【エゼキエル書】神の心臓手術【11章、36章解説】#11

目次

新生と自己修練

回心(新生)の経験はクリスチャンの生き方においてどれほど重要でしょうか。自己修練が私たちの生活や態度に変化を生み出すことができないのはなぜでしょうか。自己修練や個人の努力は毎日の信仰生活においてどんな意味を持つのでしょうか。

アウトライン

  • 土地の賜物(エゼ11 : 17)
  • 新しい心の賜物(エゼ11:19)
  • 従順の応答(エゼ11 : 20)
  • 神を敬う(エゼ36:16~24)
  • 悔い改めの働き(エゼ36 : 31、 32)

愛は心を変える

救世軍創設者の娘で、士官でもあったエバンジェリン・ブースは、何人かの仲間と共に警察裁判所の人口に立って、門の開くのを待っていました。

突然、別のへいの方向から、ひきずる足音、大きな叱声、女のかん高い声が聞こえてきました。そして、鉄の門が開き、一人の女が6人の警官にかかえられるようにして通路を通って、待機している自動車の方に向かっていきました。

女の髪は乱れ、もつれ、顔はあざで黒ずみ、左の額にはかわいた血のかたまりがついていました。彼女の衣服と前掛けは血まみれになっていて破れていました。彼女はののしりの声を上げながら、頭を激しく振り、守衛に抵抗していました。

エバンジェリンは何とかして彼女を助けたいと思いました。しかし、その囚人に語りかける機会がありませんでした。祈り、歌、お金、助言もその場にふさわしいとは思われませんでした。囚人が警官ともみ合いながら前を通り過ぎようとしたとき、エバンジェリンは、とっさに前に進み出て、彼女のほほにキスをしました。

守衛の手を振り切った囚人は、エバンジェリの両手を握りしめ、灰色の空に向かってこう叫びました。「私にキスをしたのはだれ?私にキスをしたのはだれ?母が死んでから、だれひとりキスをしてくれなかったのに/」。 疲れ切った彼女は前掛けに顔をうずめ、発作的に泣き出しました。女はすっかりすなおになって、守衛に連れられていきました。

数日後、エバンジェリンは囚人の独房を訪ねました。女は静かになっていましたが、なおも「私にキスをしたのはだれ?」と繰り返していました。看守は彼女が発狂したものと思っていました。しかし、彼女はエバンジェリンに対して心を開いてくれました。エバンジェリンは、救い主が私たちのほほにゆるしのキスをするために、どのようにして十字架につき、私たちの罪を負い、私たちの不義のために苦しまれたかについて語りました。彼女は愛をもって、罪のとりこになっていた魂をイエス・キリストにある救いの自由へと導いたのでした(エバンジェリン・ブース「私にキスしたのはだれ?」『ライフ.アンド・ヘルス」1969年1月、17ページより)。

今回の研究のポイント

パレスチナヘの帰還が、回心の経験を通してなされるという神の計画について学びます。捕囚後のイスラエルの新しい生活は各自が自覚して始めなければなりませんでした。天のカナンにおける永遠のいのちについての希望は、新約聖書の中で「新生」と呼ばれている根本的な変化なくしては決して実現しません。神の恵みという「キス」が、私たちを生まれ変わらせてくれるのです。

土地の賜物(エゼ1:17)

質問1

神は回復されたイスラエルにどんな物的賜物を与えようとしておられましたか(エゼ11:17)。 すでにイスラエルのものとなっていたはずなのに、それが与えられるとはどういう意味ですか( レビ25:23、歴代下7:19、 20、ホセ9:3比較)。

カナンの地は本当は決してイスラエルのものではありませんでした。それは主の土地でした。イスラエル人は真の所有者である神との契約関係にもとづいて、神の管理者としてそれを所有していたにすぎません。神との契約を破ったとき、彼らは神の祝福にあずかるすべての権利を失いました。土地はこの祝福の一つでした。神はいま、契約の更新を見越して(エレ31:31~34)、 ふたたび彼らに土地を約束されたのでした。

質問2

土地に関してどんな約束が与えられましたか(エゼ36:8 ―11、 29、 30、 34~38)。イスラエル人はどんな特別な教訓を学ばなければなりませんでしたか。11節と38節の後半に注目してください(申命8:17、18比較)。

創造主の意図は、物質的繁栄がそれを受ける者たちに神に対する感謝の心をもたらし、それによって神と神の子らのきずなが強められることにありました(詩116:12~14参照)。しかし、私たちは賜物だけは喜んで受けますが、その与え主を忘れがちです。

私たちはしばしば、自分たちが物質的に富んでいるのは霊的にすぐれているからだと誤解します。ヨブは信仰の人でしたが、大いなる苦難に会いました。イスラエルは富んでいましたが、信仰がありませんでした。

質問3

神は古代イスラエルにカナンの地を委託されました。主は彼らの幸福と諸国民に対するその影響力に関心を寄せておられました。神は人類家族に何を委託しておられますか。詩24:1、115:16(創世1:26、28比較)

罪は神の計画を全く狂わせました。罪によって、アダムとエバは神から委託された管理者としての特権を失いました。もし救いの計画がなかったならば、人類は滅びていたことでしょう。實欲と抑圧によって、富める者と貧しい者とのあいだに悲しむべき不公平が生じました。人類はしばしば利己的無関心によって環境を破壊しています。ある意味で、私たちのあらゆる物的祝福はキリストの十字架のおかげなのです。

この世の生命さえキリストの死のおかげである。われわれの食べるパンは、キリストの裂かれたからだをもって買われたものである。われわれの飲む水は、キリストの流された血によって買われたのである。聖徒であろうと罪人であろうと、日ごとの食物を食べる者はだれでも、キリストのからだと血によって養われているのである。どのパンにもカルバリーの十字架の印がおされている。どの泉にもカルバリーの十字架が反映している。……家族の食卓は、主の食卓となり、毎度の食事は聖さんとなる」(『各時代の希望』下巻141ページ)。

新しい心の賜物(エゼ1:9)

霊的リバイバルは回復の最も重要な特徴です。捕囚の苦しみは正直な者たちの心に悔い改めの必要を目ざめさせました。彼らは逆境を通して神の愛の心づかいを発見しました。

質問4

エレミヤは霊的刷新の必要をどのように訴えていますか。エレ29:10~14

エレミヤとエゼキエルがイスラエルに対して帰還のための霊的備えをするよう訴えたように、今日の教会に対しても同じような勧告が与えられています。「私たちのうちに真の敬神の念を復興することが、すべての必要の中で最大にして、最も切迫した必要である。それを求めることが私たちの最初の働きでなければならない。……しかし、告白、へりくだり、悔い改め、熱心な祈りによって、神の約束された祝福を受ける条件を満たすことが私たちの務めである。リバイバルはただ祈りにこたえて与えられるのである」(『セレクテッド.メッセージズ」第1巻121ページ)。 

質問5

エレミヤはイスラエルの民に「一心に」主を求めるように勧告しました。神は彼らに何を与えると約束しておられますか(エゼ11:19、36:25、26、33)。 神の恵みによってのみ可能などんな三つのことが約束されていますか。

この霊的更生についての約束は一つの国民としてのイスラエルにあてはまります。しかし、イスラエルの回復は各人の生活に変化が生じたときにのみ実現するのです。ダビデと使徒パウロはこの経験を「新しい創造」と呼んでいます(詩51 : 10、Ⅱコリ5: 17参照)。

質問6

イエスはこの奇跡的な変化について何と言っておられますか。それはどれほど重要なものですか。それはどんな働きによって達成されますか。ヨハネ3:3~7

「私どもは、自分の力で一度沈んだ罪の淵からのがれることはできません。また私どもの悪い心を変えることもできないのであります。『だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない」(ヨブ記14:4)。『肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである』(ローマ8:7)とあります。…・・・天よりの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪よりきよめられることはできません。この力というのはキリストであります。キリストの恵みのみが人の力なき魂を生きかえらせて、これを神ときよきに導くことができるのであります」(「キリストへの道』15ページ)。

従順の応答(エゼ11 :20)

質問7

「新しい心」の賜物に関連して、神はさらにどんな恵みを与えると約束されましたか。エゼ11:20、36:27

両親は子供たちに規則を教えることによって彼らを有用な大人に育てる義務を負っています。その目的は、子供たちが親の教えを自分のものとすることによって、有用な人生を送ろうとする積極的な態度を自らのうちに養うことにあります。イスラエルと私たちに対して神は悔い改めたすべての罪人の心に聖霊を宿らせ、「わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」と約束して下さいました(エゼ36:27)。

質問8

イエスと使徒パウロによれば、喜んで神のみこころに従う動機づけを与えるものは何ですか(マタ22:36~40、ロマ13:8~10)。 この「動機づけ」はどのようにして得られますか(エゼ36:27、ロマ5:5)。すべての人間は生まれつき自己中心的で、神の主権に逆らう傾向を持っています(ロマ8:6~8)。

 人間が自然に神に従うようになるということはありえません。しかし、聖霊はこの状態を変えてくださいます。聖霊は「新生」をもたらし(ヨハ3:5~8)、 新しい心を創造し(詩51:10、11)それに神と人とに対する愛を注ぎ(ロマ5:5)、 神のみこころである律法を心のうちにしるしてくださいます(エレ31:33)。 このようにして、変えられた罪人は神と調和した生活を送ることができるようになります(エゼ36:27)。

愛の奉仕

「けれども服従ということは、単なる外面だけの服従ではなく、むしろ愛の奉仕をさすのであります。……私どもの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるならば、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか。愛の原則が心に植えつけられ、私どもの心が創造主である神のみかたちに似て新たにされるとき、はじめて「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」(へブル10:16)という新しい契約が成就されるのであります。……人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰-ただ信仰のみが私どもをキリストの恵みにあずからせ、服従することができるようにするのであります」(「キリストへの道』78、79ページ)。 

神を敬う(エゼ36:16—24)

質問9

神はイスラエルに対して、彼らが捕囚となったのはその背信のためであると言われます。彼らの背信は周辺の諸国民にどんな影響を与えましたか。エゼ36:16~20

三つの大陸の国々に近い位置に置かれたイスラエルには、真の神を世界に宣べ伝える責任と特権が与えられていました(イザ56:6、7参照)。イスラエルがバビロニア人に征服されたことによって、周辺の諸国民はイスラエルの神を無能な神、自分の民を守ることのできない神とみなすようになりました。イスラエルの背信は異教の諸国民に真の唯一の神のみ名を汚すもとになりました。その結果、彼らは人類の創造主、救い主に背を向けました(イザ45:22参照)。

質問10

神がご自分の民を回復するために諸事件を支配されるのはどんな理由からですか。エゼ36:21~24主はご自分の民を愛さなかったと言っておられるのではありません。

むしろ、主は帰還した捕囚の民を「目の玉」とみなされました(ゼカ2:8)。イスラエルの回復が彼らの功績によるものではないということを、主は彼らに理解させようと望まれました。主はまたこ“自分の名誉だけを求めておられたのでもありません。神に対する愛は、神の聖なることを敬う態度にもとづいています。諸国民のうちに神の御名があがめられることが、来るべきメシヤによって彼らを救いに導く第1歩となるのでした。

質問11

私たちはつねに何を人生の目標とすべきですか。Iコリ10:31(ヨハ17:4比較)

言葉と行為によって神の栄光をあらわすとき、私たちは人々を神にひきつけることができます。しかし、世の人々と同じように生活しているなら、私たちは神のみ名を汚し、人々が神の恵みを受け入れるのを妨げることになります。彼らはこう言うでしょう。「私たちはなにゆえクリスチャンにならねばならないのか。彼らは私たちより劣っているではないか」。

質問12

キリストの模範的な祈りにおける最初の嘆願は何ですか。キリストはなぜそれを最重要視されたのですか。マタ6:7

神の御名は神の人格、品性を表します。まことの信者はいつでも人々の前で神の品性をあがめるように努めます。神が彼らを救いに導くことができるようになるためです。(イザ45:22、ヨハ12:32参照)。

この願いは、神のご品性を持つことを要求します。生活と品性において神のいのちとご品性そのものをあらわさないならば、神のみ名をあがめることも、世に神をあらわすこともできません。このことは、キリストの恵みと義を受けることによってのみなされるのです」(『思いわずらってはいけません』140、141ページ)。

悔い改めの働き(エゼ36 : 31、 32)

質問13

イスラエルの民が捕囚の経験に対してどんな応答をすると主は預言されましたか。エゼ36:31、32(エゼ20:43、 6:9比較)

捕囚の経験は神がご自分の民を個人的・集団的悔い改めに導く唯一の方法だったように思われます。彼らは、どうしてもそれを経験しなければならなかったのでしょうか。ほかに方法はなかったのでしょうか。

「自己嫌悪は信心深い悲しみのしるしのひとつであって、もしそれが完全な働きを許されるなら、悔い改めに導くものである(Ⅱコリ7:10)。……真の悲しみはこうして生まれる。……この状態において罪人がその無力な魂をイエスにゆだね、神の功續に全的に信頼するならば、彼の悔い改めは受け入れられる」( 「SDA聖書注解』第4巻596、597ページ)。 

質問14

悔い改めが、なぜ真の回心の基礎ですか。主の訴えに注目してください(エゼ14:6、18:30)。 悔い改めには何が含まれますか(エゼ33:11)。

主の御霊が人間の心を動かすとき、彼らは信仰と悔い改め(使徒20:21)と服従(ヨハ14:15)に導かれます。真の悔い改めには必ず罪を悲しむ気持ちが含まれますが、決してそれだけではありません。悔い改めは「向きを変える」とか「転向する」という意味を含みます。真の悔い改めは、人生の方向が完全に変わる、神と人とに対する態度が根本的に変わることを意味します。聖霊の働きだけが罪の自覚をもたらします。聖霊は私たちに神の愛と自分自身の罪深さを印象づけてくださいます。ゆるしが神の賜物であるのと同様に、悔い改めも神の賜物なのです(ロマ2:4参照)。

まとめ

イスラエルのバビロン捕囚からの解放と来るべきメシヤの来臨は、イスラエルの最大の希望でした。しかし、神との契約の更新を含めて、これらの出来事に対する霊的な備えをするためには、彼らの心と生き方に真の変化が見られなければなりませんでした。神の恵みは私たちの必要に応じて与えられます。それはキリストに全的に従う者たちを霊的に造り変える完全な手段です。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。

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