終末論的贖罪日【ダニエル書と黙示録—重要な黙示預言】#6

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この記事のテーマ

ダニエル書のすべての幻は悪の勢力に対する神の勝利によって完成します。ダニエル2章は、神の王国が最終的に確立されるときに来る勝利に満ちた結末を描いています。7章は裁きの業が神の国に先行することを啓示しています。その中で人の子が父なる神のみもとに来る姿が描かれています(13節)。8章は天の聖所における人の子の祭司としての働きを強調しています。9章ではメシアの犠牲の死が強調されています。すべての場面で人の子イエスは私たちの救いの中心です。

聖書はキリストの二つの重要な働きを強調しています。一つは私たちの罪のための身代りの犠牲、もう一つは天の聖所における私たちの大祭司としての働きです。キリストの祭司としての働きは聖所の奉仕に描かれており、救いの全計画が聖所の中で象徴と予型によって表されています。

天におけるキリストの執り成しの働きはすべてのクリスチャンが理解すべき重要なテーマです。キリストが私たちの犠牲また大祭司として何をし、また何をしておられるかを学びましょう。

地上の聖所と天の聖所

「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです」(ヘブ8:5)。

問1

モーセが建てるように命じられた地上の聖所は何をモデルとしたのでしょうか。出エ25:8、9、詩11:4、ヘブ8:2、黙示15:5

ある意味で、地上の聖所がイスラエルの民に対して持っていた機能は天の聖所が宇宙に対して持っている機能と同じです。

第1に、どちらの聖所も神がご自分の民のうちに住まれる場所です。神はモーセに次のように言われました。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エ25:8)。一方、天の聖所は神が被造物のうちに臨在され、御座を置かれるところです(詩11:4、ダニ7:9、10、黙示4:2~7)。

第2に、どちらの聖所も神と神の民が会う場所です。地上の聖所において神はイスラエルの民と会い、民は神を礼拝しました(出エ29:42~45、詩43:3、4)。天の聖所は、神が天の住民と会う場所です。彼らはそこで神に仕え、神を賛美します(ヨブ1:6、詩103:19~22)。

第3に、神は両方の聖所から王として支配されます。「主はケルビムの間に御座を置き……支配される」(詩99:1、新国際訳)。「主は天に御座を固く据え/主権をもってすべてを統治される」(詩103:19)。ヘブライ10:19、20、9:11、12などを調べると、イエスが昇天後に私たちが神に近づく道を「開いて/備えて/開始して」くださったことが暗示されています。これらの聖句は、キリストが昇天後に天の聖所において祭司としての働きを開始されたことを教えています。ダニエル9:24はこの就任、あるいは油注ぎ(出エ40:9~11)を70週という期間の中に置いています。

日ごとの務め(ダニエル書8章11、12節、ヘブライ人への手紙7章25節)

ヘブライ5:1には大祭司の大事な仕事が書かれています。イスラエルの民の中で祭司は神の前に民を代表し、民の前に神を代表しました。仲保者としての役割を果たしていたのです。彼らは日ごとの務めとしてイスラエルのために犠牲を捧げました。「悔い改めた罪人は供え物を幕屋の戸口にたずさえ、このいけにえに手を置いて罪を告白し、こうして象徴的にその罪を彼自身から無垢(むく)の犠牲の上に移し変えた。……祭司は、血を聖所に運んで、この罪人の犯した律法を入れた箱の前方にたれているとばりの前に注いだ。この儀式によって、罪は血によって象徴的に聖所に移された」(『人類のあけぼの』上巻418ページ)。神はあがないの奉仕を経て、罪人の罪の責任を自ら負い、悔い改めた罪人をお赦しになりました。

キリスト(ヘブ7:27、8:1、2)は大祭司であると同時に、ご自身が犠牲の小羊、“世の罪を取り除く神の小羊”でした(ヨハ1:29)。彼は多くの人の身代金としてご自分の命と血を献げるために来られました(マコ10:45)。罪と何のかかわりもない方が私たちのために罪となり(Ⅱコリ5:21)、「わたしたちのために呪い(のろ)となって、わたしたちを律法の呪いから贖い(あがな)出してくださいました」(ガラ3:13)。

問2

昇天されたイエスは聖所で何をしておられますか。ヘブ7:25、ロマ8:34

キリストのあがないの自己犠牲において、神は私たちの罪を負われました。キリストは天の聖所において、赦しを求めて神に近づく人たちに御自身の犠牲の恵みを与えられます。キリストは、〔地上の聖所の〕日ごとの務めが象徴によって教えていたものを、天の聖所において実際に執り行っておられます。すなわち、キリストは私たちの大祭司として絶えず私たちのために神の赦しを求め(エフェ4:32)、私たちを罪から清め(Iヨハ1:9)、私たちが神に近づくことができるようにしておられます(エフェ2:18)。

贖罪日(その1)

「なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」(レビ16:30)。(ヘブ9:23参照)

民の罪は象徴的に犠牲制度によって聖所に移されましたが、贖罪日には聖所に蓄積された罪と汚れを清め、レビ記によれば同時に民も清められることになっていました。この儀式が終わると民と聖所はともに罪から清められました。この日が終わるとヘブライ人には天との平和がありました(『各時代の希望』中巻226、227ページ参照)。

問3

地上の聖所の清めはさらなる天の聖所の清めを意味します。ヘブライ9:23を読んでください。

聖書は、天にあるものが清められねばならないと書かれています。天にあるものがなぜ清められねばならないのでしょうか。これを理解するためには、地上の務め全体が天の務めの影・型であったことを覚える必要があります(ヘブ8:1~5)。地上の聖所が罪によって汚されたのと同様に、天の聖所も罪によって汚されます。そこでへブライ9:23は天の聖所も清められる必要があると述べているのです。祭司を除いて罪人は聖所に入ることができませんでした。それと全く同様に、罪人が直接天の聖所に入ることはありえません。とすれば、天の聖所は罪以外の何から清められる必要があるというのでしょうか。

ヘブライ9:23は贖罪日について言及していますが、聖句はこの清めがイエスの昇天直後に起きたと書いていません。むしろ救いの歴史のある時点で、天にあるもの自体が清められる必要があったというのです。キリストは天の聖所で執り成しの働きをなされました(黙示8:3、4)。同じ黙示録はキリストが至聖所で特別な働きをしておられるとも教えています。この特殊な働きは至聖所が開かれる黙示録11:19で始まり、至聖所が閉じられる黙示録15:8で終わっています。

贖罪日(その2)

「彼は続けた。『日が暮れ、夜の明けること2300回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る』」(ダニ8:14)。

「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」(ヘブ9:23)。

問4

二つの聖句はどのように関連づけるべきでしょうか。

2300年の終わり(1844年)に天の聖所は清められることになっていました。ここで用いられている「清められて」(ニツダック)という言葉は、ふつう「回復されて、擁護(ようご)されて」を意味しますが、基本的には不当に告発された人の権利を回復するという意味です。詩編7:9(口語訳7:8)、9:5(口語訳9:4)では、これと同じ言葉がそれぞれ「正しい」(義)、「正しく」と訳されています。

この言葉はまた救いと同意語です(イザ1:27)。聖所に関連して用いられた場合、それは清めを意味し、「清浄」と同意語です(ヨブ4:17参照)。罪人の回復・擁護は清めによってなされます(イザ53:11)。したがって、この言葉には法的な意味での救いの思想と清めの思想が一つに組み合わされています。ダニエル8:14で用いられているのはそのためです。主はこの言葉の持つ広くて深い意味を伝えようとされたのです。

《ダニエル書7章》《ダニエル書8章》
バビロン ―――――――
メド・ペルシア メド・ペルシア
ギリシア ギリシア
ローマ(帝国/教皇制) ローマ(帝国/教皇制)
天における裁き  聖所の清め
神の王国  神の王国

終末論的贖罪日の意味

問5

贖罪日における主の雄山羊とアザゼルの雄山羊にはどんな目的がありましたか。レビ16:7~10、15~22

アザゼルが人格的な存在者であることは「主のもの」、「アザゼルのもの」と対比して書かれていることから明らかです(レビ16:8)。この名は「強い神」という意味で、ここでは悪魔的な存在者を意味しています。罪は主の雄山羊の血によって聖所から除去されました。ひとたびあがないが終わると、生きた雄山羊は罪をアザゼルのもとへ、つまり彼の象徴的な住み家である荒野へ携えて行きました。こうした罪を除去する儀式を通して、罪と汚れはその創始者であり扇動者であるアザゼルのもとに返され、彼の責任下に置かれました。主は犠牲制度によってご自分の民の罪の責任を負われましたが、罪の創始者ではありませんでした。この罪は最終的には主のもとから取り除かれねばなりませんでした。

問6

アザゼルの雄山羊の追放と千年期の悪魔の状態、贖罪日の清めと新天地の状態とは関連しています。次の聖句を読んでください。黙示20:1~3、9、10、12~15、21:1~5

贖罪日はキリストによる神の救いの御業に関していくつかの側面を強調しています。

(1)贖罪日は天の聖所におけるキリストの働きの最後の局面を示しています。私たちを最後の戦いに備えさせるために、黙示預言は裁きと清めの始まる正確な時を教えてくれています。

(2)贖罪日は罪の根絶を示しています。天の聖所におけるキリストの働きは、(1)キリストが間もなく再臨されること(ヘブ9:28)、(2)真のアザゼルの正体が明らかになること(荒廃した地上の荒野に千年間つながれる〔黙示20:1~3〕)、(3)罪が根絶されること、(4)この世界が再創造されること(黙示21:1~5)を宣言しています。

(3)贖罪日に裁きと清めが行われることは、神が宇宙の道徳的審判者であることをあかしします。すべての人が神に対して責任を負わねばなりません。キリストに対して忠誠を守る人たちは、裁きにおいて勝利し、その罪の記録は宇宙から永遠に除去されます。

まとめ

ヘブライ人への手紙は旧約時代のイスラエルの聖所とその働きを挙げて、救済史における中心人物が大祭司イエス・キリストであることを強調しています。

(1)天の聖所の性質地上のいかなる建物も、その輝かしさと壮麗さにおいて天の聖所に及ぶものではありません(『各時代の大争闘』下巻126ページ参照)。地上の聖所は天の聖所の型にならって造られていたので、両者の間には基本的な構造に関して共通点がありました。地上の聖所には二つの部屋があったことから、天の聖所にも二つの部屋があることが推測されます。それ以上のことは憶測になります。天の聖所はいわば無限の神が被造物に近づくために有限なものと接触される場所でした。

(2)聖所の清めと小さな角聖所に対する小さな角の攻撃は冒とみなされました(ダニ11:31)。旧約聖書においては、聖所に対する反逆的な冒は、あがないの血によってではなく罪人の死をもって取り除かれました。たとえば、バビロニア人は神殿を破壊し、これを汚しました(エゼ7:22、25:3)。この汚れはどのようにして除去されたでしょうか。主は彼らを滅ぼし(エレ51:11)、神殿は後に再建されました。神殿を汚したイスラエル人は死に処せられました(エゼ23:39、46~49)。罪人の死を通して“あがない――清め”がなされたのでした(民数35:33参照)。小さな角は冒者とみなされ、最後には滅ぼされます(ダニ8:25)。

ミニガイド

【幕屋式聖所は救いの計画の実物教訓】

エジプトで奴隷生活を強いられたイスラエル人はカナンに入る前の砂漠の仮住まいの中、自分たちが得た最高の材料を使って“幕屋”を作りました。彼らは幕屋を真ん中において周りに自分たちの天幕を張り、生活したのでした。そこで祭司たちが毎日行う奉仕、特別な年中儀式、あるいは犠牲の捧げものの……すべてが宗教的実物教訓であり、信仰が生活と密着した形で維持されました。カナンに入国しても安定するまでの士師記、サムエル記の時代は転々と移動しましたが、幕屋のもっとも大切な“契約の箱”が民の拠りどころの役割を果たしました。

ソロモンがエルサレムのモリヤ山に造った神殿は後にバビロンによって破壊されましたが、またネヘミア、エズラ、ゼルバベルらが再建しました。ここが神の民の宗教的信仰と統一の象徴となったのです。パレスチナから遠く離れた地に居住した民は家族とともに年に数度は神殿への旅を計画し、神を礼拝しては信仰を新たにする機会としました。聖書を持たない時代の神の民はそこに贖罪の計画の要約を見ていたのです。すべては民に神の救いを象徴して教えました。大事なテーマは二つ、自分の罪の深さを実感させること、救い主によるあがないに心を向けることでした。

*本記事は、神学者アンヘル・M・ロドリゲス(英: Angel Manuel Rodriguez)著、安息日学校ガイド2002年2期『重要な黙示預言』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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