この記事のテーマ|ヨハネの黙示録に記された七つの封印
黙示録6章は、4章、5章の場面の続きです。そこには、封印された巻物を解くにふさわしい者としてキリストが描かれています。なぜならキリストは、勝利を得たその生涯と死によって、アダムによって失われたものを取り戻されたからです。キリストは今や、巻物の封印を解くことによって、救済計画を最終的実現に向けて前進させる用意ができておられます。
五旬祭は福音宣布の幕開けとなり、その宣布によってキリストは御自分の王国を拡張されます。従って、封印を解くことは、福音の宣布と、福音を拒絶することの結果とに関係します。七番目にして最後の封印を開くことで、この世の歴史の最後へ私たちは至ります。
黙示録3:21は、七つの封印の意味を知る手がかりを与えています。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」。黙示録4章、5章は、キリストの勝利と、カルバリーでの犠牲の結果として、彼が天の大祭司となって巻物を開くに値することについて語っています。また7章の最後の節は、キリストの玉座の前にいる勝利者たちを描いています。それゆえ6章は、イエスとともに玉座に座れるよう、勝利の過程の中にある神の民に関する内容です。
第一の封印を開く
問1
黙示録6:1〜8をレビ記26:21〜26、マタイ24:1〜14と一緒に読み、これらの聖句に共通する鍵の言葉に注目してください。これらの類似点に基づいて、最初の四つの封印の意味について、あなたは何を学びますか。
七つの封印の諸事件は、剣、飢饉、疫病(死)、野獣(レビ26:21〜26)といった言葉で述べられている旧約聖書の契約の呪いとの関連で理解される必要があります。エゼキエルはそれらを神の「四つの厳しい裁き」(エゼ14:21)と呼んでいます。神の民が契約に不忠実になったとき、霊的状態を目覚めさせようとして、神が懲らしめるために用いられた懲罰的な裁きでした。同様に、4人の騎手は、神の民がイエスの再臨を待つ間、目覚めさせ続けるために神がお用いになる手段です。
また最初の四つの封印と、イエスがこの世で起こることを説明されたマタイ24:4〜14の間には、密接な類似点があります。4人の騎手は、この世が、今は存在するけれども、神の民の住まいでないことを思い出させることで、正しい道にとどめるために神がお用いになる手段です。
象徴的ですが、黙示録6:1、2は征服にも関係しており、それは黙示録19:11〜16を連想させます。そこでは、白い馬に乗り、再臨において御自分の民を解放するために天使の軍勢を率いているキリストが描かれています。純粋さの象徴として、白という色はキリストや彼に従う者たちにいつも結びつけられます。その騎手は弓を持ち、冠を与えられており(黙6:2)、それは、弓を手に持って馬に乗り、御自分の民の敵を征服しておられる旧約聖書の中の神の姿を連想させます(ハバ3:8〜13、詩編45:5、6〔口語訳45:4、5〕)。騎手がかぶっている冠(黙6:2)に相当するギリシア語「ステファノス」は、勝利の冠です(黙2:10、3:11)。この騎手は、征服しながら、前進している征服者です。
第一の封印の場面は、五旬祭において力強く始まった福音の宣布を描いています。キリストは、それによって御自分の王国を拡張し始められました。栄光に包まれたキリストの来臨によって実現する最終的な征服まで、獲得すべき領域はたくさんあり、イエスの弟子となるべき人はたくさんいました。今もなおそうです。
預言的に、最初の封印の場面は、エフェソにある教会へのメッセージに対応しており、それは、福音が世界中へ急速に広まった西暦1世紀の使徒時代を描いています(コロ1:23)。
第二、第三の封印
問2
黙示録6:3、4を読んでください。赤い馬と騎手に関する描写に基づいて、福音に関してどのようなことがここで語られていますか。
赤は血の色です。騎手は大きな剣を持ち、地上から平和を奪い取ることを許されています。それは、人々が殺し合う道を開きます(マタ24:6)。
第二の封印は、(西暦2世紀に始まる)福音を拒絶した結果を描いています。福音を宣べ伝えることによってキリストが霊的戦争を行っておられるので、悪の勢力は激しく抵抗します。必然的に、続いて迫害が起きます。騎手は殺害を行ってはいません。そうではなく、彼は地上から平和を奪い取り、その結果として、必然的に迫害が起こるのです(マタ10:34参照)。
問3
黙示録6:5、6をレビ記26:26、エゼキエル4:16とともに読んでください。黒い馬と騎手の描写に基づいて、福音の宣布と関連したどのような現実が述べられていますか。
黒い馬に乗った騎手は、食べ物の重さを量るための秤を持っています。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン」(黙6:6)という声が聞こえてきます。この世界のその場所では、穀物、オリーブ油、ぶどう酒が生活の基本的必需品でした(申11:14)。注意深く穀物の重さを量ってパンを食べるというのは、深刻な不足や飢饉を意味しました(レビ26:26、エゼ4:16)。ヨハネの当時、1デナリオンが日当でした(マタ20:2)。普通の状況なら、日当で家族がその日に必要とするものはすべて買えました。しかし、飢饉は通常の価格を大幅に高騰させます。第三の封印の場面では、丸1日の労働で、たった1人分の食べ物しか買えません。わずかな家族を養うために、1日の賃金は大麦を3コイニクス買うために使われました。大麦は、貧しい者たちのための安く、粗末な食べ物でした。
第三の封印の場面は、福音を拒絶したさらなる結果を指し示しています。その拒絶は、教会が政治的権力を獲得した西暦4世紀に始まるものです。もし白い馬が福音の宣布をあらわしているなら、黒い馬は、福音がないことや人間の言い伝え(伝統)に頼ることを意味します。聖書における穀物は、神の言葉を象徴しています(ルカ8:11)。福音を拒絶することは、アモスによって預言された飢饉に似ている御言葉の飢饉を必然的にもたらすのです(アモ8:11〜13)。
第四の封印の場面
黙示録6:7、8を読んでください。第四の封印の馬の色は、ギリシア語の「クロロス」という言葉で表現されており、それは腐乱死体の青白い灰色です。騎手の名前は「死」といい、同時に、死者の場所である「陰府」が彼につき従っています。これら二つは、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死と野獣で人々を滅ぼすことが許されています(マタ24:7、8)。
ありがたいことに、死と陰府の力は非常に限定的です。彼らに与えられている権威は地上の一部(四分の一)にすぎません。イエスは私たちに、御自分が死と陰府の鍵を持っていると確約しておられます(黙1:18参照)。
問4
黙示録2章のエフェソ、サルディス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラにある教会へのメッセージの内容を復習して、これら四つの教会の状況と、最初の四つの封印が開いた場面とを比較してください。それらの間に、あなたはどのような類似点を見いだしますか。
七つの封印の場面は、教会の未来を描いています。七つの教会の場合と同様、それぞれの封印は、キリスト教史のさまざまな時代と相関関係にあります。使徒時代、福音は全世界へ急速に広まりました。次には、西暦1世紀の終わりから4世紀の初めにかけて、ローマ帝国内での迫害の時代が続きました。それは、第二の封印の場面で描かれているとおりです。第三の封印は、4、5世紀の妥協の時代を指し示しており、それは「暗黒時代」をもたらした聖書の霊的飢饉によって特徴づけられていました。第四の封印は、ほぼ1000年間、キリスト教を特徴づけた霊的死を適切に表現しています。
第五の封印を開く
黙示録6:9、10を読んでください。聖書において「魂」という言葉は、人間全体(全人)を意味します(創2:7)。迫害された神の忠実な人々の殉教が、ここでは、地上における聖所の犠牲の祭壇の下に注がれた生けにえの血という表現で描かれています(出29:12、レビ4:7)。神の民は、福音に対して忠実であるために、不正と死に苦しんできました。彼らは神に向かって叫び、介入してそれらの雪辱を果たしてくれるように求めています。先の聖句は、この地上でなされた不正に関するものであって、死者の状態について述べているのではありません。いずれにしても、この人たちは天の至福を味わっているようには見えません。
問5
黙示録6:11を申命記32:43、詩編79:10と一緒に読んでください。神の殉教者たちの祈りに対して、天はどのように応答していますか。
殉教した聖なる者たちは、キリストの義をあらわす白い衣を与えられました。その衣は、キリストの恵みを受け入れる人たちへの賜物であり、彼らに雪辱をもたらすものでした(黙3:5、19:8)。次に彼らは、同じような経験をする兄弟たちが完全な者となるまで休息しているように、と告げられました。ギリシア語の黙示録6:11には「数」という言葉がありません。その点に気づくことは重要です。黙示録は、キリストの再臨前に達すべき殉教した聖なる者たちの数について語っているのではなく、彼らの品性の完全性について語っているのです。神の民が完全とされるのは、キリストの義によってであり、彼ら自身の功績によってではありません(同7:9、10)。殉教した聖なる者たちは、キリストが再臨され、千年期が始まるまで、復活し、雪辱を果たすことはないでしょう(同20:4)。
第五の場面は、歴史的に言えば、宗教改革につながる時代に当てはまり、その時代の間に、多くの人が忠実さのゆえに殉教しました(マタ24:21)。それはまた、アベルの時代(創4:10)から神が最終的に「御自分の僕たちの流した血の復讐」(黙19:2)をなさるまでの、歴史を通じて苦しんできた神の民の経験を思い起こさせます。
第六の封印を開く
私たちは第五の封印において、敵対する世界の中で不正義に苦しみ、神の介入を叫び求める神の民を見ます。彼らの祈りに応えて、神が介入なさる時がやって来ました。
問6
黙示録6:12〜14をマタイ24:29、30、IIテサロニケ1:7〜10と一諸に読んでください。ここでは何が啓示されていますか。
第六の封印の最後の三つのしるしは、マタイ24:29、30でイエスが予告されたものです。それらは、「大きな苦難」(黙7:14)の終わりの1798年に、再臨の前触れとして起こることになっていました。マタイ24章のキリストの預言と同様、ここでの太陽、月、星(流星)、そして天(空)は、比喩ではありません。「ように」「ようだ」といった言葉の使用は、実際の物や出来事(太陽が毛の粗い布地のようになり、月が血のようになり、いちじくがその実を落とすように星が地上に落ちたこと)を描写しているのです。西洋諸国のクリスチャンは、これらのしるしの順序で、イエスの言葉が成就するのを認めました。1755年のリスボンの地震、ニューヨーク東部やニューイングランド南部で体験した1780年5月19日の暗黒日、1833年11月13日の大西洋上の壮観な流星群など。黙示録6:12〜14におけるこの預言の成就が、一連のリバイバルと、キリストの来臨が近いという実感をもたらしたのです。
黙示録6:15〜17を読んでください。さらに、イザヤ2:19、ホセア10:8、ルカ23:30も読んでください。これらの場面は、キリスト来臨の際の大変動の恐怖から、必死で逃れようとしているさまざまな立場の人々を描いています。彼らは岩や山に、「玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」(黙6:16)と頼んでいます。キリストが「御自分の聖なる者たちの間であがめられ(る)」(IIテサ1:10)ためにおいでになり、正義が行使される時が到来したのです。悪い者たちの終焉は、黙示録19:17〜21に書かれています。
この場面は、恐怖におびえた悪い者たちによる修辞疑問文で締めくくられています。「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか」(黙6:17)。その質問に対する答えは、黙示録7:4に与えられています。その日に耐えられるのは、神の印を押された人たちです。
さらなる研究
七つの封印を開く幻は、地上の御自分の民に対する神の配慮と諭しを象徴的に示しています。ケネス・A・ストランドが、次のように指摘しているとおりです。
「聖書には、神が常に御自分の民を気遣ってこられたという確証がある。歴史の中で、神は彼らを支えるためにいつもともにあり、終末の結末においては、彼らの汚名を完全にすすぎ、永遠の命という理解しがたいほどに気前の良い報いを与えてくださる。黙示録はこの同じ主題を取り上げ、見事に広げている。それゆえに黙示録は聖書の一般的な書巻と調和しない風変わりな啓示の書では決してなく、聖書のメッセージの核心部分、本質を伝えている。確かに、黙示録が強く指摘しているように、『生きている者』(黙1:18)—死と墓を征服なさった方—は、御自分に忠実に従う者たちをお見捨てにならないだろう。彼らは殉教するときでさえ、彼らを待ち受ける『命の冠』(同2:10、さらに21:1〜4、22:4参照)によって打ち勝っている(同12:11)のである」(「七つの頭—それはローマ皇帝をあらわすのか」、ダニエル書・黙示録委員会シリーズ『黙示録に関するシンポジウム②』第7巻206ページ、英文)。
*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。