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ダニエル書9章は聖書の中でも最も感動的な祈りの一つをもって始まります。天で「大いに愛せられている者」と呼ばれているダニエル(ダニ9:23)は、自分自身を罪深い民の一人と見なし、心から神の祝福を祈り求めます。彼はなおバビロンに留まっている同胞のために主に執り成しています。
ダニエルが祈っていると、天使ガブリエルが現れ、旧約聖書の預言の「至宝」といわれる預言を語ります。アイザック・ニュートン卿はダニエル書9:24~27を評して、「キリスト教信仰の礎石」と言いました。ほとんど500年も前に、メシアの現れる時期、その公的生涯の期間、罪のための贖いの死を予告しているからです。
ダニエル書9章を研究するにあたっては、8章との関連を念頭におく必要があります。(1)同じ天使がダニエルを再訪している(ダニ9:21)。
(2)ダニエルは先の幻を思い起こしている(21節)。(3)ダニエルに幻を悟らせよというガブリエルへの命令(8:16)がダニエル書9:23でも繰り返されている。(4)8章で説明されていない時間的な要素がダニエル書9:24~27の主題となっている。
ダニエルの祈り(ダニ9:1~19)
ダレイオスの治世の第1年は紀元前539年または538年でした。ダニエル書8章の幻が与えられてから10年が経過していました。その間に、イスラエルを征服したバビロンはメド・ペルシアの支配下にありましたが、ユダヤ人はなおバビロンに捕囚として留まっていました。
問1
ダニエルの祈りはどんな点で服従の必要について教えていますか。また、不服従の結果について何を教えていますか。ダニ9:1~19、ヤコ2:9、Ⅰヨハ3:4
この祈りからも明らかなように、ダニエルは自分の民の罪を弁解したり、隠したりしていません。彼はすべてをありのままに告白しています。事実、この章は種々の罪や反逆を表す様々なヘブライ語動詞で満ちています。このことは私たちの祈りの生活に大切な教訓を教えてくれます。私たちは決して罪を軽く見てはなりません。罪を軽く見ることは滅びに至る道です。
問2
彼は祈りの中のどこかで、自分の民に神の憐れみを受ける価値があると言っていますか。彼は何を根拠に神の憐れみを求めていますか。
ダニエルには、神の憐れみと赦しにあずかる何の功績もありませんでした。彼にできることはただ、「主御自身のために」(ダニ9:17)、また主の「恵みの御業」(16節)のゆえに嘆願することだけでした。このことはエレン・ホワイトの次の言葉を思い起こさせます。「われわれの大きな必要こそ神のあわれみを求める唯一の資格である」(『各時代の希望』中巻29ページ、一部改訳)。罪人である私たちのうちには、神に推賞されるものは何もありません。私たちの唯一の希望は十字架において現された神の憐れみと恵みだけです。キリストがその生涯と死によって成し遂げてくださったこの十字架だけが、私たちの唯一の希望です。もし私たちが何らかの方法で神の憐れみや恵みを獲得することができるのなら、キリストは私たちを救うために死なれる必要はなかったでしょう。私たちは自力で永遠の滅びを免れることができたでしょう。キリストの死は、私たちが自分自身を救うには全く無力であることを証明しています。
天からの訪問者(ダニエル9:20―24)
ダニエルの祈りがまだ終わらないうちに、主は答えを与えられます。天使ガブリエルがダニエルのもとを再訪します。ガブリエルは人の姿で現れたために、ダニエルは彼を「人間ガブリエル」(ダニ9:21、英語新欽定訳―口語訳参照)と呼んでいます。ガブリエルは10年前にもダニエル書8:16でダニエルに現れています。
ガブリエルは「この御言葉を悟り、この幻を理解せよ」(ダニ9:23)と言っていますが、この「幻」は、同8:1、13、9:21で用いられているような幻全体をさす一般的な“カーゾーン”ではなく、ダニエルが8章の中で理解できなかった唯一の部分、2300日の幻“マレー”と同じ“マレー”です。ガブリエルは8章でダニエルに、2300日の幻(マレー)は「真実」であると言っていますが、ダニエルはその“マレー”を理解できませんでした(27節)。ある正統派ユダヤ教の聖書注解書はダニエル書9:23のガブリエルの言葉、「この幻〔マレー〕を理解せよ」に言及して、このマレーはダニエル書8:14を指しているとしている。「これは8章における、ダニエルを悩ませた部分(14節)が16~26節で〔マレー〕と特色づけられているその幻を指している」(ハーシュ・ゴールドワーム『ダニエル書』258ページ、1979年)。
問3
70週の預言(ダニ9:24)の70週はどれだけの期間をさしますか。
「70週が定められている」とはどんな意味ですか。
これは1日1年の原則をさらに内側から証拠づけてくれます。エルサレムを復興し、再建せよという命令はキリスト生誕の何世紀も前に出されました。もしこれを文字通りに解釈するなら、70週は1年と数か月で、とてもイエスの時代までは到達しません。しかし、1日1年の原則を適用するなら、問題は解決します。エルサレムの再建からイエスの初臨までの期間がその中に入るからです。
「定められている」と訳されているヘブライ語“チャータク”の語根的な意味は「切る」または「分ける」です。より広い意味は「決める」または「割り当てる」です。ヘブライ語聖書にこの語根で出てくるのはここだけですが、後世のユダヤの書物ではおもに「切り取る」の意で出てきます。
70週の目的(ダニ9:24)
ダニエル9:24の聖句は、6つの目的について述べています。それらはおもに地上におけるイエスの生涯と働きの結果に関するものです。
1.逆らいは終わる
この逆らいは神と人間の関係の破綻を意味します。イエスは十字架上の犠牲を通して、この破綻した関係を終わらせ、私たちを神に回復してくださいました。
2.罪は封じられる
ガブリエルはここで、メシアが人類の失敗を処理してくださると宣言しています。メシアは人類の罪を負い、それによって罪に終止符を打たれます。
3.不義は償われる
「不義」とは、正義がゆがめられることによって生じた罪です。十字架上の贖いの犠牲によって、イエス・キリストはあらゆる種類の罪を処理されました。
4.とこしえの正義が到来する
堕落によって、人類は不義な者となりました。メシアは神からの義をもたらされます。服従において表される信仰によって受け入れる人たちにとって、この神の義は永遠のものとなります。
5.幻と預言は封じられる
ここで言われている「封じる」とは、「『閉ざす』という意味ではなく、むしろ『確立する』あるいは『批准する』という意味である。メシアの初臨に関する予告が預言に明示された時期に実現したことは、預言のほかの主要点、特に預言的な2300日も正確に実現することの保証である」(『SDA聖書注解』第4巻852ページ)。
6.最も聖なる者に油が注がれる
神殿はその儀式を始めるに当たって油を注がれました(出40:9参照)。この聖句に予告されている油注ぎは、キリストが昇天後、天の神殿において大祭司としての働きを始められることを指し示しています(ヘブ9:21)。
このように、ここに見られるのは明らかにイエスの時についての預言であり、またイエスの働きによって達成される事柄についての預言です。それはイエスの初臨についての預言ですが、またこの預言は直接的にユダヤ民族全体に当てはまるものですが、同時にイエスの再臨をも暗示しています。なぜなら、イエスが初臨において達成されたことはすべて、再臨においてその最終的な実現を見るからです。この預言が直接キリスト再臨を導く聖所の清めと密接な関係にある理由もここにあるように思われます。
油注がれた君(ダニエル9:25)
問4
ダニエル書9:25には、「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから油注がれた君の到来まで」に69週、つまり483年あると書かれています。この布告はいつ出されましたか。
紀元前538年、同520年、同457年を含めて、様々な年代が挙げられています。これらの年代について概観してみましょう。
まず、紀元前538年を起算点とした場合ですが、エルサレムの復興・再建命令(前538年)から君なるイエスの到来までは483年になります(1日1年の原則による)。紀元前538年から483年経過すると、紀元前55年になります。これではキリストの地上生涯の年代に当てはまりません。紀元前520年を起算点にしても、同様のことが言えます。
しかしながら、もし紀元前457年を起算点とするなら、ちょうどキリストの時代に到達します。この法令はアルタクセルクセス1世によって出されたもので、ユダヤ人の故郷における民事的、司法的、宗教的権利を完全に回復するものでした(エズ7:11~28参照)。
ユダヤ人もユダヤ人の敵も明らかに、この法令がエルサレムの再建を意味することを理解していたはずです。エズラ記4:7~13には(エズラ記の事件は年代順になっていない)、ペルシアの行政官たちがアルタクセルクセス王に送った書簡の中で、エルサレムを再建しているユダヤ人について不満を述べていることが記されています。この手紙の中で、彼らは二つの重要な点を明らかにしています。(1)ユダヤ人がエルサレムを再建していること(エズ4:12)、(2)エルサレムを再建しているユダヤ人がここに来たのは王のゆえであること、がそれです。
手紙にはこう書かれています。「王のもとからこちらに上って来たユダの者らがエルサレムに着き、反逆と悪意の都を再建している」(エズ4:12、強調付加)。言い換えるなら、都を再建しているユダヤ人はアルタクセルクセス王のゆえにここに来た、ということです。王によって出された布告の中で、ユダヤ人をエルサレムに帰還させた布告は、エズラ記7章にあるもの、つまり王の治世の第7年、紀元前457年に出された布告だけです。
「半週で」(ダニ9:24~27)
「エルサレム復興と再建」の布告(前457)から「君なるメシア」(25節、新欽定訳)までは69週(7週と62週、25節)、つまり483年でした。これは、イエスが地上の働きに入られた紀元27年になります(0年を除外する)。
これで、70週の内、69週が終わりました。残りは最後の1週、7年です。
問5
「その週の半ば」(ダニ9:27、口語訳)、つまり預言の最後の7年の半ばに何が起こりますか。
「その〔最後の〕週の半ば」、つまり紀元31年に、イエスは死に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マタ27:50、51)。これは、地上の犠牲制度が終わったことを示しています。アダムとエバ以降、長年にわたって献げられてきた数え切れないほどの動物の犠牲は、いまイエスにおいて完全に実現したのでした。イエスの血だけが罪を贖うことができます(ヘブ10:4)。主は人となって、世の罪を負われました。いかに罪深くても、すべての人が赦しといやし、永遠の命の約束にあずかるためでした(ロマ6:23、Ⅰヨハ5:11)。このイエスの御業のゆえに、信仰をもってイエスのみもとに来る人はだれでも、あたかも一度も罪を犯したことがないかのように神のみ前に立つことができるのです。この預言こそ、堕落した、罪深い世に与えられた唯一の希望です。苦悩に満ちたこの世の生涯は終わりを告げます。そして、イエスのゆえに、永遠の喜びと祝福に満ちた経験が訪れます。
問6
メシアが「1週の間、多くの者と同盟を固め」る、とはどんな意味ですか。それはいつ終わりますか。
最後の週の終わりについての私たちの基本的な理解は、主とイスラエル民族との契約関係の終わりということです。その週の後(つまり、ステファノが石で撃ち殺された紀元34年――使徒7章)、新しい契約の約束(エレ31:31~34)がユダヤ人(自然に生えた枝)と異邦人(野生の枝)からなる教会に与えられ、それがイスラエルの延長となり(ロマ11:17~21)、創造主にして贖い主なる、まことの神を世に教える働きを継承しました。
まとめ
ダニエル書8章で、ダニエルが理解できなかった唯一の幻の部分は2300日の“マレー”でした(26、27節)。第9章では、8章(16節)で現れたのと同じ天使が再び彼に現れ(9:21)、「知恵と悟り」を与えると約束しています(22節、口語訳)。ダニエルが知恵と悟りを必要とした最後のときは、2300日の“マレー”に関してでした(ダニ8:26、27)。その後で、ガブリエルはダニエルに「幻〔マレー〕を理解せよ」と言っています(ダニ9:23)。これは明らかに、ダニエルが理解できなかった2300日の“マレー”です。“マレー”はもちろん、時に関する預言でした。ガブリエルがダニエルに与えている最初のものは別の時に関する預言、つまり「切り取られた」預言です。何から切り取られたのでしょうか。明らかに、より大きな時の預言、つまり2300日の“マレー”からです。
このように、ここには二つの時に関する預言が並行して語られています。一つはもう一つのものより大きな預言、もう一つは大きな預言から「切り取られた」小さな預言です。
紀元前457年の、エルサレムを復興・再建せよという布告を起算点とすると、2300年後は1844年になります。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。