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ダニエル書10~12章は3つの要素からなる一つの単位です。第1部は10章であり、第2部は本体の11:2~12:4であり、第3部(12:5~13)は12章とダニエル書全体を締めくくっています。ダニエルに与えられた最後の幻は、ユダヤ人がバビロンから帰還した2年後に起こりました。この幻の中で、神は歴史の幕を上げ、善と悪の勢力の戦いという目に見えない世界の現実をダニエルに示しておられます。黙示録12:7~9にも、ミカエルとその使いたちが悪の君とその使いたちと戦っている光景が描かれています。しかし、両書における結果は同じです。大いなる君、ミカエルはサタンに勝利し、御自分の民、「あの書に記された人々」(ダニ12:1)を救われます。
このダニエル書の最後の幻は、基本的には2、7、8章と同じ歴史的内容を扱っていますが、その一方で人間の歴史の背後で繰り広げられている大争闘を垣間見せてくれます。
問1
10章の初めにおいて、ダニエルは3週間にわたり嘆き、断食しています(2、3節)。なぜですか。
はっきりと理由は書かれていませんが、当時のパレスチナの歴史的状況によると考えられます。エズラ記4:1~5にあるように、キュロスの第3年(前535)はユダヤ人に対するサマリア人の反対が始まった時期です。そのことについて聞いたダニエルは同胞のために断食し、祈ったはずです。
「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた」(ダニ10:5)。この真昼に見た幻は7章に描かれている夜の幻や預言的な夢とは区別されるものです。
幻を見せられたダニエルの状態は、ダマスコへの途上でイエスがサウロにお現れになった時と同じでした(使徒9:3~7)。その肉体的影響は使徒ヨハネの場合と似ています(黙1:17)。彼はペトロ(使徒10:9~11)やパウロ(Ⅱコリ12:1、2)のように幻の中にいて、その間、周囲の状況に気づいていません。彼は示された事柄に全く心を奪われるあまり、あたかも幻の中の出来事に参加しているように思われます(ダニ12:5~9)。
ダニエルの経験をエレン・ホワイトのそれと比較してください。「時々、私が幻の中にあったとき、友人たちが寄って来て、『おい、呼吸をしてないぞ!』と叫んでいた。私の唇の前に鏡を持ってきても、鏡に水蒸気が付かなかった。私が示された事柄を語り続けたのは、呼吸をしている兆候が全くないときであった。このようにして、これらのメッセージが与えられたのはすべての人の信仰を強めるため、すなわち私たちがこの終わりの時代に預言の霊に信頼するためであった」(『セレクテッド・メッセージズ』第3巻38、39ページ)。
エレン・ホワイトが幻を受けている間、呼吸をしていなかったという事実は、彼女の幻がダニエルのそれと同じ源から出ていたという証拠にはなりません。しかしながら、両者が超自然的な源から出ていたという証拠にはなります。「あかしは神の印を帯びているか、サタンの印を帯びているかのどちらかである。良い木は悪い実を結ばないし、悪い木は良い実を結ばない。その実によって、良い木と悪い木を知るのである」(『教会へのあかし』第5巻98ページ)。
末の日(ダニ10:14、口語訳)
ダニエル書を除いて、旧約聖書の中で「末の日」に言及した聖句は12ありますが、それらを調べると、「末の日」(後の日)という表現は歴史上の様々な時期をさすことがわかります。その最初の言及は創世記49:1で、ヤコブは息子たちに言いました。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい」。彼はここで、臨終に際して、将来を見通し、霊感によって、息子たちとその子孫の上に起こる主な出来事を予告しています。ヤコブは、彼らがカナンに定住するのを見、二人の主だった息子、ユダ(8節)とヨセフ・エフライム(22節)に注目し、メシアがユダ族から生まれることを予告しています(10節)。ヤコブがおもに語っているのはイスラエルの将来の歴史ですので、後の日とはカナン征服をもって始まり、キリストの初臨まで続く将来のことをさしています。
申命記31:29で、モーセは、イスラエルの子らが自分の死後、はなはだしく堕落すること、また「後の日」に災いがふりかかることを予告しています。この預言は、イスラエルが繰り返し背信した士師(士師2:11~16)と王(エレ7:28~34)の時代に実現しました。したがって、この聖句にある「後の日」は士師と王の時代をさしています。エレミヤ書23:20と30:24では、この言葉は紀元前586年のエルサレム滅亡の時期をさしています。エレミヤは、ユダヤ人はそのとき自分たちに臨んだ災いが自らの罪に対する神の裁きであったことをはっきりと悟るであろう、と言っています。
エレミヤ書48:47、49:39では、ペルシアの回復の時が語られています。ほかの聖句、特にイザヤ書2:2、ミカ書4:1、ホセア書3:5では、メシアの王国の時が「終わりの日」と呼ばれています。
このように、ダニエル書以外の旧約聖書では「後の日」(終わりの日)は次のことをさします。(1)イスラエルの歴史における特定の将来(申4:30、31:29、エレ23:20、30:24、48:47、49:39)。(2)カナン征服(創49:1)または君主制(民24:14)からメシアの時に至るイスラエルの将来の歴史。(3)メシアの時代(イザ2:2、ミカ4:1、ホセ3:5)またはそれに先立つ時(エゼ38:16)。
ダニエル書10章では、「終わりの時」はダニエルの時からキリストの再臨までの将来をさします。このことは、たとえばダニエル書2章や7章などの多くの預言が現在の世界の終わりまで及んでいることからわかります。
大争闘(ダニエル10:12、13、20、21)
問2
ダニエル書10:13にどんな戦いが描かれていますか。この戦いはどこで行われていますか。どんな勢力が戦いに参加していますか。
「サタンがメド・ペルシャ王国の最高の権威者に働きかけて、神の民に敵意を示させようと努力する一方において、天使たちは捕囚の民のために働いていた。この争闘は、全天が関心を持ったものであった。われわれは預言者ダニエルによって、善と悪との軍勢間の、大きな戦いの片鱗を知ることができる。ガブリエルは3週間にわたって、クロスの心に働いていた影響力に対抗しようとした、暗黒の勢力と戦った。そしてその戦闘の終了に先立って、キリストご自身がガブリエルを助けに来られた」(『国と指導者』下巻178ページ)。
問3
ペルシア王国の「天使長」とはだれのことですか(ダニ10:13)。参考のためにエフェソ6:12を読んでください。ペルシア王国の天使長を、ダニエル書10:21の天使長と比較してください。ここに描かれている天使長とはだれのことですか。
ダニエル書10章からも明らかなように、サタンとキリストはペルシア王の心を動かそうとしていますが、どちらも彼を強制することはできません。人間の自由意志は大いなる賜物の一つですが、じつは十字架上のイエスという痛みに満ちた恐るべき代価によって与えられたものです。もし私たちに自由意志がなかったなら、罪を犯すこともできなかったでしょうし、もし罪を犯さなかったなら、十字架の必要もなかったからです。このように、十字架は多くの意味において、人間に自由意志が与えられていることの、そしてこの自由意志の乱用がもたらした結果についての最大の例証なのです。したがって、私たちが自分の自由意志にもとづいて、キリストとその聖なる律法に従うように最大限の努力をすることはきわめて重要なことです。
要するに、私たちはみな大争闘の最中にあって、どちらの側につくか、どちらの「天使長」に組みするかは、ほかならぬ私たち自身の選択にかかっている、ということです。
北の王、南の王(ダニ11:1~28)
ダニエル書2、7、8章の幻は、バビロニア王国から終わりの時の神の王国に至るまでの一連の王国に言及しています。とするなら、一連の政治的な王国を扱ったダニエル書の最後の幻(11:1~12:4)も、先行する各幻とほぼ同じ時間的な流れをさしていると考えるべきです。
問4
ダニエル書11:1~4に出てくる王国はどの王国ですか。ダニ8:2~22参照
ダニエル書11章は私たちの教会でも解釈の分かれるところですが、現代の大部分の注解者はこれをアレクサンドロス大王の後継者間の戦いと見ています。ダニエル書11:1~4直後の聖句には、確かにこの戦いに言及した部分もありますが、(後ほど見るように)それがこの章全体の主題ではありえません。
問5
ダニエル書11:22は「契約の君」を打ち破る王について述べています。この「契約の君」とはだれのことですか。彼が打ち破られるとはどんな意味ですか。ダニ9:25~27参照
ダニエル書9:25~27で、君なるメシアは契約を確立しておられます。この契約は、神がシナイ山でイスラエルと確立されたものでした。イザヤはメシアを「平和の君」(イザ9:5)と呼び、ダニエルはミカエルを「大天使長」(ダニ12:1)と呼んでいます。したがって、「契約の君」(ダニ11:22)とはメシアなるイエスのことです。ダニエル書11:22で言われているのは十字架上のイエスの死であるので、これはダニエル書11、12章の時間的流れをたどる助けになります。
ローマ皇帝ティベリウス(紀元14~37)のもとで十字架につけられた時イエスは「破られ」ました。ダニエル書11:21の「卑しむべき者」とはティベリウスに違いありません。ということは、4節(アレクサンドロス大王後のギリシア帝国の崩壊)から22節(イエスの死)までのどこかで、異教ローマが登場することになります。大部分のアドベンチストの注解者は、14節または16節の中にギリシア諸王国からローマへの移行を見ています。
憎むべき荒廃をもたらすもの(ダニエル11:31)
ダニエル書7章と8章の研究で、一連の世界帝国がそれぞれ「キリスト教」ローマに継承されているのを見ました。昨日の研究では、「契約の君」イエス・キリストが「破られた」ときに権力を握っていたのが政治的ローマであったのを見ました。このイエスの死の描写は、ダニエル書11章の歴史的諸事件の流れを理解するうえで有力な歴史的指標となるものです。
ダニエル書11章でもその後半に、一連の政治権力の後に「キリスト教」ローマが出現すると書かれていることがわかります。この章の出来事は目まぐるしく変化し、わかりにくいのですが、31、36節に出てくるいくつかの表現は7章、8章との関連を明らかにしています。それによって、この章の後半に語られている主要な権力を特定することができます。
- 「彼〔北の王〕は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し」(ダニ11:31)。ダニエル8:11では、小さな角が神の聖所を倒して(汚して)います。
- 「日ごとの供え物を廃止し」(ダニ11:31)。ダニエル書8:11では、小さな角が日ごとの供え物を廃止しています。
- 「あの王は……いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える」(ダニ11:36)。ダニエル書8:11では、小さな角が自分自身を「万軍の長」と同じところまで高めています。
- 「すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし」(ダニ11:36)。ダニエル書7:25では、小さな角はいと高き方に敵対して尊大な言葉を語っています。
問6
このように、ダニエル書11章における主要な権力は再び小さな角であることが明らかになります。小さな角が「日ごとの供え物」の代わりに立てる「憎むべき荒廃をもたらすもの」とは何ですか。ダニ11:31
ダニエル書12:11にも、「日ごとの供え物」を廃し、憎むべき荒廃をもたらすものという表現が出てきます。ダニエル書8章では、「日ごとの供え物」を廃するとは、小さな角が強奪の働きによってキリストの天における大祭司としての働きを覆い隠すことを意味していました。ダニエル書11:31および12:11では、「日ごとの供えもの」、つまりキリストの天における働きが偽りの礼拝組織、「憎むべき荒廃をもたらすもの」によって強奪されています。
まとめ
「人類歴史の記録の中では、世界の諸国民の発展や諸帝国の興亡は、人間の意志や勇気に左右されているかのようにみえる。いろいろな事件の形成は、その大部分が人間の能力や野心やあるいは気まぐれによってきまるかのようにみえる。しかし、神のみ言葉である聖書の中には幕が開かれていて、われわれはそこに、人間の利害や権力や欲望の一切の勝ち負けの上に、また背後に、あるいはそれを通して、あわれみに満ちた神の摂理が、黙々と忍耐づよくご自身の目的を達成するために働いているのをみるのである」(『教育』205ページ)。
イエスはマタイ24:15とマルコ13:14で、「預言者ダニエル」によって語られた「憎むべき荒廃をもたらすもの」に言及しておられます。どちらの聖句においても、イエスはこの「憎むべき荒廃をもたらすもの」を御自身よりも将来の時代に置いておられます。このことから、この「憎むべき荒廃をもたらすもの」が(たとえば、アンティオコス・エピファネスの時代のように)イエス以前の出来事ではなく、むしろイエスの時代以後に起こる出来事であることがわかります。この事実は「憎むべき荒廃をもたらすもの」を理解する助けになります。
カトリック教会の神学者ハンス・キュングは1967年に『教会』(DieKirche)を出版しセンセーションを巻き起こしました。それは、教会の外に本当に救いはないのかという問題提起であり、ローマ教会が伝統的に主張してきた考えへの挑戦状でありました。この「教会の外に救いはない」という考えは、3世紀のカルタゴの主教であったタスキウス・C・キプリアヌスの言葉といわれていますが、1447年のフィレンツェの会議以来ローマ教会の教義となっていて、教会が徐々に天の聖所におけるキリストの大祭司の働きに取って代わるようになった象徴的教義です。宗教改革者ルターは『教会のバビロン捕囚』を出版しましたが、それはまさに、ローマ教会の7つの秘蹟と呼ばれている告解や聖餐等における非聖書的慣習について論じ、サクラメントがローマ教会により哀れむべき捕囚の状況下にあるとして糾弾しました。万人が祭司たり得るのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。