命の言を体験する【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#2

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法廷で、ある男が殺人罪で訴えられています。彼は大きな声で、自分が無実であって、事件が起きたとき、現場にすらいなかったと主張します。彼は非常に確信に満ちているように見えます。その言葉だけからすれば、だれもが彼を信じていたことでしょう。

ところが、そのとき、何人もの証人が現れます。彼らは口々に、同じことを証言します。彼らは、被告人が事件現場にいるのを、また被告人が罪を犯すのを見て(聞いて)いました。現場にいた時間によって、各人の証言の詳細は異なりますが、その証言の内容は圧倒的で、被告人の有罪は明らかになります。

同じように、ヨハネはその手紙を紹介するにあたって、自分もイエスを見、個人的に経験し、生き方を変える情報を人々に伝えることのできる証人の一人である、と言っています。

『ヨハネの手紙I』の序言(Iヨハ1:1~4)

問1

ヨハネIの1:1~4を読んでください。ヨハネはこれらの言葉によって何を伝えていますか。それらは私たちにどんな希望を与えてくれますか。私たちがヨハネを信じるのはなぜですか。

ヨハネは初めに、自分がほかの者たちと共に、「命の言」の目撃証人であると言っています。2節はこの「命」を説明して、3節の前半部分と共に、その宣布を強調しています。

問2

「命の言」を伝えることによって、どんな二つのことが可能になると、ヨハネは言っていますか。

1節と3節で、ヨハネは7つのことに言及しています──(1)初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、(3)目で見たもの、(4)よく見たもの、(5)手で触れたもの、(6)わたしたちが見たこと、(7)聞いたこと。そして、次のように結んでいます。「あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(3節)。2節は挿入されて、意味を明らかにしていますが、その中で「永遠の命」が4回にわたって言及され、「この永遠の命を、わたしたちは……伝えるのです」という表現をもって結ばれています。

これらのことからわかるように、ヨハネは自分がイエスを通して経験した神の真実を、私たちも自分自身で知るように望んでいます。つまり、イエスを通して与えられる永遠の命と交わり、喜びを、私たちも自分自身で知るように望んでいるのです。

『ヨハネの手紙I』とヨハネの福音書1章

ヨハネの福音書を知る人たちは、ヨハネの手紙Iを読み、その序言がヨハネの福音書の序言と似ているのに気づくとき、興味をそそられます。

問3

ヨハネの手紙Iの1:1~5を読み、ヨハネ1:1~5と比較してください。両者にどんな類似点が見られますか。

どちらの書き出しもほとんど同じです。どちらも「初め」という言葉を用いて、過去のある時点に言及しています。これは明らかに創世記1:1の天地創造をさしています。どちらも父なる神と言とを区別し、両者を並列の、親密な関係の中においています。どちらも「命」と「光」という表象を用いています。両者の間に、多くの共通点があることは明らかです。同時に、相違点もあります。

問4

ヨハネ1:1~5には、ヨハネの手紙Iの1:1~5にはないどんな強調点が見られますか。

ヨハネの福音書は神としてのイエス、創造主としてのイエスを強調しています。ヨハネIの1:3にある「御子イエス・キリスト」という完全な称号はイエスの人性と神性の両方を示してはいますが、ヨハネの手紙Iの序言はヨハネの福音書の序言ほどには神という言葉を直接、イエスに適用していません。ヨハネの福音書はまた、創造主としてのイエスの役割を非常に明確にしています。成ったもので、つまり創造されたもので、イエスによらずに成ったものは何一つありませんでした。ヨハネは、キリストの神性について、またキリストの創造主であることについて、これ以上に明確にすることはできなかったでしょう。

また、ヨハネの手紙Iは目撃証人とその宣布(その権威)の役割を強調しています。これは、私情を離れた、より「個人的」でない視点から語っているヨハネの福音書には見られない強調点です。

両者を総合すると、これらの聖句は救いの計画の中心であるイエスについての真理を啓示しています。

命の言

問5

「命の言」という言葉は何を意味すると思いますか。それがイエスにふさわしい表現であるのはなぜですか。

ヨハネIの1:1は「命の言」に言及しています。「言」はまたヨハネ1:1~3にも見られ、特にイエスをさします。黙示録19章では、白馬の騎士が「神の言葉」(黙19:13)と呼ばれていて、これもイエスをさします。ヨハネの文書では、特定の文脈において、「言葉」はイエスを指しますので、ここヨハネIの1:1でも、それがイエスをさしていることは明らかです。

同じことが「命」についても言えます。イエスは御自身のことを、「道であり、真理であり、命である」と言っておられます(ヨハ14:6)。したがって、ヨハネIの1:2にある「命」がキリストをさすことは明らかです。キリストが「命の言」であるとしても、何ら不思議ではありません。

問6

ヨハネが「命の言」という表現によってイエスに言及していたことは、ほかにどんな証拠によって裏づけられますか。

「命の言」が福音の宣言を意味すると主張する人たちもいますが、それがイエス御自身をさすことは明らかです。イエスの福音を耳で聞くことは可能ですが、それを目で見ることは困難です。もし「命の言」が福音の宣言を意味するとすれば、人の手で「命の言」に触れることは不可能です。福音に聞き、見、触れることよりも、人に聞き、見、触れることの方がより合理的です。さらに、「御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命」(Iヨハ1:2)という表現もまた、ヨハネが言と命に言及したとき、人を念頭においていたことを暗示します。

目撃証人

多くの人はサッカーの試合や音楽会、政治集会などに行くのが好きです。彼らはそれらの出来事を自分の目で見、自分で体験したいと望みます。後で、彼らは自分で見たり、聞いたりしたことをほかの人に伝えることができます。一方、自分の意志によらないで、たとえば事故や犯罪を目撃する人がいます。彼らは証人として法廷に呼ばれることがあります。

使徒たちはキリストの生涯と死、復活についての目撃証人です。彼らはこの「キリスト事件」から大きな影響を受けたので、そのことをほかの人々に伝えずにはおられませんでした。

ヨハネの場合もそうでした。ヨハネの手紙Iの1:1~4で、ヨハネは自分がイエスについての目撃証人であると言っています。彼は自分の主張を強めて、自分がイエスを見ただけでなく、イエスに触れ、イエスに聞いたと言っています。ヨハネがこれらの主張を繰り返しているのは、イエスとの個人的な経験の真実性を強調するためでした。

問7

目撃した出来事について力強い主張をしているのはヨハネだけではありません。次の聖句はヨハネIの1:1~3とどんな点が似ていますか。だれが、どんな状況において語っていますか。申4:1~9、使徒4:20、Iコリ15:4~8

今日では、私たちはイエスの生涯における出来事や聖書の歴史上の諸事件について直接的な目撃証人になることはできません。しかし、これはキリストの真実性とキリストの御業について目撃証人になることができないという意味ではありません。ある意味で、特にポストモダン(今時)の世界にあって、私たちの個人的なあかしや個人的な「目撃」証言は、聖書に描かれた歴史的な出来事以上に、神の真実性と慈愛についての、より力強いあかしとなりえます。

聖なる者たちの交わり

神には孫はいない、いるのは子だけである、と言った人がいます。クリスチャンの経験は遺伝的な(親譲りの)経験ではありません。私たちは自分自身の心の中でイエスに従う決心をする必要があります。しかも、それはイエスに対する完全な献身でなければなりません。この意味において、クリスチャンであることはきわめて個人的で、孤独な経験です。

同時に、ヨハネはこれらの冒頭の聖句において、クリスチャンであることの別の側面について述べています。彼はイエスについての自分のあかしを受け入れるように、そして、それによって彼とほかのクリスチャンとの交わりを経験するように私たちに勧めています。言い換えるなら、イエスを受け入れると公に宣言することは共同体をつくることです。イエスを救い主また主、永遠の命の賦与者として受け入れることは、信者の家族に加えられることを意味します。

問8

ヨハネIの1:3によれば、この交わりはどれほど広範囲におよぶものですか。

イエス御自身、御自分の共同体、つまり教会を設立し(マタ16:18)、あたかも羊飼いが羊の群れを見守るように教会を見守られます(ヨハ10:14~16)。イエスとイエスの教会は一つです。イエスと福音を受け入れると公に宣言するとき、人々は父なる神と御子との交わりに、またほかの信者との交わりに入ります。これらの信者の間には、目に見えない天とのつながりと同時に、非常に現実的な、目に見えるつながりがあります。幸いなことに、クリスチャンは一人きりで、他者から孤立して生きる必要がありません。彼らは地上におけるキリストの共同体・家族の一員となったのです。

問9

この理想的なクリスチャンの交わりが新約聖書の中でどのように描かれていますか。使徒2:42~47、ロマ12:3~17参照

ヨハネの手紙Iの今回の聖句は4節をもって終わっています。ヨハネの目標は、人々が神と信者との交わりに入ることであり、その喜びが完全なものとなることでした。

あなたはクリスチャンの交わりを楽しんでいますか。何か問題点はありませんか。どうしたらクリスチャンの特権である交わりをもっと楽しむことができますか。

まとめ

「キリストを個人的に知っていたヨハネは自分の知識を読者と分かち合いたいと望んだ。ヨハネがすでに父なる神および御子に対して持っていたのと同じ交わりに、読者もあずかるためであった。この愛に満ちた願望を表現する過程で、彼は御子の神性と永遠性、受肉──その結果としての人性──を明らかにしている。彼はこの驚くべき知識を、単純ではあるが力強い言葉をもって伝えている。当時の、そして今日の読者が、キリスト教信仰の基礎とイエス・キリストの性質・御業に関して疑いを抱かないようになるためであった」(『SDA聖書注解』第7巻629ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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