【エゼキエル書】悲劇が起こるとき【1章解説】#1

目次

悲劇はすべての人にのぞむ

罪にゆがめられた世界にあって,これは当然のことです。なぜ逆境が訪れるのでしょうか。それに積極的に対処するためにはどうしたらよいでしょうか。神は恵みによって逆境を私たちの幸福と人々の救いに変えてくださるでしょうか。

アウトライン

  • エゼキエルと彼の時代(列王下21~25章)
  • エゼキエルと彼の悲劇(エゼ1:1~3、3:15、241、16)
  • エゼキエルと彼の働き(エゼ2:1~5)

苦しみに耐える恵み

1988年6月13日、月曜日の朝のことでした。10歳のカトリナ・ファーガソンは自宅の通路に立って、母親とともにスクールバスを待っていました。そのとき突然、道路から一台の車が飛びこんできて、カトリナをはねとばしました。酔っぱらった男が居眠り運転をしていたのでした。「急に飛びこんできたのです。私は大声をあげました。……娘をどけようとしましたが、間に合いませんでした。車は娘をはね飛ばし、……娘は道路に倒れていました。私は駆け寄って、娘を抱き起こしました。小さなリボンがふきとばされていました」。 カトリナはバージニア州マナッサスのプリンス・ウイリアム病院で死亡しました(1988年6月14日のワシントン・ポスト紙より)。

苦しみは人間の宿命

ファーガソン家に起きた悲劇はだれにでも起こりうることです。この地上に悲劇があるのは神とサタンとのあいだの霊的大争闘のゆえです。人間の苦しみの根本的理由は、ルシファーが神にそむき、宇宙に罪と不幸と死をもたらしたことにあります。私たちはいつでも逆境を逃れることができるとは限りません。しかし、神はそれに耐える恵みを約束しておられます(Iコリ10:13参照)。 すべてを支配される神の摂理に信頼して、人生のさまざまな悲劇に対処するとき、神は私たちをより強い人、他人の必要にこたえることのできる人としてくださいます。預言者エゼキエルは一生におよぶ悲劇を味わった神の子らの模範となりました。しかし、その恐るべき苦難にもかかわらず、彼の忠誠と絶えざるあかしは、バビロンで捕囚となっていたユダの民に真理の光をともし続けました。

エゼキエルと彼の時代(列王下21~25章)

質問1

ユダヤの歴史のどの時点において、エゼキエルは自分の生涯と働きを記録し始めていますか。その当時の霊的状態はどうでしたか。エゼ1:1、2(列王下21章、エレ15:4比較)

エゼキエル書は読者に情報と霊感と警告を与えるために書かれた自伝です。エゼキエルはユダ王国の最後の五人の王の治世に生存していました。このうちの三人の王はヨシヤの息子たちで、一人はヨシヤ王の孫でした。つぎの一覧表を見てください。

ヨシヤ(紀元前639~609年)―マナセの孫

エホアハズ(紀元前609年)―ヨシヤの子(3カ月統治)

エホヤキム(紀元前609~598年)―ヨシヤの子(11年統治)

エホヤキン(紀元前598~597年)―ヨシヤの孫(3カ月統治)

〔エコニヤ、コニヤ〕

ゼデキヤ(紀元前597~586年)—ヨシヤの子(11年統治)

リバイバルと背信

ヨシヤが8歳で王位についたとき(列王下22:1)、 ユダ王国は霊的に堕落した状態にありました。ヨシヤの祖父「マナセが人々をいざなって悪を行ったことは、主がイスラエルの人々の前に滅ぼされた国々の民よりもはなはだしかった」(列王下21:9)。 王になって12年目、つまり20歳のときに、ヨシヤは罪深い国家の改革に着手しました(歴代下34:3)。そして、神殿を改修していた祭司が、モーセが書いた律法の害の写しを発見しました。この律法の害のメッセージによって、国民は神との新たな契約関係に入りました(列王下23章参照)。国民が王とともに偶像とその祭壇をこわしたときに、真の信仰がよみがえってきました。

しかし、この広く行きわたったリバイバルも表面的なものでした(エレ3 :10参照)。ヨシヤの時ならぬ死によって、リバイバルの勢いは消えてしまいます。人々はふたたび、マナセの時代におちいったのと同じ偶像礼拝におちいります。捕囚という苦難の炉だけが異教の神々と罪に対する彼らの望みを絶つものであることを、神は認められました。それゆえに、バビロニアによる侵略と捕囚のこらしめが罪深い国民の上にくだるのを、神はお許しになりました(エレ15:4参照)。

30という数字(エゼ1:1)は一般的に、エゼキエルの年齢をさすと考えられています。ネブカデネザルは紀元前597年に1万人におよぶ指導的なユダヤ市民、軍人、職人をエホヤキン王とともにバビロニヤに移しましたが、エゼキエルもそのうちの一人でした(列王下24:10~16参照)。

質問2

ユダヤの歴史におけるこの重大な時期にエゼキエルとともに活躍した預言者はだれでしたか。エレ1:1、2、ダニ1:1~6(ゼパ1:1、ハバ1:6、列王下22:3、8~20比較)

質問3

神がイスラエル人をバビロンの捕囚とされたのはなぜですか(エレ30:11~15)。1万人の捕囚の経験に照らして考えるとき私たちは現在の、自分の試練をどのように理解すべきですか。

エゼキエルと彼の悲劇 (エゼ1:1~3、3:15、24:1、16)

質問4

エゼキエルは自分の運命を変えた悲劇について何と述べていますか。エゼ1:1、3:15

異教の民によるユダ王国の征服は、神の守りに信頼するように教えられてきたエゼキエルにどんな影響を与えたでしょうか。「この幻は、エゼキエルが不幸な思い出と、苦難の予想にうちひしがれていたときに与えられた。彼の祖国の地は荒れ果てていた。エルサレムの住民はなくなっていた。エゼキエル自身は、野望と残酷に支配された国に旅人となっていた。どちらをむいても目につくものは暴虐と(ぼうぎやく) 不正ばかりであった。彼の魂は苦悩し、夜も昼も嘆きつづけた」(「教育』210ページ)。

質問5

イスラエルの神がその民をカルデヤ人の軍隊から救うことができないということに関して、バビロニア人はユダヤ人の捕囚たちをどのようにあざけりましたか。エゼ36:17~20(エレ33:24、詩篇137:1~4比較)

「イスラエル人の行為とそれにともなう不幸は、異教徒の面前でエホバの御名を汚した。彼らは当然ながら、イスラエルの神がその信仰者のためにできることがこの程度のことなら、自分たちの神々と大して違わない、と考えた。異教徒たちはエホバを、単なるイスラエル人の国家神にすぎないと考えた」(「S DA聖書注解』第4巻696、697ページ)。

質問6

主はエレミヤが1万人の捕囚に手紙を書き送るにあたって、どんな勧告を与えられましたか。この言葉がエゼキエルの苦悩を深めたのはなぜでしたか。エレ29:1~14(とくに10節に注意)

バビロンの捕囚たちは相当な不安を抱いていた

彼らはみな、解放される日はそれほど遠くないと考えていました。征服者の厳しい 圧迫を避けるためには、新しい状況になれて、有用な生活を送り、同時に民族の一致を守る必要がありました。神がイスラエルを回復されるまでには、70年が経過しなければなりませんでした。このメッセージが30歳のエゼキエルにどんな影響を与えたかは想像するしかありません。彼は一生のあいだ亡命者となるのでした。祖国ユダヤに二度と帰ることができなくなるのでした。

ユダヤ人の捕囚たちはバビロニア人の奴隷にされたのではない。

彼らは居住区を与えられ、家を建てたり、畑を作ったり、長老の監督のもとで社会活動を営んだりすることができました。エゼキエルも自分の家を持っていました。ユダヤ人の長老たちは神から与えられる啓示を聞くためによく彼の家に出入りしていたようです(エゼ8:1、14:1、20:1参照)。

質問7

エゼキエルはユダの地で何になるための訓練を受けていましたか(エゼ1:3)。彼は何歳のときにこの働きに就いたと思われますか(民数4:3、8:24)。

エゼキエルは自分自身を「祭司エゼキエル」と呼んでいます。エレミヤと同じく、彼はアロンの家の出身で、祭司の家庭で育ちました。したがって、彼はこの聖なる務めのための訓練を受けていたことになります。彼の両親は父親の模範に従おうとする彼に祭司職の高い理想を示してきたことでしょう。しかし、捕囚となったことによって、彼の栄達の道は消え、ソロモンの神殿において神と彼の民のために奉仕するという夢は砕かれました。祭司になるという望みを絶たれたとき、彼はにがい失望を味わったことでしょう。しかし、エゼキエルはその心痛を言葉に表していません。

成人年齢

「民数記8:23~26では、成人年齢が25歳から50歳のあいだと定められている。のちの聖書記者は、ダビデによると思われるが、この規定をさらに変え、20歳をもって務めの開始年齢としている(歴代上23:24、27、歴代下31:17、エズ3:8)。…… 開始年齢を30歳としている最初の規定〔民数4:3〕は、一時的な処置だったかもしれない。ユダヤ人は30歳になると成人とみなされ、 自分の権利と特権についてのあらゆる責任を負う者とされた(ルカ3:23比較)」(「SDA聖書注解」第1巻838ページ)。

質問8

エゼキエルが預言者の働きに召された数年後、彼の家庭にどんな不幸が起こりますか(エゼ24:1、2、15~18)。「あなたの目の喜ぶ者」という表現は何を示唆していますか。

エゼキエルはこの第3の悲劇を、エホヤキンの捕囚の第9年の10月10日としています(列王下25:1比較)。この日はまた、ネブカデネザルによる最後のエルサレム包囲が始まったときでした(紀元前589/588年)。この攻撃は数カ月つづき、エジプト軍はその同盟国ユダのために包囲を解こうとしました(エレ37:7参照)。しかし、バビロニア軍はついにエルサレムとその神殿を破壊し、守備兵を追放します。エゼキエルにとって、自分の妻の突然の死はエルサレムとその神殿の最終的な滅亡を宣告するものでした。「あなたの目の喜ぶ者」という表現は彼女の美しさだけでなく、彼女に対するエゼキエルの深い愛と二人の強いきずなをも強調するものです。

質問9

神は、エゼキエルの妻の突然の死を通して、捕囚になっていたユダヤ人にどんなことを教えられましたか。エゼキエルが悲しみを表すことを許されなかったのはなぜですか。エゼ24:18~24

苦しんでも恨みを抱かない

エゼキエルは神に忠実に従っていましたが、一連の苦い経験に耐えなければなりませんでした。彼は祖国を奪われ、一生を異国で捕囚として過ごし、たえずあざけりを受けなければなりませんでした。また、何年にもわたって訓練を受けてきた祭司の職を失いました。そして、最愛の妻を突然の死によって失いました。そのうえ、神殿も破壊されました。それらはどれも彼の残りの人生をつらくするに十分なものでした。しかし、彼は決して恨みや不信を抱きませんでした。

エゼキエルと彼の働き(エゼ2:1~5)

神のしもべたちが苦しみや失望のなかにとどまることは、神のみこころではありません。神は彼らに対して、果たすべき役割、その生活においてなすべき働きを与えておられます。クリスチャンは、神の導きに従うときに、神が不思議な方法をもってすべての悲劇を益となるようにしてくださることを知ります(ロマ8:28)。

質問10

神は、捕囚となっていたエゼキエルに対してどんな目的を持っておられましたか。「人の子」という表現は何を意味しますか。神は、なぜエゼキエルにこのように呼びかけられたのでしょうか。エゼ2;1~5(ダニ8:17比較)

エゼキエルが捕囚の民とよい関係を保つことができたのは、一つには、彼が民と共通の立場にあったからです。彼は一人の人間、また一人の捕囚として、人々と苦しみを共にし、彼らのために主から言葉を受けました。「人の子」という表現は預言者エゼキエルを彼の民に結びつけるものです。

質問11

捕囚たちは一般的に、神と霊的事物に対してどんな態度をとっていましたか。当時のご自分の民を、神はどのように描写しておられますか。エゼ2:3、4、6

「エゼキエルは安楽な生活を送っていたのではない。彼の厳しい非難の言葉は敵をつくり出した。彼らは針のむしろよりもひどいもの、つまりさそりの家を与えた。のちにさそりの巣になるいばらのやぶに投げ入れられる忠実な預言者という描写ほど、苦悩についての恐ろしい描写は容易に想像できるものではない」(H・D.M・スペンス編『プルピット・コメンタリー』エゼキエル書2:6に関する説教、第27巻54ページ)。

質問12

ユダヤ人捕囚たちが、神の救いに対して霊的にかたくなであったにもかかわらず、神はなぜエゼキエルに彼らと共に働くようにと、命じられたのでしょうか。エゼ2:5を3:17~21と比較

当時のユダヤ人は一般的にアブラハムとモーセの信仰からそれていました。しかし、イスラエルの希望は2回目に帰還した捕囚民のうちにありました。彼らはエレミヤの幻にある「良い」いちじくでした(エレミヤ害24章)。神がご自分の民を訓練するためにお許しになったバビロン捕囚は、ユダヤの宗教を駄目にしてしまう可能性もありました。捕囚の民の大部分は偶像をおがみ、今や完全に異教の影響下にありました。しかし、残りの民がエゼキエルの働きにこたえ、いつかは国家再興のために立ち上がることを、神は知っておられました。

質問13

聖霊の支配下にないときには、どんな不思議な肉体的現象がエゼキエルを支配しましたか。エゼ3:26’27(同24:25~27、33:21、22比較)。この現象は預言者の言葉にどんな力を与えましたか。

質問14

捕囚の民はエゼキエルのあかしをどのようにみなしましたか。エゼ33:30~33

「この世においては、神のための私たちの働きがほとんど無益であるように思われることがよくある。善をなすために熱心に、忍耐づよく努力しても、私たちはその結果を見ることが許されないかもしれない。その努力は無駄であったように思われるかもしれない。しかし、私たちの働きは天国において覚えられ、必ず報いられると、救い主は約束しておられる」(「教会へのあかし」第6巻305ページ)。

まとめ

人間の世界においては、悲劇や困難はよくあることです。人生はいつでも「順風」とは限りません。私たちは試練に押しつぶされるか、あるいは神の恵みにより、試練を通して信仰に成長するかのどちらかです。私たちもエゼキエルと同じように、同胞のために有用な働きをすることができます。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。

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