解き明かしたとき(同2章)、3人のヘブライ人青年が燃え盛る炉から救出されたとき(同3章)、そのような機会が彼に与えられたのです。結局のところ、あのような救出劇を見ても王は謙遜にならなかったのに、どうしたら謙虚になるのでしょうか。この支配者の頑固さにもかかわらず、神は第四の機会を与え、遂に王の心を勝ち取り、彼を王の職に回復されたのです(同4章)。ネブカドネツァルの場合が例示しているように、神は私たちに、神との正しい関係を回復する機会を次々と与えてくださいます。何世紀も前にパウロが記したとおり、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモ2:4)。私たちはネブカドネツァルの物語の中に、この真理の説得力ある実例を見るのです。
謙虚で感謝にあふれた
問6
悔い改めた王は、「すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて/何をするのかと言いうる者はだれもいない」(ダニ4:32〔口語訳4:35〕)と断言します。状況を考えるなら、彼はどんな重要な指摘をしていますか。
ネブカドネツァルが本当に心から真の神を受け入れたと、どうして私たちはわかるのでしょうか。ネブカドネツァル自身がダニエル4章の著者であるという事実の中に、私たちは重要な証拠を見いだします。確かに、この章の大部分は、王が広大な帝国に配布した手紙の写しのようです。その手紙の中で、王は自分の高慢と精神異常に触れ、神が彼の人生に介入してくださったことを謙虚に認めています。古代の国王たちは、自分自身の権威を傷つけるようなことをめったに書きませんでした。私たちが知る古代王室の記録文書は、実質的に王を称賛するものばかりです。それゆえ、王が自分の高慢と獣のような行動を認めているこういった記録文書は、純粋な回心を指し示しています。加えて、自分の経験談を語り、神の主権を謙虚に認める手紙を書くことによって、王は宣教師の役割を果たしています。王はもはや、自分が経験したことや真の神から学んだことを自らの胸に隠しておくことができなかったのです。従って、王の祈りと賛美(ダニ4:31~34〔口語訳4:34~37〕)の中に私たちが見たものは、彼の体験の真実を明らかにしています。
今や王は異なる価値観を持ち、人間の力の限界を認めることができます。深い感謝の祈りの中で、王はダニエルの神の力を賞賛し、「すべて地に住む者は無に等しい」(ダニ4:32〔口語訳4:35〕)と認めています。つまり、人間には自慢できるようなものが何もないということです。それゆえ、ダニエル書の中で最後に垣間見られるネブカドネツァルは、謙虚で感謝にあふれている王、神をほめたたえ、私たちに高慢を警告している王です。
言うまでもなく、神は今日も人々の人生を変え続けておられます。どれほど人が高慢で、罪深くても、神には、反抗的な罪人を天の神の子らに変える憐れみと力があるのです。
さらなる研究
「かつての高慢な王は、謙遜な神の子となった。暴君的で専制的な王が、賢明で恵み深い王になった。天の神に反抗して神をののしった王が、今はいと高き神の力を認めた。そして熱心に主を恐れて、国民の幸福を追求するようになったのである。ネブカデネザルは、王の王、主の主であられる神の譴責を受けて、ついにすべての王が学ばなければならない教訓を学んだ。それは、真に偉大であるということは、真にいつくしみ深くあるということである。彼は主が生ける神であることを認めて、『そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる』と言った(ダニエル4:37)。
世界最大の王国が神をほめたたえるようになるという、神のみこころは達成されたのである。ネブカデネザルが、神の憐れみといつくしみ深さと権力とを認めたこの公の布告は、聖書の歴史に記されている彼の生涯の最後の行為となった」(『希望への光』581ページ、『国と指導者』下巻128、129ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。