イエスとヨハネの手紙【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#1

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この記事のテーマ

偽教師たちが聖なる者たちのうちに誤りを広めている。キリストの性質について誤った考えが横行している。教会の中に権力闘争が行われている。神学的な誤りが教会員のうちに広まっている。人々は救いの確信を必要としている。他の人々は、信仰が律法への従順に導くべきことを理解する必要がある。──今日の私たちの教会と似ていないでしょうか。

しかしながら、これらの問題はヨハネがほぼ2000年前に新約聖書中の3通の短い手紙において扱った問題でした。

ソロモンの次の言葉はまさに真理です。「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コへ1:9)。

しかし、ヨハネは問題点だけを取り上げているのではありません。彼は読者の心を父なる神と御子に向け、これらの方がどのような方であって、私たちのために何をされたか、そして私たちはその応答として何をすべきかについて教えています。

だれからだれへ─著者と受取人

ヨハネの手紙Iは形式的な序言なしに始まっています。いかなる理由であれ、著者は自己紹介をしていません。手紙ⅠとIIは著者に言及して、ただ「長老」とだけ呼んでいます。手紙の受取人は、ある選ばれた婦人と、ガイオと呼ばれる人物です。この情報は完全ではなく、いくつかの疑問が残ります。しかし、手紙そのものから、著者について知ることができます。

問1

類似した文体と語彙が用いられていることから、ヨハネの手紙I、II、IIIの著者は同じであることが推測されます。これら3通の手紙は著者についてどんなことを明らかにしていますか。とりわけ、著者は手紙の受取人に対してどんな言葉を用いていますか。Iヨハ1:1~3、2:1、18、4:4、IIヨハ1、12、IIIヨハ1、13、14

著者は明らかにイエスを見たことのある人物でした。彼はまた手紙を書き送っている相手の教会員と親しい関係にあったようです。というのは、「子たちよ」という親愛の表現を用いて彼らを呼んでいるからです。彼は教会で指導的な立場にあった人物で、一度ならず、できることなら手紙の相手を訪ねたいと言っています。言葉遣いと主題がヨハネの福音書によく似ていることや、教会教父たちのあかしから、著者が使徒ヨハネであることは明らかです。

これらのことから、一つの重要な点が明らかになります。それは、周囲の人々と親切心、関心、愛に満ちた関係を養うことがいかに重要であるかということです。これらの手紙から明らかなように、ヨハネは人々を愛し、思いやり、彼らが主によって強められるように望みました。彼が人々のために表した愛は彼の言葉の力を大いに強める結果になったことは明らかです。これはイエスと、イエスが教会に与えておられる真理をあかしする人々にとって重要な教訓です。

何を—手紙の内容

ヨハネの手紙Iにはいくつか重要な主題が出てきますが、使徒はそれらを直線的な順序では論じていないように思われます。一部の学者はこのような観測にもとづいて、ヨハネが循環的な方法で議論を進めていると考えます。つまり、彼は何度も同じ主題に返ってきますが、[論じている]角度は異なります。同じ主題について論じていても、その視点は多様です。

問2

ヨハネの手紙IIの1~13を読み、思想の流れを把握してください。

ヨハネの手紙IIで、使徒は婦人の子らが真理にあって歩んでいることに感謝を表明しています。彼はまた愛と服従について語り、その後、すでに先の手紙で触れた偽教師について述べています。彼はここでも「反キリスト」という言葉を用いています。結びの言葉の中で、ヨハネは読者を訪問する希望を述べています。彼はまた挨拶を送っています。

偽教師に触れていないヨハネの手紙IIIは、偽教師に触れている先の2通の手紙とどんな関係にあるのでしょうか。考えられることは、3通の手紙がどれも同じ状況を扱っているのですが、それぞれ異なった視点から述べているということです。ヨハネの手紙IとIIは偽教師について警告していますが、ヨハネの手紙IIIの場合は、教会指導者がある特定の状況において問題を解決しつつあったことを示しているのかもしれません。

なぜ─手紙の書かれた目的

問3

ヨハネは繰り返し、自分が第Iの手紙を書いた理由を説明しています。彼は何と言っていますか。

これらの言葉はどれも肯定的で、しかも断定的です。しかしながら、文脈からも明らかなように、これらの言葉はヨハネの手紙Iの宛てられた教会の深刻な問題に照らして理解する必要があります。この手紙は特に偽教師のことを取り上げています。彼らは「反キリスト」と呼ばれています。この言葉はヨハネの手紙Iに4回、ヨハネの手紙IIに1回用いられています。聖書のほかの個所には1回も用いられていません。

これらの反キリストたちはイエス・キリストに関して誤った考えを抱いていて、それが彼らの信仰生活にも影響を与えていました。ヨハネはこれらの教えに対処する必要性を感じ、力強い、妥協のない方法でそれを実行しました。

それでもなお、著者は真のキリスト教の肯定的な側面、積極的な性質を描写しています。偽教師たちの神学的、倫理的誤りに反論するにあたって、ヨハネは父なる神と御子の一致、神の赦しの受容、愛の原則によって支配される生き方を擁護しています。ヨハネは教会員を励まし、キリストとクリスチャンの行動に関する不適切な考えについて警告する一方で、教会を離れてしまった人たちを連れ戻そうと望んでいたかもしれません。

ヨハネの手紙IIとIIIは、彼がこれらの手紙を書いた理由に言及していませんが、以上の理由からであることは明らかです。ヨハネの手紙IIの目的は、ヨハネの手紙Iに触れられていた偽教師の誤った教えと倫理に関して教会員に警告することでした。

ヨハネの手紙IIIによれば、権力闘争が行われていました。ディオトレフェスがあらゆる権力を手に入れようとしていました。彼は異端の問題を利用して、自分自身の権力基盤を築こうとしていたようです。

ヨハネの手紙の中のイエス

問4

イエスはヨハネの手紙Iの中心にあって、手紙全体に登場します。この手紙によれば、イエスはどのようなお方ですか。

ヨハネの手紙Iでは、父なる神の方がイエスよりも頻繁に出てきますが、以前の、また、たぶん現在の教会員にとっての問題は御子に対するものでした。教会員も偽教師も父なる神の性質に関してはほぼ同じ考えだったでしょう。ところが、イエス、つまりイエスの人性と神性に関しては、意見が異なりました。争点は、イエスが「肉となって来られた」か否か(Iヨハ4:2)、イエスが「メシアである」か否か(Iヨハ2:22)ということでした。

こうした中にあって、ヨハネは父なる神と御子を切り離すことは不可能であると考えています。今日でも、クリスチャンの中にさえ、イエスを除外して、父なる神とだけ救いの関係を持つことができると考えている人たちがいます。彼らにとっては、イエスは単なる偉大な人間にすぎません。しかし、ヨハネの立場ははっきりしていました──たとえイエスについて知っていたとしても、もしイエスをメシアまた神の御子として受け入れなければ、私たちは父なる神と救いの関係を持つことはできません。

ヨハネの手紙Iは全部で105節あります。イエスはそのうちのほぼ45節に出てきます。このことから、この手紙におけるイエスの重要性がわかります。あなた自身の真理の理解において、イエスはどんな地位を占めていますか。イエスとイエスの赦し・恵みについて知るよりも、聖書の年代や図表、教理について知ろうとしてはいませんか。もしそうなら、どうする必要がありますか(ヨハ17:3参照)。

ヨハネの手紙におけるイエスの働き

ヨハネの手紙はイエスをさまざまな視点から描き、たとえばイエスが初めからおられたこと(Iヨハ1:1)、肉となって来られたこと(Iヨハ4:2)、正しく、清く、罪のないお方(Iヨハ2:1、3:3、5)であられたことなどを明らかにしています。それだけでなく、ヨハネの手紙はまたイエスの奉仕と働きを強調しています。

イエスがどのようなお方であるかということと、イエスが何をされたかということとは、密接な関連があります。イエスの神性や人性を否定することは、救い主、模範、主としてのイエスの働きを否定することです。イエスによる救いは、イエスが神であり、人であることに依存しています。イエスの神性と人性を正しく理解することなしには、救いの計画も罪の問題も正しく理解することはできません。罪は軽く見られるか、否認されるかのどちらかです(Iヨハ1:6~10)。このような態度はクリスチャンの行動と倫理に何らかの影響を与えます。

問5

ヨハネはイエスの奉仕と働きについて何と述べていますか。イエスの御業のゆえに、私たちはどんな約束を与えられていますか。

イエスが私たちの救い主として成し遂げてくださったこと、またイエスが私たちの弁護者として今しておられることとは、私たちの側に応答を要求します。罪の赦し、救いの確証、聖霊の賜物、再臨の希望、私たちがイエスに似た者となり、イエスをありのままに見るという約束は、私たちの心を燃え立たせずにはおきません。私たちはイエスを信じ、イエスを愛し、イエスに従い、イエスとイエスの教えのうちに生きるようになります。

まとめ

ヨハネの手紙Iを通して読み、この重要な手紙の全体像をつかんでください。

「歳月が流れて、信者の数が増えるにしたがい、ヨハネはますます誠実に、熱心に兄弟たちのために働いた。時代は教会にとって非常に危険なときであった。サタンの欺瞞は至るところにあった。……キリストに信仰を告白した者たちの中には、神の愛が神の律法に対する服従から彼らを解放したと主張する者もいた。一方、多くの者たちは、ユダヤの習慣や儀式を守る必要がある、また、救いには、キリストの血を信じることなく、ただ律法を遵守するだけで十分であると教えた。ある者たちは、キリストを立派な人だとしていたが、キリストの神性を否定した。神のみわざに忠実なふりをしていた者たちは欺瞞者であって、実際にはキリストとその福音を否定した。罪を犯す生活をしながら彼らは教会に異端を持ち込んだ。こうして多くの者たちが懐疑と欺瞞の迷路に連れ込まれた。

ヨハネはこうした悪意ある誤りが教会に忍びこんで来るのを見て、悲しみでいっぱいになった。彼は教会が危険にさらされていることを悟って、すぐさまこの急場に果断な処置をとった。ヨハネの手紙は愛の精神を漂わせている。それは、まるで彼が愛の中にペンをどっぶり浸して書いたように思える。しかしヨハネは、神の律法を犯しながら、なお罪のない生活をしていると主張する人々と接触するにあたって、その人たちの恐ろしい欺瞞を、ためらうことなく忠告した」(『患難から栄光へ』下巻256、257ページ、『希望への光』1567、1568ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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