この記事のテーマ
黙示録は、サタンの終末の惑わしが成功し、この世が獣を拝むことを選び、その刻印を受けるであろう、と教えています。しかし黙示録14:1〜5は、神が御自分の残りの民を持っておられ、彼らは、この世の大半が主を支持しないときにも主を支持するだろう、と述べています。
最終的に人々は、拝むか拝まないかではなく(すべての人が常に何かを拝んでいます)、だれを拝むかを選択しなければならなくなるでしょう。獣を拝む者たちは、彼らの右手か額に刻印を押されますが、それは、行為と思いによってこの背教の制度に仕える選択を彼らがしたことを象徴します。
その一方で、この世は、五旬祭の日以後、目にしたことのなかったような、福音の大規模な宣布を目撃するでしょう。神の裁きが反抗的な人類に下される前に、神は警告のメッセージを「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に」(黙14:6)送られます。神は、だれも滅びることなく、すべての人に救われてほしいと望んでおられます。それゆえにキリストの死は、全人類のためだったのです。問題は、だれがその提供を受け入れ、だれが受け入れないかです。
三天使のメッセージ
終わりの直前、神は警告のメッセージを送られますが、それは、空を飛びながら大声で叫ぶ3人の天使によって象徴的に描かれています。天使に相当するギリシア語「アンゲロス」は「使者」という意味です。黙示録から得られる証拠は、三天使が、この世に伝える終末のメッセージを託された神の民をあらわしていることを示唆します。
黙示録14:6をマタイ24:14と一緒に読んでください。第一天使のメッセージは「永遠の福音」(黙14:6)と呼ばれていますが、終末時代の最初のメッセージは、この世に訪れた神の裁きの時という状況下における福音の宣布です。福音とは、神に関する良い知らせであり、この神が、イエス・キリストに対する人間の信仰と、人間のためのキリストの業に基づいて救ってくださいます。その福音が「永遠」であるのは、神が変わらないからです。神の御計画は、人間が存在する前に立てられました(IIテモ1:9、テト1:2)。第一天使のメッセージには、救いと裁きの両方が含まれています。それは、神に栄光を帰し、創造主として礼拝する人たちにとっては良い知らせですが、創造主と、真の礼拝のしるし(第七日安息日)を拒む人たちにとっては、裁きの警告でもあるのです。
三天使は、「大声」(黙14:7、9)でメッセージを宣べ伝えていると記されています。メッセージは、緊急かつ重要なものです。すべての人がそれを聞く必要があります。なぜなら、永遠の運命に関係しているからです。従って、それらのメッセージは、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に宣べ伝える必要があります。この宣布が重要なのは、終わりの時に、「あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民」(同13:7)に対して獣が権威を振るうからです。世界規模でのサタンの惑わしの活動は、世界規模での終末の福音宣布によって対処されます。
三天使のメッセージは、サタンと彼の終末時代の盟友たちに対抗するために、神の民によって宣べ伝えられます。その盟友たちとは、異教の信仰や心霊術を象徴する竜、ローマ・カトリックを意味する海の獣、アメリカ合衆国内の背教プロテスタントをあらわす偽預言者、つまり小羊に似た獣です(同13章)。これらは、第六の災いの時に至るまで、ずっと活動します(同16:13、14)。この世は、地上の人々の忠誠を得ようとする目的を持った二つの対立するメッセージを提示されるのです。
第一天使のメッセージ(その1)
問1
黙示録14:7をコヘレト12:13、14と一緒に読んでください。「神を畏れる」とは、どんな意味ですか。福音は、神の掟を守ることと、どのように関係していますか(ロマ7:7〜13も参照)。神を畏れることと、神の栄光をたたえることの間には、どのような関連がありますか。
「神を畏れ、その栄光をたたえなさい」(黙14:7)という命令は、「永遠の福音」との関連で発せられています。キリストが私たちの救いのために成し遂げてくださったことを自覚するとき、結果として、肯定的な応答ができます。
聖書において、神を畏れることと、神の栄光をたたえることは、密接に関係しています(詩編22:24〔口語訳22:23〕、黙15:4)。それらは、一緒になって、神との正しい関係(ヨブ1:8)と神への服従をあらわしています。
神を畏れるというのは、神を恐れることではなく、神を真剣に受け止め、私たちの生活の中に御臨在されるのを認めることです。終末時代の神の民は、神を畏れる民です(黙11:18、19:5参照)。神は、御自分の民が神を愛し(申11:13、マタ22:37)、神に服従し(申5:29、コヘ12:13)、神の御品性を反映すること(創造22:12)を強く願っておられます。
「神の裁きの時が来た」(黙14:7)ので、神の民が神の栄光をたたえることは重要です。ここでの裁きとは、再臨前の調査審判のことで、再臨の前に行われます。この審判の目的は、私たちが心から神に仕えているかどうか(私たちの行いによってあらわされる選択〔IIコリ5:10参照〕)を明らかにすることです。この裁きが終わるとき、すべての人の運命が決定され(黙22:11)、イエスがそれぞれの人の行いに応じて報いをもたらすために来られます(同22:12)。
黙示録14章における裁きは、福音の一部です。神と正しい関係にある人たちにとって、裁きは良い知らせであり、それは雪辱、救い、自由、永遠の命を意味します。しかし不忠実な人たちにとって、それは悪い知らせです。もし彼らが悔い改め、終末時代(裁きの時)のこのメッセージを受け入れることで神に立ち帰らないとしたら……。神は、1人も滅びないで、皆が悔い改めることを望んでおられます(IIペト3:9)。
第一天使のメッセージ(その2)
黙示録は、地球史上最後の危機における中心問題が、神の掟を守ることによってあらわされる礼拝と神への服従である(黙14:12)、と教えています。この世の人々は、二つのグループに分かれます。神を畏れ、神を礼拝する人たちと、獣を恐れ、獣を礼拝する人たちです。
問2
十戒の最初の四つの戒めを復習してから(出20:2〜11)、黙示録13章を読んでください。獣が礼拝を要求すること(13:7、8)、また、自分を拝ませるために獣の像を造り(13:14、15)、神と神の御名を冒し(13:5、6)、獣の刻印を押されるように要求することは(13:16、17)、サタンが最後の危機において十戒の最初の四つの掟を攻撃することを、いかに指し示していますか。
十戒の最初の四つの掟の中心概念は、礼拝です。黙示録は、これらの掟が最後の危機の中で神への忠誠心の基準になるだろうと示唆しています。キリストとサタンの最後の戦いは、明らかに礼拝と最初の四つの掟を中心に展開されます。
この最後の危機における主要問題は、第一天使のメッセージの二番目の勧告で強調されています。「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」(黙14:7)という呼びかけは、十戒の第四条(出20:11)をほぼそのまま引用したものです。この事実は、創造主なる神を礼拝せよという呼びかけが、安息日順守の呼びかけであることを示しています。
第七日(土曜日)の休息と礼拝は、私たちと神との関係の特別なしるしです(出31:13、エゼ20:12)。第一天使のメッセージは、創造主を礼拝せよ、という呼びかけなのです。
「第4条の戒めに反して、国家の法律に従って偽りの安息日を守ることは、神に敵対する権力に忠誠を尽くすという表明であり、一方、神の戒めに従って真の安息日を守ることは、創造主に対する忠誠の証拠である。一方は、地上の権力に服従するしるしを受け入れることによって、獣の刻印を受け、他方は、神の権威に対する忠誠のしるしを選んで、神の印を受けるのである」(『希望への光』1894ページ、『各時代の大争闘』下巻375ページ)。
第二天使のメッセージ
第二天使のメッセージは、バビロンが倒れた(背教した)ことを告げ、それを偽りの宗教制度であるとみなしています。黙示録17:5において、「バビロンは、『淫婦どもの母』であると言われている。その娘たちとは、彼女の教義と言い伝えを重んじてその例にならい、世との不法な同盟を結ぶために、真理と神の是認とを犠牲にする諸教会の象徴でなければならない」(『希望への光』1779ページ、『各時代の大争闘』下巻84ページ)。
黙示録14:8を同18:2、イザヤ21:9と一緒に読んでください。「倒れた」という言葉が二度繰り返されていることは、バビロンの背教が進行していることを指すとともに、道徳的にすっかり崩壊していることの確かさを意味しています。
黙示録における終末時代のバビロンとは、ローマ・カトリックと背教プロテスタント教会を含む偽りの宗教制度の連合体です。これらの偽りの制度は、神の民に対抗して、身を入れてサタンに仕えるでしょう(黙13:11〜18、17:5参照)。この背教的宗教連合は、自らを神よりも高く位置づけ、この世における神の立場を占めようとすることで、古代バビロンの傲慢さをあらわします。第二天使のメッセージは神の民に、この悪しき制度が、終末時代の福音メッセージの光を拒んだ結果として、真理からますます逸脱することを警告しているのです。「教会と世俗との結合がキリスト教国全体において完全に行われる時に、初めてバビロンの堕落は完全なものとなる」(『希望への光』1783ページ、『各時代の大争闘』下巻92ページ)。
黙示録14:8を17:2、18:3と一緒に読み直してください。黙示録17章は、みだらな行いのぶどう酒によって地上に住む人々を酔わせた淫婦として終末時代のバビロンを描いています(黙17:2参照)。
バビロンのぶどう酒は、このような背教の宗教制度によって提供される偽りの教えや偽りの福音を指します。今日、預言の成就として、多くのプロテスタント教会が、かつてローマ・カトリック教会から区別した違いを急速になくし、聖書の真理から離れており、私たちは、見せかけのキリストの体の中でバビロンのぶどう酒が不健全な影響を及ぼしているのを目撃します。第一天使のメッセージの中の天地創造に関する言及と暗に対比される有神論的進化論、「聖書のみ」に置き換わりつつある神学的言い伝え(伝統)、性や結婚に関する聖書の定義を捨てて改変された倫理など。酔わされた人々は、明瞭に考えることができません。人々がバビロンのぶどう酒で霊的に酔うにつれ、バビロンは、海の獣を拝んでその刻印を受けるようにと彼らを誘惑します。
第三天使のメッセージ
問3
黙示録14:12は神の忠実な民を、どのように説明していますか。
神の忠実な民とは対照的に、黙示録14:9、10は、神の怒りに遭う人たちの運命について警告しています。旧約聖書において、神の怒りが注がれることは、神の怒りの杯からぶどう酒を飲むこととして象徴的に描かれています(エレ25:15、16)。獣を拝む者たちへの裁きの厳しさは、神の怒りの杯に「混ぜものなしに注がれた」(黙14:10)神の怒りのぶどう酒を飲むことによって表現されています。古代の人々は、ぶどう酒の酔わせる力を弱めるために、しばしば水で薄めました。しかし神の怒りのぶどう酒は、「混ぜものなし」と記されています。混ぜものなしの、水で薄められていないぶどう酒は、神の怒りが容赦なく最大限に注がれることをあらわしています。
問4
黙示録14:10、11を20:10〜15と一緒に読んでください。イザヤ34:8〜10とユダ7は、「その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上(る)」という言葉に、どのような光を投じていますか。
火と硫黄で苦しめられるという言葉は、完全に滅ぼすことを指しています。火と硫黄は、裁きの道具です(創19:24、イザ34:8〜10)。立ち上る滅びの煙は、聖書でよく使われる比喩です。イザヤは、火と硫黄によってエドムが滅びることを預言しました。エドムは「ピッチとなって燃え上が(り、)夜も昼も消えることなく/とこしえに、煙を立ち昇らせ(る)」(イザ34:10)。ユダは、ソドムとゴモラの運命を「永遠の火の刑罰」(ユダ7)による苦しみと表現しています。これらの聖句は、永遠に燃え続けることを述べているのではありません。なぜなら、いずれの町も現在燃えてはいないからです。結果が永遠なのであって、燃えることが永遠なのではありません。黙示録における「永遠の火」は完全な滅びを指しているのであって、燃えるのは、燃える物がなくなるまで完全に破壊し尽くす間のことです。
さらなる研究
黙示録は、時の終わりに、この世への終末時代の福音の宣布が神の民に託されると教えています。私たちの前にある働きは、あまりにも困難で、ほとんど不可能に見えます。しかし私たちには、神の力が与えられるという約束があります。
「福音の大いなる働きは、その開始を示した神の力のあらわれより劣るもので終わることはない。……使命は、議論によるよりも、神の霊の深い感動によって伝えられる。論拠はすでに示された。種はまかれた。そして今、それが生えて、実を結ぶのである」(『希望への光』1897ページ、『各時代の大争闘』下巻382、383ページ)。
神の最後のメッセージを宣布することは、結果として、この世の人々を二つの陣営に分ける大きな分離をもたらします。神を愛し、神に服従する人たちと、獣に従い、獣に服従する人たちです。この区別は二つの収穫、すなわち倉に穀物を刈り入れることと(黙14:14〜16)、搾り桶で踏むためにぶどうを取り入れること(同14:17〜20)によって説明されています。この最後の分離が、黙示録17章、18章の主題です。
*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。