この記事のテーマ
「世界の歴史においては、人間の意図し、実行するものとは別の何か、人間の知り、望むものとは別の何かが、その行為から生じる。人間は自らの関心事を実行する。しかし、達成されたのは、そこに暗示されてはいたが、行為者の意識にも意図にもない別の何かであった」(G・W・F・ヘーゲル「歴史の哲学」
『ヘーゲルの哲学』16、17ページ、1954年)。
今回、“始まり”の学びの終わりを迎えるにあたって、上記の言葉に含まれる重要な意味について考えます。人間の意図の善し悪しにかかわりなく、また虚偽、失望、罪、災いにかかわりなく、「人間の意図し、実行するものとは別の何か……が、その行為から生じ」ます。この「別の何か」こそ、主が人間の歴史において御自分の計画を実行しておられるということです。
創世記に啓示された神の摂理は、その結末を知っている私たちにとっては不思議ではありません。しかしながら、物語そのものに登場する人たちにとっては、逆境の中で神の約束をその通り信じることは大変な信仰を必要としました。ヘブライ11章に、「信仰によって、アブラハムは」、「信仰によって、イサクは」、「信仰によって、サラは」、「信仰によって、ヤコブは」と書かれているのも不思議ではありません。それは、完全には見ていないもの、完全には理解していないものを信じる信仰、ただ神の約束だけに信頼する信仰でした。
開示された摂理(創41:41~42:23)
一夜にして、ヨセフは牢獄の奴隷からエジプト第二の指導者となりました。ところが、新たな難題が彼を待ち受けていました。
問1
創世記41:45を読んでください。これは神に対するヨセフの信仰と献身にどのような問題をもたらしましたか。列王上11:1参照
創世記41:50~52は新しい環境に適応するヨセフの姿を描いています。ヨセフが二人の息子につけた名前は彼自身の経験を反映しています。「マナセ」という名前は「忘れさせる」というヘブライ語動詞と関係があり、最初の息子が父のつらい過去を忘れさせてくれたことを表しています。次男の名前「エフライム」は「2倍の実り」を意味し、ヨセフの喜びに満ちた思いと新たな人生の始まりを表しています。
創世記41章の残りと42章の最初の17節を読むと、そこに神の摂理が開示されているのがわかります。37章にあるヨセフの夢が段階的に実現しているのを見ます。夢見る者の夢(創37:19)がやがて主にしかできない方法で現実のものとなります。この物語は人間の理解を超えた方法で計画を実現される神の力についての驚くべきあかしです。飢饉を通してヨセフの兄弟たちをヨセフのもとに導くことによって、明らかに主は御自分の計画を遂行しておられたのです。
問2
兄弟たちが互いに交わした言葉には、彼らがそれまで抱いてきた罪の意識がどのように表されていましたか。創42:21~23
ヨセフを失ったことで父が抱いてきた苦しみは、これらの兄弟たちの心に重くのしかかりました。それ以上につらかったのは、ヨセフが死んではいないという事実を父に告げることができないことでした。彼らが自らの行為によって自分自身と家族にもたらした悲しみは、彼らの理解を超えたものでした。
ヨセフと兄弟たち(創42章、43章)
兄弟たちに対するヨセフの策略は、自分の家族のことを聞き出すため、また兄弟たちに教訓を与えるためのものでした。
問3
兄弟たちが自分の袋の中にお金を見つけたときの反応に注目してください(創42:24~28)。それは彼らの信仰についてどんなことを示していますか。
問4
創世記42:36~38を読んでください。それはルベンの品性についてどんなことを教えていますか。
「ヨセフが兄弟たちから離れていた年月の間に、ヤコブの子らは品性が変わっていった。彼らは、かつてはしっと心が強く、乱暴で、人をだまし、残酷で執念深かった。しかし、こうして逆境の中で試練にあったときに、彼らは無我の精神をあらわし、互いに真実で父に孝養をつくし、彼ら自身すでに中年に達していたが、父の権威に従うようになった」(『人類のあけぼの』上巻249ページ)。
ルベンの提案に対するヤコブの応答のうちに、ヤコブがヨセフを失ったときに味わった苦悩が表されています。しかし、飢饉があまりにもひどかったので、ヤコブは末の息子を兄弟たちにゆだねるしかありませんでした(創43:8)。
問5
ヨセフが宴会を開いた目的は何でしたか。創43:31~34
兄弟たちが驚いたことに、ヨセフは彼らを年齢の順に座らせ、末の弟ベニヤミンにはほかのだれよりも多くの料理を与えました。ヨセフがそのようにしたのは、
「自分のときと同じように、兄弟たちが末の弟にも羨望やしっとをあらわすかもしれぬ」と考えたからでした(『人類のあけぼの』上巻254ページ)。しかし、彼らがベニヤミンと共に飲み食いし、楽しむのを見たヨセフは(創43:34)、兄弟たちが確かに変わったことを知りました。
家族の再会(創44~47章)
ヨセフの試験はまだ終わっていませんでした。最後の試験が訪れました(創44章)。ユダはすべてを告白し、父のために進んで兄弟の身代わりになると言います。それで、兄弟たちが生まれ変わったことがヨセフに明らかになりました。そのとき初めて、ヨセフは自分の身分を明かします。
問6
ヨセフは兄弟たちに何と言いましたか(創45:1~13)。長年の間にも彼の信仰は少しも変わっていないことはどのようにわかりますか。
試練の時にも神に対する信仰を持ち続けたことが、いま報われます。以前には理解できなかったことが、突然、ヨセフの目に明らかになります。神はヨセフに想像できない方法でそれを成し遂げてくださいました。ここに、私たちのための教訓があります。どのような状況においても忠実であろうと努めるなら、たとえ最終的な段階においてであれ(黙21:1)、神はすべてを祝福に変えてくださいます。
創世記45章の後半は、家族全員が再会するための準備について記しています。46章では、ヨセフのことを聞いたヤコブがエジプトヘの長旅に出発しています。途中、ヤコブはベエル・シェバに立ち寄ります。それは、祖父アブラハムが神を礼拝し、父イサクが再び神から契約の祝福を受けた後で祭壇を築いたところでした(創21:33、26:23~25)。ヤコブが犠牲をささげ、父イサクの神に対して献身を新たにしたとき、主はベテルでの契約の約束を再び保証し、ヤコブの家族がエジプトで大いなる国民になると約束されました(創46:1~4)。
問7
ヤコブとその家族がエジプトに着いたとき、喜ばしい再会が実現しました(創46:29、30)。ヨセフが家族の者たちに、自分たちがエジプト人の嫌う羊飼いであると告げるように望んだのはなぜですか。31~34節
聖書は明言していませんが、ヨセフはエジプトの堕落的な影響力を知っていたものと思われます。それゆえ、彼は家族をエジプト人から引き離すことによって、家族の霊的高潔さを守ろうとしました。明らかに、ヨセフは自分たちの霊的召命について知っていたと思われます。信じがたい出来事の開示を通して自分と自分の家族が再会したときに、ヨセフはこの召命の現実性を再確認する結果となりました。
族長の祝福(創47:28~49:28)
エジプトで愛する者たちに囲まれて幸福な17年間を過ごした後で、ヤコブは死期の近いことを悟ります。彼は最後の別れを告げるために息子たちを呼び寄せます。
問8
神からヤコブに与えられた数々の約束を思い起こしてください(創28:12~15、35:9~15、46:2~4)。ヤコブの現在の境遇から考えると、彼が主の約束を信じることはどれほど容易だったと思われますか。創46:26、47:27参照
ヨセフと同様、ヤコブも初めて、神が御自分の約束をすべて実現してくださるお方であることを悟ったことでしょう。このことは老齢のヤコブにとって慰めとなったはずです。
ヤコブは死ぬ前に、神の霊感に導かれて、子孫の将来について啓示します(創49章)。ヤコブにとっては耐えがたいことでしたが、神の力が彼を促して真理を語らせます。ヤコブはルベンから長子の権利を取り上げ、レビとシメオンの罪に対して呪いを宣告します。レビの家族の歴史は、呪いがどのようにして祝福に変わるかを例示しています。
神の御言葉はいつでも、人間の美徳と悪徳、成功と失敗を明らかにします。聖書の記述は現実的で、偉大な英雄の失敗も、神の力による勝利も覆い隠すことはありません。神の人々は、「わたしたちと同じような人間」として描かれています(ヤコ5:17──使徒14:15参照)。
ヤコブは各部族の集団的運命について啓示しています。しかし、各部族は私たちと同様、とくに神との関係において、自由意思を持った個人の集合体です。神が民族とその将来に関していかなる預言をしようとも、それは個人を救い、または呪いに前もって定めるものではありません。神は私たちの選択を予知しておられますが、それは私たちの選択を予定することではありません。
始まりの終わり(創49:29~50:26)
創世記50章は、ある意味で、始まりの終わりです。創世記は天地創造に始まり、堕落、洪水、アブラハムとその子孫に対する契約の約束をもって終わります。これらの約束がどのようにして実現するのか、理解しがたい場面もありましたが、創世記が終わる段階になってみると、神の約束がすべて実現する基礎が完成しているのを見ます。「異邦の国で寄留者」(創15:13)となっていた大いなる国民としてのアブラハムの子孫が、いつの日にかエジプトから導き出され、「地上の諸国民はすべて」、彼らによって「祝福を得る」(創22:18)のでした。
問9
創世記50章を読んでください。ここに、ヨセフの兄弟たちのどんな人間的な行為を見ることができますか。
彼らが改めて赦しを嘆願する必要はありませんでした。ヨセフは明らかに、ずっと以前に彼らを赦していたのです。ただ、彼らは、その赦しがどの程度本物だったのかを知りたいと考えたのでした。ここにもまた、ヨセフの品性と誠実さが現されています。このように、兄弟たちの赦しがたい行為を赦すことによって、ヨセフはキリストの「予型」となったのです。
問10
兄弟たちに対するヨセフの応答に、どんな意味で、創世記および聖書全体の中心テーマを見ることができますか(19、20節)。ここに、どんな重要な原則が表されており、どんな希望が与えられていますか。
人間にとってはいかに理解しがたくても(モリヤのアブラハムや獄中のヨセフがその例)、神は「それを善に変え、多くの民の命を救うために」(20節)御自分の計画を遂行しておられます。私たちが何ものであれ、またどのような状況に置かれていようとも、創世記に啓示された神は黙示録に啓示された神であることを覚えるべきです。創世記が族長たちの時代に開示され、族長たちについて語っているように、黙示録は現代において開示され、私たちについて語っています(黙12:17)。
最後に、創世記は奇跡、つまり天地創造の奇跡をもって始まりました。この世界が奇跡によって創造されたように、この世界は奇跡によって救われます。この奇跡は、まず創世記3:15、次に創世記22章に暗示されています。十字架につけられ、復活し、再臨されるイエスの奇跡です。
まとめ
「ヤコブは、罪を犯して非常に苦しんだ。彼は大きな罪を犯して父の天幕を離れて以来、悩み、苦しみ、悲しみの長い年月を過ごした。彼は家のない逃亡者となり、母から離れ、しかもふたたびその母に会うことができなかった。彼は、7年間も愛するラケルのために働いたが、卑劣な方法でだまされた。20年もの間、貪欲で、利己的な親族のために苦労した。やがて、自分の富も増し、むすこたちの成長を見ることができたが、争いが絶えず分裂した家庭の中には少しの喜びも見いだすことができなかった。娘の受けたはずかしめ、それに対する兄弟たちの復讐、ラケルの死、ルベンの人の道に反した罪悪、ユダの罪、そして兄弟たちのヨセフに対する残酷な欺瞞と恨みによる苦悩など、なんと長く、暗い罪悪の数々が彼の目の前に広がったことであろう。ヤコブは、いくどとなく、彼の最初の失敗の実を刈り取ったのであった。彼は幾たびも自分自身の犯した罪を、そのむすこたちがくりかえすのを見た。しかし、このようなこらしめは苦しかったが、その目的を果たしたのである。訓練は悲しいものと思われたが、『平安な義の実を結』んだのである(ヘブル12:11)」(『人類のあけぼの』上巻268、269ページ)。
神の大時計が地球を歯車として粛々と時を刻んでいます。6000年という短い人間の歴史の中にも、そこに神のたゆまぬ慈しみと導きを見ます。宇宙に対する神の愛の軌跡である地球の歴史には人間の罪と信仰の糸が入り混じって織り込まれていますが、やがて再創造される地球にはこの宇宙に示された神の愛が現され、罪の傷跡を見いだすことができません。
罪はそれを犯した人を苦しめるばかりではなく、思わぬ人々にも悲しみをもたらします。この世の罪により最も大きな悲しみをお受けになったのは、創造主なる神でした。そして御子イエスの十字架によって、はなはだ良かった初めに戻る道が開かれたのです。
我々の真の起源と帰属を求める旅は御再臨の時まで続きます。いや、神を真に知る旅は、その後も永遠に続くのです。神と共にある喜びが限りなく深まる祝福の旅は終わりなく続くのです。ボン・ヴォヤージュ、天国への希望の旅路に幸あれ!
*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。