クリスチャンと苦難【ペトロの手紙1―生ける望み】#12

目次

アウトライン

  • 火のような試練(Iペテ4:12)
  • キリストのために苦しむ(Iペテ4:13、14)
  • 罪は苦難を招く(Iペテ4:15、16)
  • 信者のさばき(Iペテ4:17)
  • 不信者のさばき(Iペテ4:17~19)

人間はなぜ苦しむのか一人のやせ衰えた男がインドのウルベラにある森の木の下に座っていました。彼は一日に一個の果物でいのちをつないでいました。その手足は枯れたつる草のようであり、その背骨はねじれたロープのようであり、目はくぼんで、深い穴のようでした。また、手で腹を押せば、背骨にふれるほどでした。これが、難行苦行によって悟りを開こうとしたゴータマ・ブッダの姿でした。彼は、哲学者や宗教者がつねに直面してきた人間の苦しみとその原因という大問題と闘っていたのです(ジョン.B・ノス『人間の宗教』第3版172、173ページより)。

聖書はこの問題を理解するための鍵を与えています。エレン・ホワイトの「争闘シリーズ」も、キリストのサタンとのあいだの各時代における大争闘について描写しています。その結果として、セブンスデー・アドベンチストは人間の苦しみと死の原因・理由について、よりはっきりとした理解を持つことができます。

火のような試練(Iペテ4:12)

質問1

クリスチャンは人生にどんなことを覚悟すべきですか。Iペテ4:12

これは使徒ペテロが苦難の問題について述べている第3の場面です。第1の場面(1ペテ2:18―25)では、しもべや奴隷が主人から受ける虐待のことが扱われています。そこでは、苦しみを耐え忍ばれたイエスが偉大な模範として示されています。第2の場面(1ペテ3:13―17)では、義のために苦しむ者は祝福された者であると教えられています。そして、ペテロは今週の研究において、キリストと共に苦しむ者は、またキリストと共に栄光を受けると教えています。

質問2

クリスチャンが直面する人生のあらゆる困難や試練の背後には、だれがいますか。1ペテロ5:8

獲物をあさる獅子のように、サタンはイエスを信じる人々に忍び寄ってきます。彼は試練と苦しみを通して、イエスに従う者たちに失望と疑いを抱かせ、それによって彼らをイエスから離れさせようとします。しかし、忍耐強くイエスに信頼し続けるなら、敵の攻撃は祝福に変わります。

「試練は、神の子らをこの世の不純なものからきよめるために、キリストの学校において与えられる教育の一部である。試みの経験がやってくるのは、神がその子らを導いておられるからである。試練や障害は、神がお選びになった訓練方法であり、神が指定された成功の条件である」(『患難から栄光へ』下巻224ページ)。

「私たちが試練に耐えるように求められるのは、主イエスが私たちのうちに発達させたいと望む何か非常に価値あるものを認めておられるからである。もし私たちのうちにみ名の栄光になるもの何もご覧にならないなら、わざわざ時間を割いて私たちを清められることもないであろう。私たちは特別な苦労をしてまで、いばらの剪定をしない。キリストも価値のない石をご自分の炉に投げ入れることはない。キリストが試されるのは価値のある鉱石である。

鍛冶屋が鉄や鋼を火に入れるのは、それがどんな金属であるかを知るためである。主がご自分の民を苦難の炉に入れられるのは、彼らがどんな気性の持ち主であるか、また彼らをみわざにかなう者として作り上げることができるか否かを知るためである」(『教会へのあかし』第七巻214ページ)

キリストのために苦しむ(1ペテロ4:13、14)

質問3

クリスチャンは厳しい試練に会っても不思議に会うべきではないのはなぜですか。ヨハネ15:18、19

しもべは主人にまさるものではない

イエスに従う者たちは、イエスと同じ扱いを受けることを予期しておかなければなりません。このことは大争闘の光に照らして考えるときにのみ理解できます。イエスと彼に従う者たちはサタンにとって邪魔者なのです。

「世は罪を愛し、義を憎む。これがイエスに対する世の敵意の原因であった。イエスの限りない愛をこばむ者はみなキリスト教を一つの邪魔な要素と考える。キリストの光が、彼らの罪を覆っている暗黒を払い除け、改革の必要が明らかにされる。聖霊の感化に服する人は自己との戦いを始めるが、罪に執着する人は、真理とその代表者たちに向かって戦いをいどむ。

こうして衝突が生じ、キリストに従う者たちは、民を悩ます者として非難される。しかし彼らに世の敵意が向けられるのは、彼らが神とまじわっているからである。彼らはキリストへの非難を負っているのである」(『各時代の希望』中巻10ページ)。

ペテロは今まで一度も信仰のゆえに迫害された経験のない異邦人の回心者たちに語っていました。ペテロは彼らの心を人生の明るい面に向けさせています。

質問4

クリスチャンが苦しみの中にあって喜ぶことができるのはどうしてですか。1ペテロ4:13、14、使徒5:41、ローマ8:17

クリスチャンがキリストのために苦しむときに喜ぶことができるのは、苦しむことが好きだからではなく、むしろサタンと罪に対する戦いがいつでも反対を引き起こすことを知っているからです。キリストに従う者たちは失われた魂を救う神の計画に献身した人たちです。それゆえに、彼らはサタンの攻撃を受けるのです。彼らの喜びと平安はキリストの目的が正しいという確信に基づいています。

「この世にあって、私たちは厳しい試練に会い、多くの犠牲を払わなければならない。しかし、キリストの平安がその報酬である。自己犠牲があまりにも小さく、キリストのための苦しみがあまりにも少ないので、十字架が全く言っていいほど忘れられている。キリストと共にその王座につこうと望むなら、キリストと苦しみを共にしなければならない」(『教会へのあかし』第五巻215ページ)。

罪は苦難を招く(1ペテロ4:15、16)

質問5

サンへドリンによって脅迫され、むちで打たれても、使徒たちが心の平安と確信を失うことがなかったのはなぜですか。使徒5:40、41

使徒たちの心は純粋で、心からキリストのために献身していました。どんなに迫害されても、その伝道に対する熱意は衰えることがありませんでした。むちで打たれ、死の脅迫を受けたとき、彼らは以前にもまして熱心に福音を宣べ伝えました。わたしたちにもそのような勇気があるでしょうか。

「放縦という安易な道を選び、自己犠牲を恐れている限り、私たちの信仰は決して強化されないし、また意識的な勝利からくるイエスの平和も喜びも知ることができない。白い衣を着て神と小羊のみ座の前に立つあがなわれた群衆のうち最も高位の者たちは、勝利の戦いを知っている。なぜなら、彼らは大いなる患難を通ってきたからである。この戦いに加わらないで、状況に屈従した者たちは、大いなる怒りがすべての魂に臨むその日に立つことができないであろう」(『教会へのあかし』第5巻215ページ)。

四つの真理

ペテロの言葉は次の四つの点を明らかにしています。

(1)イエスに従う者たちは迫害と試練を免れません。(2)試練と苦しみはすべてのクリスチャンの霊性をためすものです。(3)イエスのために苦しむことによって、私たちは彼の苦しみにあずかります。(4)もし終わりまで耐え忍ぶなら、私たちはキリストの栄光に預かります。

質問6

クリスチャンとして受ける苦しみははずべきものではありませんが、私たちはどんな原因からくる苦しみを努めて避けるべきですか。1ペテロ4:15

「他人に干渉する者」という表現は、他の古代ギリシャ文学にはどこにも出てこないものです。文字通りの意味は、「他人のものをのぞく」です。ペテロはクリスチャンに対して、他人の個人的な問題に口出ししないように勧告しています。

信者のさばき(Iペテ4:17)

キリストの死とよみがえりによって人類の歴史の最後の時代が始まったと信じていたペテロは(Iペテ1:20、4:7)、さばきの時もまた到来したと確信していました。キリスト教時代を通じて、神はキリストに属する人とそうでない人とを判別してこられました。しかし、この事実は終わりの時代の天における調査審判の現実を否定するものではありません。悔い改めたイスラエル人は1年を通じてゆるされてきました(レビ4:26、31、35)。しかし、あがないの日までは、その年の最終的なさばきはなされませんでした。それは聖所と人間の両方をきよめるものでした(レピ16:29~34参照、ダニ7:9~14、8:14比較)。

質問7

さばきはどこから始まりますか。1ペテ4:17、エゼ9:4~11

エゼキエル書9:5、6では、身にしるしのある者たちがいのち受ける者とされています。聖所において殺された人たちは、つねに神に反逆していた人たちです(黙示7:1~3参照)。再臨前の、調査審判において、神の民は無罪とされます(ダニ12:1―黙示3:5比較)。キリストのあわれみを拒んだ人たちはあとでさばかます。

エレン・ホワイトは1ペテロ4:17を再臨前の、調査審判と関連づけている

「象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出て、その罪が罪祭の血によって聖所に移された者だけが、贖罪の日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と調査審判の大いなる日に、審査されるのは、神の民と称する人々だけである。……悪人の審判は、これとは全く別の働きで、もっとあとで行なわれる。『さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちから始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろう・か』(1ペテロ4:17)」(「各時代の大争闘』下巻211、212ページ)。

質問8

私たちに対する再臨前の調査審判の結果は何にかかっていますか。黙示3:5、19:7、8

キリストの義の衣は、新生の経験において聖霊によって信者に与えられます(ヘブ8:9、10、1ヨハ2:29、3:7参照)。これは信じる者に与えられるキリストの、変化をもたらす恵みの賜物で

す(エペ2:8~10参照)。勝利する者はイエスとの日ごとの交わりによってこの賜物を保有し、天の法廷において、いのちの書に永遠にその名を記される決定が下されることによって、再臨前の審判において無罪とされるのです

不信者のさばき(Iペテ:147 ̅19)

質問9

悪人の記録は大争闘の歴史のどの時点で調査されますか。判決はいつ下されますか。黙示20:4、11~15(マタ25:41~46比較)

キリストを受け入れたことがないため、いのちの書に一度もその名を記されたことのない人たち、また義の衣を保有しなかったためいのちの書からその名を消された人たち(ダニ12:1、黙示3:5)は、自分たちがまだ墓の中にいる千年期のあいだにさばかれます(黙示19:19~21、20:1~4参照)。千年期が終わると、悪人は死からよみがえらされ(黙示20:5)、永遠の死の宣告を受けます(黙示20:11~15)。

「全世界の悪人たちは、天の政府に対する大反逆という罪名のもとに神の法廷に告訴される。彼らを弁護する者もなければ、言いわけの余地もない。こうして永遠の死の宣告が彼らに下される」(『各時代の大争闘」下巻454ページ)。

質問10

さばきのことを考えて、ペテロは自分の魂をだれにゆだねるように読者に勧めていますか。Iペテ4:19

自分を神にゆだねることは積極的な善行を含む

「『ゆだねるがよい』[Iペテ4:19]と訳されているギリシア語動詞は深い意味を持っている。古典文学において、それは友人にお金を預けるときに用いられている。昔は銀行がなかったので、人は長旅に出るときには信頼できる人に自分の硬貨を預けたのである。そのような信頼を裏切ることは重大な犯罪であった。苦しむ者たちは、神が預けた物を最大の思いやりをもって守ってくださるという確信をもって自分のいのちを神の御手にゆだねることができる。十字架上で大声で叫ばれたときのイエスについても同じ動詞が用いられている。『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』(ルカ23:46)。……自分自身を神にゆだねることは消極的な服従ではない。それは積極的な善行を含む。たしかに信じる者たちは不信仰な世の敵意に耐えなければならないが、自分から不必要に殉教を招くことはない。静かに苦しめ。しかし、良いわざに満ちた積極的な人生を生き続けよ」(ロバート・H・マウンス『生ける望み』78、79ページ)。

まとめ

人間はキリストとサタンとの大争闘の焦点となったので、キリストを受け入れる者はサタンの怒りを受ける運命にあります。神はこの争闘において経験する苦しみを用いて私たちの品性を作り上げられます。しかし、サタンは神の定められた限度を越えて神の民を悩ますことはできません。さばきにおいて、神はご自分を信じた者たちを無罪とされますが、神のあわれみを拒んだ者たちは有罪とされます。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年3期『ペトロの第一の手紙 生ける望み』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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