【コヘレトの言葉】風の道【11章解説】#12

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古代ギリシア人は運命を信じていました。つまり、人の運命はあらかじめ神々によって決定されていて、その通りになる、と信じていました。この思想はホメーロスの『イーリアス』の中によく表されています。トロイの偉大な戦士ヘクトールは(必ず死ぬから戦争に行かないでほしいと哀願する)妻に向かってこう言っています。「運命に逆らって私を死に渡す者などだれもいない。この運命だが、勇者であれ憶病者であれ、生きている者でそれから逃れた者はだれもいない」(『イーリアス』212ページ、ロバート・ファグルス訳)。

しかし、これは聖書の立場ではありません。私たちは冷酷な運命の対象ではありません。あらかじめ決められた運命の下にはありません。ただし、一つの例外があります。イエス・キリストにおける永遠の命です(エフェ1:1~11)。神の計画は私たちがみなイエスによる救いにあずかることでした。イエスの死が全世界のすべての人のためであったのはそのためでした。私たちがみな救われていないということは、私たちの運命が事前に決定されていないということです。私たちの将来は開かれています。私たちの行う選択によって運命は決まるのです。

今回は、私たちにゆだねられた選択に関するソロモンの知恵について学びます。私たちは自由な存在者ですが、ときどき自分の力を超えた出来事に翻弄されます。それは私たちの手に負えないものかもしれませんが、ふさわしい応答は可能です。

パンを水に流す

コヘレト11:1については長年、いろいろな推測がなされてきました。「あなたのパンを水の上に浮かべて流すがよい」とは、何を意味するのでしょうか。さまざまな解釈がなされています。伝統的な解釈は、この聖句が慈善の問題を扱っているというものです。「寛大な人は祝福を受ける自分のパンをさいて弱い人に与えるから」(箴22:9)。「更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与えさまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないこと」(イザ58:7)。旧約聖書が貧しい人々や困っている人々を助けることを重要視していることを考えれば、この解釈は道理にかなっています。実際的な知恵を扱っている書(コヘレトの言葉)が、このような重要な教えについて何も語っていないとすれば、むしろ不思議なくらいです。

問1

申命記15:7~11を読んでください。これらの聖句はどんなことを教えていますか。そのメッセージをコヘレト11:1のそれと比較してください。

コヘレト11:2に関しても、多くの推測がなされています。ここにある二つの数字は何を意味するのでしょうか。直前の聖句の文脈を考慮して、それが慈善について語っていると考えるなら、惜しみなく施すことが強調されているように思われます。必要や欠乏は至るところに見られます。程度にかかわりなく、私たちはみな自分の分を果たすべきです。どんな困難や苦しみが襲ってくるか、だれにもわからないからです。したがって、機会のあるうちに、助ける用意をしておくべきです。

これらの聖句の正確な意味が何であれ、その原則がキリスト教の原則であることは確かです。つまり、地上の悪のゆえに苦しんでいる人々を助けるために自分自身をささげるということです。聖書は私たちに必要の中にある人々を助けるように勧めています。

雲、雨、運命

コヘレト11:3、4について言えば、解釈者の数とほぼ同じくらい解釈があります。これらを文字通りにとれば、ソロモンは自然の力について語っていることになります。つまり、雲が雨で満ちると地上に降り注ぎ、木が倒れると倒れたところに横たわります。これは何を意味するのでしょうか。

問2 

4節は3節の意味を理解する上でどんな助けになりますか。

3節は雨について述べています。暴風雨は風をともない、その風は木を倒すことがあります。これらはみな人間の力を超えたものです。今日でもそうですが、当時の人々はそれ以上に自然の力に支配されていました。とするなら、ソロモンが言っているのは、自然のように人間の力を超えた出来事や物事にどう対処するか、ということです。私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。ただ傍観して、自然の力に身を任せるべきでしょうか。それとも、そのような状況にあっても、神と神の愛に信頼して、自分の仕事や義務を忠実に果たすべきでしょうか。

問3

人間はみな自分の支配を完全に超えたどんなことに直面しますか。

人間を超えた力は多々ありますが、御自分の力をもって万物を支えておられる神を超えるものはこの世にありません(ヘブ1:3)。あなたが上にあげた事柄の中で神の力を超えたものは何もありません。このようなわけで、私たちを圧倒する出来事の中にあって、私たちを愛し、御心にかけてくださる創造主なる神がそれらすべてを超越したお方であることを覚えるのはきわめて重要です。私たちは無意味な偶然や冷酷な運命のなすがままに放置されているのではありません。嵐が襲い、風が吹きつけ、人間にはなすすべがないかのように思われます。しかしながら、何事が起ころうとも、私たちは神に忠実に従うことができます。

風の道

「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」(コへ11:5)。

先のコヘレト11:3、4の解釈に照らして考えるとき、5節の意味がはっきりします。私たち人間には理解できないことがたくさんあります。風の道から胎内における人体の形成といった自然界の基本的な事象に至るまで、すべてのものは畏敬と神秘で満ちています(「風」の原語は「霊」のそれと同じで、「霊」はこの聖句に新しい意味を与えています)。今日では、胎児の成長についてかなり明らかになっていますが、それでもわからないことがたくさんあります。

とするなら、次のことを覚えるべきです。もし自然界における神の御業が私たちの理解をはるかに超えたものであるなら、神の救いと贖いの御業はなおさらではないでしょうか。私たちは自然界に神の深遠な創造力と非凡な才能を見ることができます。最も単純な事象ですら、科学では説明できない神秘で満ちています。とするなら、神の救いにも人間の理解をはるかに超えた側面があるとしても不思議ではありません(ロマ11:33~36参照)。

問4

イザヤ書55:6~13を読んでください。そこには何と教えられていますか。それは私たちにどんな希望を与えてくれますか。コヘレト11:5の内容とどんな関係にありますか。

神の道は人間の道とは異なり、神の思いは人間の思いとは異なります。神の計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるもの」です(エレ29:11)。すなわち、それは新天新地における永遠の命であり、苦しみやサタン、喪失や死のない生活です。これこそ、イエスが十字架上で亡くなられたときに私たちのために意図された目的です。

光と闇

聖書の中では、光と闇が対照的に扱われています。光は善を、闇は悪を表します。

問5

次の聖句を読むと、光と闇の対照についてどんなことがわかりますか。イザ5:20、ルカ11:34、使徒26:18、ロマ13:12、エフェ5:8、Iテサ5:5、Iペト2:9、Iヨハ1:5

闇とは、本質的に、何かがない、つまり光がないことです。真っ暗な部屋の中に立って、「何が見えるか」と聞かれれば、「何も見えない」、あるいは「全くの闇しか見えない」と答えるでしょう。どちらも同じことです。

問6

上記のことを念頭において、コヘレト11:7、8を読んでください。ソロモンはここでどんなことを述べていますか。

神は光と真理、慈愛、喜び、希望を与えられるお方です。闇とはこれらのものがないことであり、うそや悪、苦しみ、失望は闇の中から生じます。ソロモンによれば、神がどれほどあなたを祝福されようとも、いつでも闇の日、苦しみと失望の日があります。だれもそれを逃れることはできません。ソロモンが言っているのは、自己満足に陥ってはならない、ということです。今日はよくても、明日はどうなるかわからないのです。思い悩め、ということではなく、神からの祝福を当然のことと考えてはならない、ということです。私たちはあらゆる祝福に対して神を賛美し、神に感謝すべきです。どんな悪が襲ってくるか、だれにもわからないからです。

青年時代

問7

コヘレト11:9、10を読んでください。ソロモンはここで何を言っていますか。どんなことが対比されていますか。

神は片方の手で与えたものを、もう一方の手で取り上げられるのでしょうか。この聖句は、「楽しく過ごしなさい。だが、神が最後にあなたを裁かれることを覚えなさい」という意味でしょうか。昔のあるラビはこの聖句を解説して、そのように教えることは、「いずれはすべてのことについて裁かれるのだから、今のうちに罪を犯しておきなさい」と子供に教えるようなものだ、と言っています。

ラビも知っていたように、もちろん、この聖句はそのようなことを教えているのではありません。むしろ、こう教えているように思われます。命は神から与えられる賜物であって、よいものです。私たちは自分の人生、肉体、神の造られたものを楽しむように創造されています。精神力と体力と希望に満ちあふれている青年時代にこそ、私たちは楽しむべきです。

しかし、「楽しみ」という言葉は相対的な言葉です。私たちは「はかない罪の楽しみにふける」(ヘブ11:25)こともできれば、主にあって楽しむ、つまり神から与えられた賜物を神の御心にしたがって楽しむこともできます。精力と情熱にあふれた若者たちは、身を滅ぼすような方法でこれらの賜物を用いる傾向があります(箴7章)。彼らがいつの日か神の前で申し開きをしなければならないのは言うまでもありません。

問8

コヘレト11:10は9節の内容をどのように説明していますか。

聖書全体に照らして考えると、ソロモンが言っていることはこうです。神が与えてくださった賜物を楽しみなさい。しかし、それらを罪や悪としてでなく祝福として楽しみなさい。それらを正しい視点に立ってながめるように心がけなさい。いつの日か、あなたの少年時代と青年時代、そして人生そのものは終わります。そのとき、あなたはすべての業について申し開きをしなければならないからです。

まとめ

「人間は、自分が定めた標準以上には出ることができないことを記憶しなければならない。そこで、どんなに苦しく、克己と犠牲が要求されるときにも、標準を高くし、進歩の階段をのぼらなければならない。なににも妨げられてはならない。どんな人であっても、運命の網に捕えられて、どうにも身動きができないほどに、固く縛られている人はいない。難局に当面した場合には、それに打ち勝つ決心がなければならない。一つの障害を打ち破ると、前に進むいっそうの能力と勇気がわいてくるものである。正しい方面に向かって断固として進むとき、環境は妨げとはならず、かえって、わたしたちの助けとなるのである」(『キリストの実物教訓』306ページ)。

「しっかりした品性を持っていない人たちがいる。彼らはしっくいの団子に似て、押せばどのような形にでもなる。彼らはこれといった形や一貫性を持たず、したがって世の中の役に立たない。このような弱さ、優柔不断、無能は克服されねばならない。真のクリスチャンの品性は不屈であって、逆境によって変形し、支配されることはない。人は道徳的気骨、つまりお世辞や賄賂、脅しに屈しない高潔さを持たねばならない」(『教会へのあかし』第5巻297ページ)。

コヘレトの言葉11章が与える強力なメッセージの一つは、神のみわざは、人には推し量ることができないものだということです。日本基督教団発行の讃美歌536番に次のような歌詞があります。「むくいをのぞまでひとにあたえよ、こは主のかしこきみむねならずや。水の上に落ちてながれしたねも、いずこのきしにか生いたつものを」(1節)。主にある信仰のうちに、誠意をもって種をまくならば、何事も決してむだになることはなく、「わたしたちの思いをはるかに超えて」(エフェソ3:20)主は事をなしてくださいます。それが偽ることのない主のお約束です。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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