終わりの時【ダニエル—ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛】#13

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ダニエル書の最終章は「終わりの時」を締めくくる世界の歴史、すなわち「国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難」(ダニ12:1)の時における諸事件を描写しています。最後の幻を受けた後もなお、ダニエルは疑問を持っていましたが、神は幻についての完全な理解を終わりの時にゆだねられました。ダニエルの預言を研究する人たちがそのすばらしいメッセージを理解するのです(4節)。私たちもその中に入っています。

ダニエル書12章において、私たちは永遠の縁に立っています。私たちの背後には、救いの歴史における大いなる諸事件が広がっています。大洪水においては、わずか8人しか救われませんでした。出エジプトはイスラエル民族の誕生をもたらしました。そして、十字架は全人類に罪からの救いをもたらしました。しかしながら、救いの歴史におけるクライマックス、すなわち贖われた者たちがこの罪に満ちた惑星地球から脱出する時はこれからです。

終わりの時(ダニ11:40~45)

「終わりの時」という表現はダニエル書にのみ出てきます(8:17、11:35、40、12:4、9)。これは、その前後関係を見ると再臨に先立つ歴史の最後の期間をさしていることがわかります。セブンスデー・アドベンチストは一般的に、1260年間の終わりである1798年を終わりの時の始まりであると考えています。ダニエル書11章の最後の諸聖句はまだ実現していない預言と思われるので、それらの解釈に関しては十分注意する必要があります。

問1

終わりの時における「北の王」と「南の王」とは、どんな勢力をさしますか。ダニ11:40

北の王

ユダ王国の終わりの時にあっては、バビロンが北からの敵でした(エレ1:14、15)。黙示録では、バビロンが霊的ローマ、つまり教皇制を表す暗号になっています。したがって、終わりの時における北の王とは教皇制のことです。これはダニエル書11:36~39とも調和します。教皇制はここでも尊大に振舞う王として描かれています。

南の王

先に出てくる「南の王」(ダニ11:5)を、ギリシア帝国の崩壊後エジプトを支配したプトレマイオスと見る人もいます。しかし、後に出てくる預言(ダニ11:40)が終わりの時に適用されるものなので、「南の王」がもはや文字通りのエジプトをさすとは考えられません。黙示録11:8では、エジプトが真の宗教に反対する勢力をさすものとして用いられています。これら二つの勢力は何らかの戦いに参加しています。

問2

エドム、モアブ、アンモンの国々は終わりの時のだれを象徴していますか。ダニ11:41

これらの国々はもはや存在しないので、この聖句を文字通りに解釈すべきではありません。これらの国々はかつて神の民の敵でしたが、神は恵みのうちに御自分の敵であった多くの人々を救うと約束しておられます。神は教会を用いて、「アンモンの選ばれた者、エドム、モアブ」を霊的に征服されます。多くの人々がかつて神の真理に反対していた集団を出て、終わりの時に神の民に加わります。

大天使長ミカエル(ダニエル12:1)

問3

ダニエル書12:1を読んでください。この聖句は二つの大きな出来事について描写しています。それらはどんな出来事ですか。アドベンチストはそれらをどのように理解していますか。

問4

神の忠実な民を救うこの大天使長ミカエルとはだれのことですか。

アドベンチストはこの「ミカエル」をイエスと考えています。その理由は次の通りです。

  1. “ミカエル”のヘブライ語は「神のような者はだれか」という意味です。神のようなお方はキリストだけです(ヨハ1:1)。
  2. 「万軍の長」あるいは「最も大いなる君」(ダニ8:11、25)はまた「油注がれた君」でもあります(9:25)。これは「天使長ミカエル」(10:21)あるいは「大天使長ミカエル」(12:1)と同じお方です。
  3. 「大天使」という言葉は聖書に2回しか出てきません。ひとつは、キリストが大天使の声と共に来られるテサロニケⅠの4:16で、もうひとつはミカエルが大天使と呼ばれているユダ9です。

問5

「あの書に記された人々」とはどんな意味ですか。あの書とはどんな書ですか。出32:32、ダニ7:10、ルカ10:20、黙13:8、17:8、20:12、15、22:19参照

これらの聖句は、主に仕える人たちのためにも裁きがあることを暗示しています。命の書に記されている人は救われ、記されていない人は滅びます。もしこれが何らかのかたちの最終的な裁き、最終的な清算、最終的な義人と悪人の区別でないとするなら、ほかに何があるというのでしょうか。

復活(ダニ12:2)

聖書の中で最も力強く、劇的な聖句の一つはダニエル書12:2です。それは死者の復活についての約束、また警告です。これはどんな科学、哲学、世の知恵にも発見することのできないすばらしい真理です。私たちがそれを知っているのはそれについて知らされているからです。私たちがそれを信じているのは、主が御言葉の中でそのように教えておられるからです。

問6

ダニエル書12:2を読んでください。この聖句はどんな原則、どんな思想について述べていますか。次の聖句が手がかりになります。申32:4、コヘ12:14、使徒24:15、ロマ2:5、6

身近なところに正義がなされていないのを見て、憤りを感じていない人がいるでしょうか。至るところに、毎日のように、屈辱と怒り、疑惑を抱かせるような不正が行われています。確かに、悪魔は不正を好みます。あらゆる点において、不正と堕落が現在の世界を支配しているように見えます。

しかし、この聖句には神の最終的な裁きについての約束と警告が含まれています。義人は報いを受け、悪人は罰せられます。それも、人間の気まぐれで、変わりやすい、時にはゆがんだ正義・刑罰の基準によってではなく、完全で、全知の、憐れみ深く、正しい神によって、です。信仰によって求める人に対して、この聖句は人間の与えることのできないもの、すなわち最終的で完全な正義についての約束を与えてくれます。それはこの世には見られないものです。

問7

ダニエル書12:2は死について何と教えていますか。

「クリスチャンにとって確かなことは、死が敵であるということである。しかし、同時に、それは敗北した敵でもある。したがって、私たちは確信をもって死と戦うことができる。死の勝利が一時的であって、長くは続かないことを知っているからである。私たちは健康と平和、また命を促進するあらゆる働きを支持することができる。敵が最終的に勝利すると考えて失望したり、恐れたりする必要はない」(「復活と栄化」『SDA神学ハンドブック』364ページ、2000年)。

封じられた書が開かれる(ダニエル12:4、9、10)

長年にわたって、ダニエル書の預言の多くは暗闇の中に隠されてきました。この書の内容、特に何世紀にもわたって聖書を読む機会を制限してきたローマについての記述を考えれば、これも無理からぬことです。

しかしながら、宗教改革以来、特にこの数百年の間に、多くの人々がダニエル書を理解するようになってきました。閉ざされていた書がどんどん開かれてきているのです。ダニエル書の理解が容易になった背景には、預言された諸事件の意味が明らかになった時代に生きることで、人々が改めて歴史を振り返り、それらの事件が預言されたとおりに起こっている事実を確認することができるようになったことも挙げられます。これは「終わりの時」に生きる人々だけに与えられた特権と言えるかもしれません。

「1798年以来、ダニエル書は封を開かれ、預言の知識は増加し、審判の切迫という厳粛なメッセージを多くの者が宣言したのである」(『各時代の大争闘』下巻51ページ)。しかし、すべての人が理解するわけではありません。プロテスタント世界の多くが、ダニエル書の鍵となる預言を紀元前2世紀のアンティオコス・エピファネスに適用しているのは悲しいことです。ダニエル書が「終わりの時」を強調していることを考慮すれば、これは滑稽としか言いようがありません。

問8

ヨハネ14:29を読んでください。このイエスの言葉は、ダニエルに対して終わりの時までその書を封じておきなさいと言われている理由を理解する上でどんな助けになりますか。

多くの意味において、ダニエル書は信仰を強めてくれる書です。今日、私たちは過去を振り返り、諸国家が預言された通りに、どのようにして次々と現れては消えていったかを知ることができます。ダニエル書はほかの書とはやや異なった方法で、私たちの理性的な思考過程に訴える書です。結局のところ、主はダニエル書を通して、世界歴史のような大きく不変のものにもとづいて預言を私たちに与えておられます。私たちは世界の歴史に対するように、預言に対しても確信を持つことができます。言い換えるなら、信仰によってダニエルの言葉を受け入れる人たちにとって、この書は神の力と約束についての力強い保証となります。

待ち望む者は幸いである(ダニ12:11~13)

ダニエル書12章の、時に関する二つの預言を考えてみましょう。

第1に、ダニエル書11章の天使の長い説明は12:4で終わっています。ダニエル書12:5~13はダニエル書11章の長い幻、また、ある意味で、ダニエル書全体の結びです。それは違った主題の新しい幻ではなく、封じるべき「この書」の幻の中の、特定要素の説明です。ダニエル書12:6に「いつまで続くのでしょうか」と問いかけられた「これらの驚くべきこと」とは、ダニエルが11章で見たことであり、8章の主題を詳述したものでした。

第2に、ダニエル書7:25と12:7にある「一時期、二時期、半時期」という言葉は二つの出来事ではなく、一つの出来事を意味しています。ダニエル書7:25では、聖者らが「一時期、二時期、半時期」の間、小さな角の権力の手に渡されています。同12:7では、聖なる民の力が「一時期、二時期、そして半時期」の間、打ち砕かれています。これらは同じこと、つまり神の民が1260年のあいだ迫害されることを意味しています。

第3に、ダニエル書8:11、11:31、12:11で、日ごとの供え物が廃止されています。ダニエル書8:11と11:31では、日ごとの供え物を廃止することが過去の歴史的事実をさしているので、12:11の、日ごとの供え物を廃止することも、明らかに同じことについて述べています。

以上の理由から、また1844年以後、「はっきりした預言的時間はない」(『原稿』59号、1900年)というエレン・ホワイトの言葉などから、これらの時に関する二つの預言(1290日と1335日)が将来において実現するという考えは私たちの考えとは相容れないものです。それらは過去に属するものです。

セブンスデー・アドベンチストの一般的な一つの解釈は、紀元508年に、フランク王国の王クローヴィスが戦略的な目的から俗権としては初めて、台頭するローマ教会と手を結んだという解釈です。これが、その後、数世紀にわたって続く教会と国家の結合、すなわちダニエル書12:11にある「憎むべき荒廃をもたらすもの」への基礎を据えました。これはまた、キリストの大祭司としての働きをあいまいにする数多くの教義や慣習が教会の中に確立された年でもありました。508年に1290年を加算すると、1798年になります。一方、1335年は同じ年(508年)から始まり、1843年に終わります。この年は「大いなる再臨覚醒運動との関係において意義深い年代」です(『SDA聖書注解』第4巻881ページ、金曜日の研究参照)。

まとめ

「1843年に叫ばれた時についての宣言には、神が共におられたことを、わたしは見た。人々の目を醒まし、彼らに真理を受け入れるか否かを決めさせる決定的瞬間に至らせることは、神の計画であった。牧師たちは、預言的期間に関する論拠の正確なことを確信した。そして、ある者は、高慢な心を放棄し、彼らの職業を捨て、教会を去って、メッセージを伝えるために東奔西走した」(『初代文集』383ページ)。

「彼らは、ふたたび、預言的期間を研究するように、聖書に導かれた。数字の上から主の手が除かれて、誤りが説明された。彼らは、預言的期間が1844年に及んでいること、そして、預言的期間が1843年に終わることを示す同じ証拠によって、それが1844年に終了することが証明されるのを認めた。神のみ言葉からの光が彼らの立場を照らした。そして、『もしおそければ待っておれ』という遅延の時があることを発見したのである。彼らは、キリストが直ちに来られることを望み慕うあまりに、幻の中の遅延の時をみのがしていた。これは、真に待望する者を明らかにするために計画されたものであった。彼らは、ふたたび、一定の時が与えられた。しかし、彼らの中の多くの人々は、彼らの苦い失望を乗り越えて、1843年に彼らの信仰があらわしたような熱と活力を持つことができなかったのをわたしは見た」(同388、389ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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