この記事のテーマ
ここまで、コヘレトの言葉を読むかぎり、統一された思想の流れを認めることは困難なように思われます。これは、統一された思想がないという意味ではなく、統一された思想の流れを認めることが容易でないという意味です。つまり、体系的な流れの中で、一つの思想から別の思想へと発展していないということです。少なくとも、そのようには見えません。
しかし、そこには重要な考えや思想が述べられています。それらはみな、聖書全体と比較しながら学ぶときに価値あるものとなります。
今回の研究には、「思想、言葉、行い」という題をつけることもできそうです。これら三つを扱っているからです。順序は異なっていても、ソロモンは私たちの思想、言葉、行いについて述べています。事実、人間から思想と言葉と行いを取り去れば、ほとんど何も残りません。
ソロモンは力強い詩の形式を用いて、熟考すべき主題について述べています。コヘレト10章の思想を理解するように努力するなら、それは豊かな祝福をもたらす多くの心の糧、実際的な知恵で満ちていることに気づくでしょう。
死んだ蠅
コヘレト10:1は、本当は9:18の、特に後半と共に読む必要があります。全く同じことを述べているわけではありませんが、コヘレト9:18は10:1の原則を理解する助けになります。要するに、人がどれほど立派なことをしたとしても、一つの愚かな行為がそれを全く台無しにしてしまう場合があるということです。
前回の研究で、人はこの人生において、終わりには永遠の運命を決することになるような選択をせねばならない場合があることに少しふれました。しかし多くの場合、私たちの選択は直接的な結果をもたらします。人は弱く、無防備なときなど、苦渋に満ちた結果をもたらすような選択をしがちです。さらに悲劇的なのは、こうした誤った選択をする人たちがしばしば私たちと同じ弱さを持った、善良で、忠実で、愛すべき人たちであることです。名誉と地位のある人であればあるほど、その人は自分の下す決定に関して慎重であるべきです。
問1
以下にあげるのは誤った選択をした善良な人たちの例です。彼らがつまずいた原因とその結果について考えてください。創3:6、出32:1~4、サム下11:1~4
長年、主のために働いてきた人が、ふとしたことから道徳的過ちに陥り、彼の奉仕が突然、全部ではないにしても、大きく傷つく、ということがあります。良かれ悪しかれ、このような厳しい結果は現実に見られるもので、置かれた立場にかかわりなく、私たちすべての人に注意深く、慎重に歩むべきことを教えています。上記の聖句では、主は明らかに当事者たちを赦しておられます。とするなら、私たちもなおさら、聖なる信頼を裏切った人たちを赦すべきです。しかし、赦されたからといって、その結果まで自動的に帳消しになるわけではありません。たいていの場合そうです。数匹の死んだ蠅は壺に入った香油全部を簡単に腐らせてしまうのです。
愚者の心
コヘレト10:2は明らかに詩的な表現で、賢者の心と愚者の心の違いについて述べています。左手と右手の比喩は聖書のさまざまな個所に見られ、右側は名誉や力、恵みの側と考えられています。イエス御自身、御自分が再臨において「全能の神の右に座り」と言っておられます(マタ26:64──マタ25:31~34、使徒7:55参照)。事実、英語の“シニスター”(邪悪な)は左手を意味するラテン語の“シニストラ”から来ています。今日でも、ある国々では、左手でものを書く傾向のある子供は右手で書くように矯正されます。
問2
これらのことから考えると、コヘレト10:2のソロモンの言葉は何を意味しますか。
心はすべての思い、感情、計画の中心と考えられていたので(創6:5、出25:2、サム上16:7)、ソロモンのこの言葉は、賢者が思い、感情、動機を守り、愚者が守らないことを意味しています。この聖句は心のうちにあるものを制御することの重要性について教えています。内にあるものは遅かれ早かれ外に現れるからです。
問3
コヘレト10:3は上記の思想をどのように明示していますか。
3節は2節と完全に一致します。左側にある愚者の「知恵」は、最後には彼を愚者として暴露します。言い換えるなら、堕落したあなたの心は遅かれ早かれ周囲に明らかになるということです。なぜなら、遅かれ早かれ、あなたは自分の心の傾向に従うからです。この意味で、私たちの心を制御することは非常に重要です。心を制御するなら、体も従います。
さらなる悪
ソロモンはコヘレト10:4~7で、さらなる意見や言説を述べています。これらの聖句は、わかりにくい点もありますが、先にもふれた問題、つまり地上の人生に見られる不正や不公平について語っているように思われます。
問4
ソロモンがここで語っている不正や不公平の中にはどのようなものがありますか。ほかにどんなことが考えられますか。
「ソロモンの時代には、特権階級だけが馬やラバに乗った(サム下18:9、列王上1:38、歴代下25:28、エス6:8、エレ17:25)。それよりも下位の人々はロバに乗った。イスラエルの歴史の初期においては、王や王子でさえロバやラバに乗った(士師5:10、10:4、列王上1:33)」(『SDA聖書注解』第3巻1098ページ)。
私たちにとっては、金持ちが「身を低くして」座したとしても、あまり問題ではないかもしれません。問題は、物事がいつでも期待した通りにならないということです。つまり、愚者が大いに高められ、金持ちが卑しめられるということ、あるいは忠実な人々が苦しみ、悪人が栄えるといったことです。コヘレトの言葉の中でこのような主題が繰り返されているのは、問題が広い範囲に見られたからでしょう。どんな理由であれ、神に対する私たちの信仰や信頼がこのような問題によって妨げられてはなりません。これは、堕落した世界に生きるうえでぜひとも必要なことです。
蛇使い
問5
コヘレト10:8~11は人生のさまざまな側面を扱った短い格言になっています。それらはどんなことを教えていますか。
これらの聖句は難解で、注解者もいろいろな見方をしています。『SDA聖書注解』によれば、次のように解釈することができます。
8節は復讐心を抱いて、だれかに悪巧みをすることの結果について語っているように思われます。結局は、人のために掘った穴に自分が落ち込むことになります
(詩編7:16〔口語訳7:15〕、57:7〔口語訳57:6〕、箴26:27、エス9:23、25参照)。同じことが後半の「石垣」についても言えます。だれかの石垣を崩すなら、そこに潜んでいた蛇にかまれます。
9節の正確な意味は意見の分かれるところですが、ソロモンは単に、たとえ正しいことをしても、悪い結果が生じることがある、と言っているようです。これは彼の悲観論とも一致します。
10節はかなりはっきりしています。切れ味の悪い刃物を使うなら、s仕事ははかどりません。先に研いでおいたほうがずっと有益です。同じように、知恵、あるいは行動する前によく考えることはためになります。「クリスチャンは霊的技巧という最良の道具を用いて品性を築くべきである。努力だけでは不十分である。熱意と共に知識がなければならない(ロマ10:2参照)」(『SDA聖書注解』第3巻1098ページ)。
11節は基本的に、もし蛇が呪文をかける前に蛇使いをかめば、蛇に呪文をかける意味がないということです。後半にあるように、それは呪術師の愚かさを教えています。蛇(かまれると死ぬような毒蛇)にかまれた後で呪文を唱えることは、呪術師と同じく、無意味で無益なことです。
愚者の唇
コヘレト10:12以下はさまざまなテーマについて述べていますが、今日は特に12~14節、20節に注目します。それらは言葉の使い方について教えています。私たちは自分の話す言葉に十分注意する必要があります。
問6
12節には賢者の唇と愚者の唇がどのように比較されていますか。それはどんなことを教えていますか。詩編45:3(口語訳45:2)、箴22:11、ルカ4:22参照
12節の前半にある「恵み」という言葉に注目してください。それは創世記6:8にある「好意」と同じ言葉です(「ノアは主の好意を得た」)。恵みは功績によらない好意です。受けるべき刑罰を受けないということです。これが救いの本質です。私たちはイエスによって当然受けるべき刑罰を免れています。対照的に、愚者の言葉は彼自身を「呑み込み」ます。さまざまな場面で用いられているこの表現は、罪人が罰せられることを意味しています(出15:12、民16:32、エレ51:34、哀2:5)。
問7
コヘレト10:13を読んでください。この聖句は先の聖句をどのように説明していますか。
私たちはよくだれかを「口先だけで実行の伴わない人」として退けます。しかしながら、多くの場合、言葉は行動につながります。言葉はその人の心の中を映し出すからです。口先だけで何も実行しない愚者もいますが、それは例外的です[たいていの愚者は愚かなことを実行します]。自分の言葉に気をつけるように聖書に教えられているのも不思議ではありません。
問8
コヘレト10:20を読んでください。そこにどんな知恵がありますか。
賢い人は慎重に自分の言葉を選びますが、愚かな人は不必要な苦しみや悲しみを生じさせるような言葉を語ります。
まとめ
「口に出すときに思想や感情が助長され、強められるのは自然の法則である。言葉は思想を表現するが、同時に思想は言葉によって動かされることも事実である。したがって、もっとわたしたちが信仰を言いあらわし、自分に自覚している祝福、すなわち神の大きなあわれみと愛をもっと楽しむならば信仰は増大し、より大きな喜びを感ずるはずである。神の恵みと愛を感謝することから生ずる祝福は、それを表現する言葉がなければ、どんな人間もそれを理解することはできない。わたしたちは、この地上においてさえ、神のみ座から流れ出る水の流れによって養われているのだから、決して尽きない水の泉のような喜びを味わうことができる」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』241ページ)。
「私たちがきょう語る言葉は、時間が続くかぎり響き続ける。きょう行った行いは天の書に移される。作品が画家によって磨かれた板の上に移されるのと同じである。それらは私たちの運命を永遠に、つまり至福か、永遠の滅びと苦痛に満ちた後悔かの、どちらかに決定する」(『牧師へのあかし』429、430ページ)。
コヘレトの言葉の第10章には、2節に1回以上の高頻度で、「言葉」に関する表現が出てきます。「言いふらす」「賢者の口の言葉」「愚者の唇』『たわごと』『うわごと』など。そして、最後の節では、言葉には『羽がある』ことが記されています。言葉は、それを語った本人にとどまらず、聞く人々の心にも善悪いずれかの種となって影響を及ぼします。試みの荒野で、また、ゲッセマネや十字架の切羽詰まった状況においてさえ、御自分を制御された主のお助けにより、肯定的な言葉、感謝と讃美の言葉だけを語るように努めたいものです。また、次の引用文も心に留めましょう。
「魂の敵は、人の心の思いを読むことを許されていませんが、鋭い観察によってその言葉をマークし、行動を調べ、自分を彼の力の範囲内に置く人々のそれぞれの状態に合わせて、巧みに誘惑します。もし罪の思いや感情をおさえるように努力し、言葉や行為にあらわさないようにするなら、サタンは敗北します」(『セレクテッド・メッセージ』1巻、159ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。