海から現れた獣(黙示録13:1~3)【ダニエル書と黙示録—重要な黙示預言】#9

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この記事のテーマ

黙示録13章は暗い光景で始まっています。竜から権威を受けた獣でスタートしているのです。竜がサタン自身であることは前回の研究で学びましたが、この獣の権力は神と神の御名と神の聖所を冒し、神の民を攻撃します。この権力のことはダニエル7章で学びましたが、ヨハネは改めてこの力について述べています。

黙示録13:1~10は一部12章の繰り返しですが、新しい、重要な情報が加えられています。中世に竜によって用いられた宗教的・政治的権力が復活し、残りの民に対する攻撃において重要な役割を果たすようになるので繰り返されているわけです。竜は残りの民――神の戒めを守り、イエス・キリストの証しを持つ人々を滅ぼそうとしますが、地から現れた獣(黙示13:11)は残りの民を攻撃する第2の勢力です。

獣が出現し、冒と迫害を行う暗い絵の中にも希望があります。神の御子とその死がこの章に啓示されているからです。竜と獣がどのような働きをしようとも、キリストは勝利を収めておられます。神は繰り返し御自身が勝利を得られたこと、そしてその勝利が私たちのためであることを知らせようとしておられます。

海から現れた獣

「わたしはまた、1匹の獣が海の中から上っ(のぼ)て来るのを見た。これには10本の角(つの)と7つの頭があった。それらの角には10の王冠ぼうとくがあり、頭には神を冒するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に(ひょう)似ており、足は熊の足のようで、口は獅(し)子(し)の口のようであった」(黙示13:1、2)。

黙示録13:1~11は、①獣の描写、②獣の経験、③獣の働き、④獣の経験と評価、⑤神の民に対する励まし、という順序になっています。

問1

「海から上ってくる」との表現は何を意味するのでしょうか。ダニ7:2、3

黙示録13章の獣とダニエル7:2~7とを比べて共通部分を調べましょう。ヨハネが第2の獣について初めに記しているのは7つの頭と10本の角です。黙示録12:3に出てくる竜も同じ特徴を持っているので、これら2つの生き物の間には密接な関係があります。10本の角はローマ帝国の分裂の象徴であるダニエル書7章の10本の角を示しています(ダニ7:7)。

ヨハネはダニエル7章に目を向けさせることによって、この獣が黙示預言の歴史的な流れの中で出現する時期を特定しようとしています。黙示録13章ではダニエル7章の獣が逆の順序、つまり豹(ギリシア)、熊(メド・ペルシア)、獅子(バビロン)の順に現れます。ヨハネは自分の時代から過去に、つまりバビロンに戻り、それから将来に進んでいます。彼がここで描いている大いなる獣は過去の3つの獣とは異なる(ダニ7:7に出てくる恐ろしい獣)ローマ帝国です。

10本の角に言及することで預言はいっそう特定化されています。10本の角にはそれぞれ王冠があるという事実から、ローマ帝国がすでに滅亡し、その後に出現する国家が政治的な権力を行使することを示しています。したがってこの獣の働きはローマ帝国の分裂後に起こります。このことからそれがダニエル7章の小さな角と同様、ローマ教会を表すことがわかります。

獣の業

問2

竜は獣に何を与えますか。黙示13:2

この聖句には即位式の光景が描かれています。竜は獣をその王国の共同支配者、また自分の目的を遂行する手先に任命しています。竜は神がキリストになさったのと同じことをしています。キリストは神から権威を受け、御父の王座にお座りになります(黙示2:27、3:21)。竜はこれをまねていますが、今でもこの世の神になろうとしているのです(イザ14:14)。

問3

黙示録1:18、5:6、13:2、3を読んでみましょう。キリストと獣とはどんな類似、相違点があるでしょうか。

黙示録13:3によれば、獣は致命的な傷を受けますが、傷はいやされ、獣は生き延びます。黙示録17:8で「以前いて今はいない……やがて来る」と言われている獣は特別な政治的、宗教的権力のことであると思われます。

問4

獣の傷が癒(いや)されると全地はどうしましたか。黙示13:3、4

この獣の回復については「全地は驚いて」とあるように、世界に衝撃を与えます(黙示17:8参照)。この聖句はまた、獣が政治的な権力であると同時に、宗教的な権力でもあることを明らかにしています。地の住民が獣と竜を拝んでいます。理由はこの獣に並ぶ者がいないからです。この権力の特異性は獣が権威をもって自らの意思をほかの者に押し付けるところにあります。それは政治的な優位性によって人々に十戒の第1条を犯させます。この権力に逆らうことのできるものは誰もおらず、無敵です。

獣による冒涜

黙示録13:5は私たちの目を13:2の聖句に引き戻します。竜が海から現れた獣に自分の力と権威を授ける場面です。5~7節はこの獣がどのようにして、またどれだけの期間にわたって、その権威と力を行使するかを描いています。1260年が経過したのち(1798)、「致命的な傷」(3節)が加えられました。

ダニエル7章の並行記事も重要です。ダニエルもここで1260年について(25節)、小さな角が神に対して尊大な言葉を語ることについて(8、11、25節)、小さな角が聖者を迫害し(25節)、これに打ち勝つことについて(21節)記しています。ダニエル7章と黙示録13章は同じ宗教的・政治的権力について述べています。

問5

黙示録13:5~7にある獣の特徴、性質を調べてください。

神に敵対するこの権力の働きを表す言葉は冒です。まず全般的に「口を開いて神を冒し」と述べ(黙示13:6)、次に具体的な説明がなされます。

神の御名を冒する

神の御名を冒するとは、神に属する威厳、権力、権威を奪うことです。それは人間が神の働きと特権を横領するときに(マコ2:7参照)、あるいは自らの行動によって神の御名を汚すときに起こります(Ⅰテモ6:1)。獣は地上の住民の礼拝を受けています。これ以上の冒があるでしょうか。

神の幕屋を冒する

ダニエル8章は同じ権力が天の聖所におけるキリストの執り成しの働きを攻撃している光景を描いています。人間が神の恵みを取り次ぎ、罪を赦す権威を持つと言われています。

天に住む者たちを冒する

黙示録では神の民がすでに天に住む聖なる民と見なされています(黙示14:1)。そうであれば聖徒たちがみ名のために迫害されるとき、彼らに対して冒が加えられていると見なされるのではないでしょうか(7節)。

命の書と獣

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠ら(ほふ)れた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」(黙示13:8)。

聖句は獣の活動についていくつかの点を明らかにしています。

第1に「地上に住む者で……その名が記されていない者たちは皆」とあるように、獣は全世界的な何かを語ります。その活動は特定の地域に限られたものではありません。

第2に礼拝の問題が争点になります。世界は礼拝の問題をめぐって2つに分かれます。

第3に命の書に名を記されていない人たちは獣を礼拝します。命の書に名を記されている人たちは獣を礼拝しません。

問6

命の書と名前の記録についての聖句を読んでみましょう。出エ32:32、ダニ12:1、ルカ10:20、フィリ4:3、黙示3:5

「耳ある者は聞け」との言葉は注意深くあれとの指示です。10節の解釈は人によってさまざまですが、文脈からすると、獣の権力がいつかその犯した罪に対する相応の報いを受けると教えているように思われます。

励ましの言葉

「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」(黙示13:10)。

問7

残りの者はなぜ忍耐と信仰という特性を持つように勧められているのでしょうか。

「忍耐」と訳されているギリシア語は“ヒュポモネー”で、その基本的な意味は「~の下にとどまる」です。それは二つの思想を含んでいるように思われます。一つはどんな不利な状況にあっても自分の立場を貫き通すことで、外的な状況や圧迫に支配されないことです。決めた目標に向かって進み、その目標を達成するためには何事にも喜んで耐える生き方です。“ヒュポモネー”に含まれるもう一つの思想は期待することです。事実、私たちが何かの「下にとどまり」、忍耐するのは何かを期待するからです。このクリスチャンの美徳を持つ人々は解放のときを待ち望んでいます。どんな苦しみも、命の危険もいつまでも続くものではないことを彼らは知っています。ですから彼らは主の再臨と最終的な救いを待望することによって何事にも耐え忍ぶことができます。

ヨハネが教えているもう一つの美徳は「信仰」です。ギリシア語は“ピスティス”で、ふつうは「信仰」と訳されますが、「信仰、信頼、忠実」という意味もあります。ここでは「忠実」が最もふさわしいように思われます。ヨハネは読者にどんな状況下でも主に忠実に従うように勧めています。信仰とは私たちの生涯を全くキリストに捧げることです。その信仰が試練に遭ったときには、神と神の教えに忠誠を尽くします(ヘブ11:17)。残りの民は揺らぐことなく主に忠実でなければなりません。迫害のない今、どのように忍耐と信仰を強めることができるでしょうか。

「教会は異端と迫害に直面し、不信や背信と戦わなければならないが、それでも神の助けによってサタンの頭を砕いている。主は鋼の(はがね)ように真実な民、花崗岩の(かこうがん)ように固い信仰を持った民をお持ちになるであろう。彼らは世にある神の証人、神の備えの日にあって特別で栄光に満ちた働きをする器とならねばならない」(『教会へのあかし』第4巻594、595ページ)。

まとめ

竜は残りの者への最後の戦いに準備をします。彼はかつて世界歴史の1260年の間、政治と宗教の一致という権威を用いてきましたが、同じことが再び起こるでしょう。基本的な論点は真の礼拝の対象にあります。キリストに属し、命の書にその名が記されている者は安全です。キリストの犠牲は彼らを希望と真実の中で力をもって守ってくださいます。

致命的な傷

黙示録13:1~10によれば、獣に致命的な傷が加えられたのは1260年後のことです。この預言的期間は、アレクサンダ・ベルティエ元帥が教皇制を終わらせる目的で教皇を捕縛した1798年に終わりました。「ピウス6世は81歳の高齢で、しかも病気であったが、捕縛され、捕虜としてフランスに送られ、そこで死んだ(1799年8月29日)。この日、教皇庁は完全に崩壊したかに見えた」(『新カトリック百科事典』第6巻191ページ)。

「フランス人はピウス6世から世俗の権力を奪った上、自由をも奪った。捕虜としての彼の死は、その後数世紀にわたって教皇制の運命を暗たんたるものとし、使徒継承が『最後の教皇ピウス』の死と共に終わるという預言の論議を生じさせる結果となった」(『新カトリック百科事典』第10巻965ページ)。

ミニガイド

カトリック教会は変わったか?

【教皇制度】

カトリックの特異な一つは使徒継承の教えです。キリストはペトロを教会の代表者に任命し(マタ16:18)、宣教権限を与えたとしており、現ヨハネ・パウロ2世教皇はペトロから263代目の後任者という理解をしています。今日、教皇はバチカン市国元首という政治権をもって全世界に外交官を派遣しています。使徒継承を尊重する英国聖公会、ギリシア正教も他の使徒たちの優位に立つ“教会のかしら、ペトロ”としておらず、聖職者はすべて平等と考えています。カトリック教会は時代とともに変遷しています。

【第19回トレント公会議(1545~63)】

ルターらによる宗教改革後に開かれた会議で、多くの政治家、学者、宗教家らの批判、また内部からの告発を受けた聖職売買、司祭や教会に見られた低い道徳などの綱紀粛正を行いました。一方、カトリックの教えの正統性を確認し、プロテスタント教会を異端として破門しました。イエズス会が成立し、カトリックの失地回復、世界宣教へと攻勢に出たのはこの頃です。

【第20回バチカン公会議(1869~70)】

18~19世紀のヨーロッパは王や皇帝たちなどの俗権が伸張し、また市民社会の間に世俗主義、自由主義などが起こって教会離れの風潮が見られました。カトリック教会は危機感をもって公会議を開催、当時台頭してきた近代主義、社会主義、科学主義、労働運動、ヒューマニズムなどを抑圧するような保守反動的決定をしています。教会内にも異論があった教皇無謬(むびゅう)説(教皇が教皇の座から、教師として全世界の信徒に語り、しかも信仰と道徳に限って語る教え、言葉は無謬であるとする教義)や、マリアの無原罪懐胎、被昇天の教理もこのころ宣言しています。

【第21回バチカン公会議(1962~63)】

米ソの冷戦、核実験、ベトナム戦争の中でヨハネス23世教皇は平和と対話を強調し、「キリスト教会が世界に貢献すべきことは平和」と訴えて有名なバチカン会議が開かれました。これまでのような他を非難して自己の正統性を主張する姿勢を改め、「支配する教会から仕える教会」への戦術転換を決議しました。過去への反省をこめてユダヤ人への偏見と迫害を謝罪し、宗教裁判や処刑、自然科学を否定してきた歴史を認め、共産主義との協調、信教の自由尊重、そしてプロテスタントとの和解、他宗教との共存など、過去を思えば信じられないほどの歴史を逆転する大変革を遂げました。

近年確かに制度上の改変、組織、コミュニケーション、宣教姿勢などにおいては顕著な変化が見られますが、果たして教義の問題でプロテスタント主義への譲歩があるのかは極めて疑問です。特に教皇首位権については最後まで問題になるでしょう。

*本記事は、神学者アンヘル・M・ロドリゲス(英: Angel Manuel Rodriguez)著、安息日学校ガイド2002年2期『重要な黙示預言』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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