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七つの封印の開封のメッセージは、キリストを信じると主張するすべての人が、忠実さゆえの祝福か、不忠実さゆえの呪いを受けることを示しています。最初の四つの封印は、神の民を霊的無気力から目覚めさせ、勝利させる神の訓戒的手段を描いています。しかし神の民はまた、福音に敵対する世界にあって不公正や抑圧にも苦しみます。第六の封印が開かれるとき、神は、御自分の民に危害を加えた人たちに対処する用意ができておられます。
黙示録7章は、第六の封印と第七の封印の間に挿話的に入れられている出来事です。第六の封印は、キリストの再臨へと私たちを連れて行きます。悪い者たちが裁かれるとき、黙示録7章は、キリストの来臨の日にだれが耐えられるだろうかという質問に答えます。それは、印を押された14万4000人です。
14万4000人のほかの特徴は、黙示録14:1〜5に記されています。また、第六のラッパと第七のラッパの間にも出来事が入っています(黙10:1〜11:14)。この出来事は、第二次大覚醒と再臨待望運動の誕生とともに始まるもので、7章の冒頭の場面と同じ時代に符号し、終末時代の神の民の経験と任務に焦点を合わせています。
風を抑制する
問1
黙示録7:1〜3をIIペトロ3:9〜14とともに読んでください。ヨハネは何を見ましたか。天使は、どれくらいの時間、風を抑制していたと思われますか。印を押す作業が終わると、どのようなことが起きますか。
旧約聖書の中で、風は、神が悪い者たちに裁きを下す際にお用いになる破壊的な力を象徴します(エレ23:19、20、ダニ7:2)。「神の天使たちが人間の激情の激しい嵐を抑えるのをやめると、争いの諸要素がことごとく解き放たれる」(『希望への光』1989ページ、『各時代の大争闘』下巻386ページ)。これらの破壊的な力は、神の民に印が押される間、神の介入によって抑制されています。
古代において、印を押すことの第一の理由は所有権でした。新約聖書における象徴的な印の意味は、「主は御自分の者たちを知っておられる」(IIテモ2:19)です。神は御自分の民を認め、聖霊によって印を押されます(エフェ1:13、14、4:30)。終末時代に、額の印が神の忠実な民、神の掟を守る民に押されます(黙14:1、12)。その印は額に押された目に見える印ではなく、エレン・G・ホワイトによれば、それは、「知的にも、霊的にも真理に慣れ親しんでいるので、彼ら〔神の民〕が動かされえないこと」(『終末の諸事件』220ページ、英文)を意味します。その一方、最終的に獣の側につく人たちは、獣の印を押されます(同13:16、17)。
神の印を押された人たちの忠実さは、あらゆる時代に試されてきました。しかし、最後の危機における忠実さの試金石は、神の掟を守ることです(黙12:17、14:12参照)。特に第四条は、神への服従の試金石になるでしょう(同14:7)。聖書の時代に安息日が神の民のしるしであったように(エゼ20:12、20、ヘブ4:9、10)、それが最後の危機の中にあって、神への忠誠のしるしになるのです。
終わりの時に、神の印は、最後の七つの災いという破壊的な力からの保護のしるしとしても機能します(黙示録7:1〜3の背景となる比喩的描写としてエゼ9:1〜11参照)。このようにして、黙示録6:17で提起された質問は、最終的に答えられます。神の怒りの日に守られ、耐えられる人たちとは、神の印を受けた者たちなのです。
神の印を押された人たち
問2
黙示録7:4〜8を読んでください。神の印を押された人たちは何人ですか。この具体的な数字は、何を意味していますか。
印を押された人たちの数が発表されるのは、印を押す作業が完了したことを示します。ヨハネは、数がイスラエルの十二部族出身の14万4000人であると耳にします。ここでは、文字どおりの数ではなく、それが意味することに言及しているのです。14万4000という数は、12×12×1000で成り立っています。12は神の民の象徴、イスラエルの部族や、十二使徒の土台の上に建てられた教会の象徴です(エフェ2:20)。それゆえ、14万4000という数は、終末時代の神の民全体、キリストの再臨に備えており、死を見ることなく昇天する「全イスラエル」(ユダヤ人と異邦人)をあらわしています(ロマ11:26、Ⅰコリ15:51〜53)。
黙示録7章に記されている十二部族は、明らかに、文字どおりではありません。なぜなら、南北の王国に広がっていたイスラエルの十二部族は、今日、存在しないからです。北王国の十部族は、アッシリアに征服され捕囚の身となり(王下17:6〜23)、その地でほかの民族と一体化しました。それゆえ、十二部族は今日のユダヤ人を構成していません。
また、黙示録7章の十二部族のリストは、聖書のほかのところに見られるものとは異なります(民1:5〜15、エゼ48:1〜29と比較)。ユダが、ルベンの代わりに最初の部族として挙げられています(民1:5と比較)。さらに、(民数記1章やエゼキエル48章のリストには含まれている)ダンとエフライムの部族が黙示録7章のリストでは省かれており、その一方でヨセフとレビが加えられています(レビ7:7、8)。黙示録7章のリストからエフライムとダンが省かれた明らかな理由は、旧約聖書の中で、これら二つの部族が背教的で、偶像礼拝を行ったからです(王上12:29、30、ホセ4:17)。
黙示録7章の部族のリストは、歴史的なものではなく、霊的なものです。ダンとエフライムがこのリストに含まれていないのは、この二つの部族の不忠実さが神の印を押された人たちの間に入り込む余地のないことを示唆しています。また、新約聖書の中の教会もイスラエルの十二部族と呼ばれています(ヤコ1:1)。黙示録7章の十二部族は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、最後まで耐え忍ぶ神の民全体をあらわしているのです。
大群衆
黙示録7:9、10を読んでください。ヨハネは「だれにも数えきれないほどの大群衆」を目にします。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」(黙7:14)のです。つまり彼らは、どのような苦難を体験してきたにしろ、イエスに忠実であり続けた人々の特別な集団なのです。その忠実さは、イエスの完全な義の衣で覆われていることによって象徴されています。「苦難」という言葉は、信者が自分の信仰のために苦しむ物事を指すために、聖書の中でとても頻繁に用いられています(例えば、出4:31、詩編9:10(口語訳9:9)、マタ24:9、ヨハ16:33、ロマ5:3参照)。それゆえ、アドベンチストの中には、このグループも14万4000人をあらわしているのだと考える人たちがいます。しかし私たちは、この「大群衆」を、はるか昔から信仰のために苦しんできたすべての救われた民を指していると理解できるでしょう。
「だれにも数えきれないほどの大群衆」というヨハネのこの描写の中にも、聖書全体の中に見られるように、恵みによる救いという大きな主題が見られます。救われた者たちが救いを、永遠の命を、新しい天と地を要求できるのは、キリストの義によってのみであり、その義は恵みによって彼らに与えられるのです。
「み座のいちばん近くには、かつてサタンの業に熱心であったが、火の中からの燃えさしのように取り出されて、深い熱心な信仰をもって救い主に従ってきた者たちがいる。その次には、虚偽と不信仰のただ中にあってキリスト者の品性を完成した者たち、キリスト教界が神の律法は無効であると宣言した時にも律法を尊重した人たち、さらに、各時代にわたり、信仰のために殉教した無数の人たちがいる。そしてその向こうには、『あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に』立っている(黙示録7:9)。彼らの戦いは終わり、彼らの勝利は獲得された。彼らは走るべき行程を走り、ほうびをもらった。彼らの手にあるしゅろの葉は勝利の象徴であり、白い衣は、今は彼らのものとなっているキリストの汚れなき義を示している」(『希望への光』1923、1924ページ、『各時代の大争闘』下巻450ページ)。
小羊に従う者たち
問3
黙示録14:1〜5を読んでください。14万4000人の聖なる者たちには、どのような三つのおもな特徴がありますか。これらの特徴は、黙示録14:12の終末時代の聖なる者たちと、どのように関係していますか。
黙示録14:4、5は、14万4000人に関する描写であり、その描写は、「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける」(黙14:12)最終時代の神の民と一致しています。最後の危機において、あふれるほどのサタンの怒りを体験したにもかかわらず、イエスとの近しい関係のゆえに揺らぎませんでした。
問4
黙示録17:5を踏まえると、14万4000人は、どのような意味で女に触れて身を汚したことがなかったのですか。品性の純潔さは、彼らが「神……に献げられる初穂」(黙14:4)として地上から贖われた事実と、いかに関係していますか。
性的不道徳は、神に対する不忠実の象徴です。黙示録17:5は、終末時代の淫婦バビロンとその娘たちについて述べています。この世のあらゆる人が、彼女たちとみだらな行いをするでしょう(黙18:3参照)。しかし14万4000人は、キリストに忠実であり続け、バビロンや背徳の教会との汚れた関係を拒みます。それゆえ、彼らは「小羊の行くところへは、どこへでも従って行く」(黙14:4)のです。
さらに14万4000人は、「神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たち」(黙14:4)であると述べられています。古代イスラエルにおいて、初穂は、神にささげられる穀物の中で最高のものでした(民18:12)。「初穂」という言葉は、この世の民とはまったく異なる救われた民を指していますが(ヤコ1:18)、黙示録において、14万4000人は明らかに特別な民です。なぜなら、彼らは死を見ることなく、天に挙げられるからです(Ⅰコリ15:50〜52)。それゆえ、彼らは、あらゆる時代を通じて救われた、より多くの穀物の中の初穂なのです(黙14:14〜16参照)。
救いは神と小羊のもの
問5
黙示録14:5をIIペトロ3:14、ユダ24、25と一諸に読んでください。黙示録は、神の終末時代の民を「とがめられるところのない者たち」と評しています。どうしたらそのような状態になることができるのでしょうか。
14万4000人の最後の特徴は、「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」(黙14:5)という点です。この世の人は、自分の偽りを信じることを選びますが、終末時代の神の民は、彼らの救いとなる真理を愛そうとします(IIテサ2:10、11)。
「とがめられるところのない」(ギリシア語で「アモーモス」)というのは、キリストに対する14万4000人の忠誠を指しています。聖書の中で、神の民は聖なる者と呼ばれています(レビ19:2、Ⅰペト2:9)。アブラハム(創17:1)とヨブ(ヨブ1:1)は、「全き人」「無垢な人」でした。クリスチャンは、神の前に聖なる、汚れのない者となるように召されています(エフェ5:27、フィリ2:15)。
問6
ローマ3:19〜24を読んでください。なぜ私たちはこの重要な真理をいつも覚えておかねばならないのですか。
世界史が終わろうとする時代に、14万4000人はキリストの御品性を反映するでしょう。彼らの救いは、彼ら自身の聖さや行いよりも、彼らのためにキリストが成し遂げてくださったことを反映しています(エフェ2:8〜10)。14万4000人は、小羊の血で彼らの衣を洗って白くしたので(黙7:14)、神の前に「きずや汚れが何一つな(い)」(IIペト3:14)のです。
さらなる研究
14万4000人が誰であるかは、盛んに議論されてきた問題です。黙示録において明らかだと思えるのは、14万4000人がこの地球史の終わりの時代における神の民の最終世代だということです。私たちは、彼らが苦難の時を経験するが、最後の七つの災から守られること(詩編91:7〜16参照)、また彼らの忠誠心が過去のどの世代とも違う形で試されることを知っています。
その集団の中に誰がいるのか、はっきり示されていません。彼らが誰であるかは、神が御自分で秘しておられることの一つなのです(申29:28〔口語訳29:29〕)。だれが救われた聖なる者たちの集団に属しているのかは、その時にならなければわからないでしょう。この神秘に関して、一つの警告が与えられています。
「神は、心の宝庫にとどめておくべき、心を高め、気高くするスケールの大きな真理をお与えになったのに、教会の中には作り話や仮定的な話を持ち込む人たちが出てくるであろう、とキリストは言われました。人間が必ずしも知る必要のないことについて、好奇心からあの説、この説を取り上げる時、それは神の導きではありません。神の民が、み言葉の中には教えられていないので自分で想像したことを人々に提示するのは、神のご計画ではありません。たとえば、14万4000はだれかというような、霊的な助けにならない問題で論争するのは神のみ旨ではありません。このことは間もなく、神に選ばれた人にははっきりわかるでしょう」(『セレクテッド・メッセージⅠ』232、233ページ)。
*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。