【コヘレトの言葉】「風を追うようなこと」【6章解説】#7

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「さほどに高い精神を持っていなくても、この世にまことの永続的なる満足はないこと、あらゆる快楽はむなしいこと、不幸は無限であること、最後に、絶えず人をおびやかす死は幾年もたたぬうちに我々を、永遠に亡びるかそれとも幸福になるかという恐るべき必然の中へまちがいなく投ずるにちがいないことを理解することはできる。

これほど真実なことはない。またこれほど恐ろしいことはない。我々は好きなだけ強がりを言おう。が、世のいかなる美しい人生をも待ちうけている最後がある。そのことをよく考えてみるがよい。そうしてそれからのちに、この世には来世の希望においてしか幸福はないこと、人はそれに近づくに応じてしか仕合せではないこと、また永生を全く確信した人々にはもう不幸はないであろうと同じように、永生の光を少しも持たぬ人々には幸福はないこと、そういうことが疑う余地のないことでないかどうかを語るがよい」(ブレーズ・パスカル『パンセ』、津田穣訳、一部改訳)。

パスカルは17世紀の時代に、ソロモンがコヘレトの言葉の中で記しているのと同じような心情を吐露しています。今回も、ソロモンの苦悩、つまりこの堕落した世界に生きることから来る欲求不満や不公平、不正について考えます。

地上で最も安全な場所

「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレ6:14)。

1930年代のことですが、世界で最も優れた頭脳の持ち主たちが、人類の将来を案じ、地上で最も安全と思われる場所を見つけ出そうと考えました。つまり、この地球上で戦争の脅威にさらされる可能性の最も低い場所を見つけようとしたのでした。これらの最も優れた頭脳の持ち主たちは、最も詳しい情報と資料、最高の分析法を用いて、1930年代における世界の理想的な場所、最も安全な場所を見つけました。それは太平洋に浮かぶ島、沖縄でした[皮肉なことに、沖縄は第2次世界大戦における激戦地の一つとなりました]。

予想が外れたのはなぜでしょうか。理由は簡単です。この世界は堕落した世界です。罪と死と苦しみで満ちています。現在の世界はあるべき姿の世界ではありません。「太陽の下」には、全的に信頼できるものは何ひとつありません。足もとの地中でさえそうです。地震で苦しんだことのある人ならよくわかります。

しかし、ある意味で、これはよいことかもしれません。なぜでしょうか。今ある世界は私たちの家郷ではないからです。それは滅びる運命にあります(IIペト3:10~13)。地上のすべてのものは過ぎ去ります(ルカ21:33、黙21:1)。私たちの最大の危険の一つは、このことを忘れ、つまり必要以上にこの世界にとらわれ、愛着を抱くあまり、それと共に滅びることです。

問1

詩編115:1~8、イザヤ書44:9~17、45:20~22を読んでください。昔に書かれたとはいえ、これらの聖句は現代の私たちに何を教えていますか。どんな危険について、警戒するように主は語っておられますか。

旧約聖書の教えの大部分は、御自分の民をこの世とその慣習、教え、神々、つまり彼らを救うことのできないものから引き離そうとされる主についての記録です。それらは彼らを救うことも、満足させることもできません。

金がさびるとき

1929年10月に始まった大恐慌によって、米国の株式市場は暴落しました。多くの投資家がお金と財産を失いました。金持ちであれ、貧乏人であれ、多くの人が一夜にしてすべてを失いました。3軒の家を持っていたある裕福な実業家の家族は、ほとんど2年間、橋の下で生活しました。彼らは残った衣類や雑貨を売ることによって生きのびました。2年前には長期間の休暇を取って、ヨーロッパへの船旅を楽しんでいた家族でした。

問2

コヘレト6:1、2を読んでください。ソロモンはここでどんなことを強調していますか。この原則はほかのどんなことにも当てはまりますか。

よく聞く話ですが、豊かな富を蓄えながら、それをすべて失ってしまった人々がいます。ソロモンは、お金では幸福や心の平安を買うことができないことを知っていました。さらに悪いことに、富は人のものになる場合があります。

これは富に限られたことではありません。多くの人は権力や信用、名誉を重視しますが、それらもはかないものです。私たちはこの世に愛着を抱きすぎないように留意すべきです。この世のほとんどのものは、いつかは永遠に失われるからです。

家族の問題

神は家族を祝福となるように創造されました。両親は互いに愛し合い、子供たちに心からの愛情を注ぎます。家族のうちに見られる愛情と親密さ、献身は、人間が経験することのできる最高の喜びの一つです。

しかし、罪により、家族は大きな苦しみと悲しみの源ともなっています。

問3

次の各聖句には、どんな家族の問題が描かれていますか。創4:1~8、創37:19~36、サム下11:1~4 、サム下13:1~14、マタ10:35~37、Iコリ5:1

上に描かれた家族の状況はどれも、哀れを誘うものです。対照的に、ソロモンはコヘレト6:3で、理想的と思われる状況について描いています。しかし、多くの子をもうけ、長寿を全うしたとしても、それによって心の奥底の必要が満たされるわけではありません。これらは確かに喜ばしいことですが、それでも真の必要を満たすことはできません。神は私たちを、たとえ愛情に満ちた大家族であれ、この世の何ものによっても満たすことのできない欲求を持った存在として創造されました。

「被造物は満たされることのない欲求をもって生まれてきたのではない。赤ん坊が空腹を感じるのは、食べ物というものがあるからである。子ガモが泳ぎたがるのは、水というものがあるからである。人間が性的欲求を感じるのは、性というものがあるからである。もし私自身のうちに、この世のいかなる経験によっても満たすことのできない欲求があるとするなら、その最も妥当な説明は、私がほかの世界のために造られたということである」(C・S・ルイス『純粋なキリスト教』121ページ)。

長寿

他世界から来た二人の人が話し合っていると想像してください。一方の人が他方の人にこう言います。「生きることの意味がわからなくなった。私もだいぶ年を取った。楽しい人生だったが、もう終わりに近づいた。これまで生きていた人たちがいて、これから生きる人たちがいる。私たちはいま生きていて、やがて死ぬ。何と速いことか。私は次の誕生日で5000歳になる。4000歳だったのが、まるで昨日のようだ。こんな人生にどんな意味があるのか」。

この空想的な話は、ソロモンがここコヘレト6:1~7で語っていることとどこか似ています。ソロモンはここで、人生の不公平と不正を嘆いています。彼は流産の子のたとえを用いて(コへ4:1~3比較)、無意味で苦しみに満ちた人生を送るよりもこの子のように死んだほうがよいと言っています。もしこの世界が目に見えるものだけであって、その彼方に何もないと考えるなら、次の疑問に論理をもって答えることは難しくなります。「意味のない人生を送ることにどんな意味があるのか」。

問4

コヘレト6:6を読んでください。ソロモンはここでどんなことを強調していますか。

人生はあっという間に過ぎ去ります。しかし、堕落した世界にあっては、それも祝福かもしれません。あなたは悩みと苦しみに満ちた罪深い世界に5000年も生きたいと思いますか。死は厭うべきものですが、あとに残された生者はともかく、死者にとってはある意味で解放です。

問5

次の各聖句は死の問題について何と教えていますか。それらは私たちにどんな希望を与えてくれますか。ヨハ5:28、29、6:54、10:28、IIテモ1:10、ヘブ2:14、黙21:4

さらなる嘆き

コヘレト6章の最後の6節で、ソロモンはなおも人間の運命を嘆いています。彼は別の方法を用いて(7節)、これまで述べてきたこと、つまりこの世の人生に究極的・永続的な満足はないと言っています。これは、私たちが知りすぎるくらいに知っている真理です。

問6

この世のものが私たちを満足させないのはなぜですか。創3:19、詩編104:29、イザ57:12、13、ヨハ8:34、ロマ7:5、エフェ2:12

英国の詩人アレクサンダー・ポープは、「快楽はつねに私たちの手と目のうちにあるが」、それを実際に味わおうとすると、心に思い描いているような快楽を与えるのをやめる、と言っています。快楽がこの上なく素晴らしいように思われるのは、それを味わうことを「期待している」からにすぎません。実際には、快楽は私たちが本当に求めているものを与えてはくれません。

コヘレト6:8~12は理解しにくい点もありますが、やはり人生のむなしさについて語っています。人間は自分の持ち物に満足することはない。賢くても愚かでも、問題ではない。人間は自分より強い者にはかなわない。言葉はしばしば無意味なものだ。地上での短い人生をいかに生きるべきかを知る者はいない。確かに、ソロモンが語っている背景(神から離れた人生)を考えると、これらのことにも一理あります。

問7

賢者は愚者にまさる益を得ようか、というソロモンの問いかけは何を意味しますか。箴言はこの疑問を解くうえでどんな手がかりを与えてくれますか。箴1:5~7、3:35、10:1、14、12:15、14:1、3、15:7、17:10~12、21:20

問8

一方、イエスは賢者と愚者の違いについて何と言っておられますか。マタ7:24~27、25:1~13

まとめ

「この世の偉大な研究や野心は、霊的な利益を顧みないで物質的、一時的な利益を得ることを目的としている。教会員の中にも、そのような人がいる。最後に神に対して申し開きをするように求められるとき、彼らは真の富を見分けなかったこと、天に富を積まなかったことを恥じ、驚かされる。彼らは、投資に対する見返りを受けるときがこの世において来ることを期待して、真理の敵に自分たちの賜物と捧げ物を贈ったのである(」『セレクテッド・メッセージズ』第2巻134ページ)。

「家庭はみな親が牧する教会です。親がまず考えなければならないことは、子供たちの救いのために働くということでなければなりません。家庭の祭司であり教師である父親と母親が、全くキリストの側にあるとき、よい感化が家庭内に及ぼされます。そしてこの清められた感化力は教会の中にも感じられ、信徒はみなそれに気づきます。神を敬う思いと清めとが、家庭の中で非常に欠けているために、神の働きがはなはだしく妨げられています。家庭生活や仕事の中でよい影響を及ぼしていないなら、教会の中でよい影響を及ぼそうとしてもそれは不可能です」(『家庭の教育』600ページ)。

旧約聖書の中で「偶像」と訳されている言葉の本来の意味は「無」です。何の価値も無いものを、最高の価値を持つものであるかのように錯覚して、追い求めた神の民の倒錯した姿を聖書は描いています。神は彼らに、「悔い改めよ」と言われます。興味深いことに、悔い改めを意味する言葉は、背信をも意味していて、その語根は、『転回する』という意味です。すなわち、神に向かって転回すると悔い改めとなり、神から離れる方向に転回すると背信となるのです。間違った行為を改めることに集中するよりも、まず(どんな状態の中にあるとしても)神に向き直る日々でありたいものです。ホワイト夫人は、アウグスチヌスの母モニカが、息子の救いのために神の約束のみ言葉の上に自分の指を置いて祈ったと述べています。神は祈りに応えて、あなたが愛している人を御自分に向き直らせてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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