この記事のテーマ
ヨハネの手紙IIは多くの点でヨハネの手紙Iに似ています。手紙Iより短いにせよ、同じ語彙が用いられ、同じ主題が現れ、信者に対する同じ関心で満ちています。どちらも個人的な関心が示されています。
しかしながら、手紙Iとは対照的に、手紙IIはその序文と結語において明らかに手紙の形式に従っています。主文は賛美、掟に従って愛し、歩むようにという勧告、それに反キリストを扱った部分からなっています。ヨハネの手紙IIIと同様、ヨハネの手紙IIが短いのは、パピルス紙の大きさによる制約があったからかもしれません。もしそうだとすれば、使徒は聖霊の導きに従って注意深く言葉を選択したものと思われます。
愛と真理のうちに
問1
ヨハネの手紙IIを読んでください。どんな点がヨハネの手紙Iと似ていますか。基本的なメッセージは何ですか。
ヨハネの手紙IIをざっと読んだだけでも、この手紙が信者の集団に宛てられたものであることがわかります。一人の婦人に宛てられたのではありません。ただ、そのように考えるのも一理あります。というのは、新約聖書のほかのところで、教会が一人の女として描かれているからです(エフェ5:22~32、黙12:1~6)。したがって、これらの信者は成熟したクリスチャンであって、文字通りの子どもではありません。
問2
ヨハネIIの1~4を読んでください。どんな言葉が繰り返し出てきますか。ヨハネはそれをどのように用いていますか。IIテサ2:10参照
ヨハネが1節と3節で「真理」という言葉を愛と一緒に用いていることに注目してください。クリスチャンの内にある真の愛の性質を理解するためには、「真理」という修飾語が必要でした。愛は純粋に感情的なもの、あるいは官能的、皮相的なものとして解釈される場合があります。クリスチャンの愛は「真実の」愛、真理にもとづいて表される愛です。
真理について語るとき、私たちは神について、また真理であるイエスについて(ヨハ14:6)、そして聖霊について思い起こします。聖霊が永遠に信者と共におられるように(ヨハ14:16)、真理も永遠に信者と共にあります(IIヨハ2)。真理と愛は最終的には神に属するものですが、クリスチャンの信仰と経験において共にあります。
同時に、真理と愛はヨハネの手紙IIの中心テーマになっているように思われます。さらに、愛は5節と6節においても語られています。真理は偽りとその結果を識別するうえで(7、8節)、またキリストの教えにとどまるうえで必要です(9、10節)。
私たちは無条件に「愛」をよいものと考えがちです。しかし、愛も破壊的なものとなる場合があります。真理にもとづかない愛がどれほど恐ろしいものとなりうるかを、あなたは経験したことがありますか。このことから、真理にもとづいた愛の重要性についてどんなことがわかりますか。
掟に従って歩む(IIヨハ4~6)
ヨハネの手紙IIの4節にヨハネは教会に対する励ましを語っています。これは彼自身にとっても励ましでした。教会員が「真理に歩んでいる」と知って大いに喜んでいるという長老[ヨハネ]の言葉を聞いて、教会員は鼓舞され、励まされました。それは、彼らが「御父から受けた掟どおりに、真理に」歩み続けるための動機づけとなりました。真理に歩むようにという命令はヨハネIの3:23にも見られます。ヨハネはそこで、イエスを信じ、互いに愛し合うように私たちに勧めています。
問3
愛と掟は互いにどのような関係にありますか(IIヨハ5、6参照)。それが私たちアドベンチストにとって特に重要なのはなぜですか。黙14:12参照
喜びの後に(4節)、要求と勧告が与えられています(5、6節)。ヨハネは再び掟について語っています(5節)。それは、互いに愛し合うようにという掟(単数形)です。このように、ヨハネは「掟」の思想から「愛」の思想へと移行していますが、この掟の中身は愛にほかなりません。
6節で、彼は方向転換しています。つまり、愛から始まり、掟(複数形)へと移行しています。愛は神の掟を守ることによって表されます。私たちはこの掟を持っています。この掟とは互いに愛し合うことです。私たちは掟を守ることによってこの愛を現します。
問4
掟(出20:1~17)を守ることはどのようにして相互の愛を現しますか。
律法や規則、命令事項を守ることが愛と密接な関係にあるということは興味深いことです。しかし、これは完全に理にかなうことです。愛は単なる感情ではなく、行為であり、態度です。人間関係です。真の愛は十戒を守ること以上のもので、十戒に含まれる原則と切り離すことができません。
問5
ヨハネの手紙IIの7~9を読んでください。ヨハネはここで何について警告していますか。彼が警告している偽りを信じることはどんな結果をもたらしますか。
ここ7~9節にも、人を惑わす者のこと、またイエスについての誤った理解のことが書かれています。ヨハネの手紙Iに出てきた状況とよく似ています。多くの人が教会を離れ、自ら「惑わす者」となりました。なおも真理に歩んでいる人がいるのは確かですが(4節)、牧者は神と教会を離れてしまった人たちのことを嘆いています。
反キリストたちのイエスについての見解は使徒たちのそれとは異なっています。教会員は彼らと彼らの偽りの教えに感化されないように警戒する必要があります。ヨハネはまた、信者も道を逸れる危険があること、「いちど救われたなら、つねに救われている」というようなことはないと明言しています。
問6
ヨハネIIの9を読んでください。ヨハネは正しい「教理」の重要性について何と言っていますか。マタ16:12、使徒2:42、ロマ6:17、黙2:14、15参照
ヨハネは、教理など必要でないとは言いません。彼にとって、偽りの教えは人を永遠の命から離れさせるものです。したがって、教理は重要です!
今回の聖句で問題になっているのは明らかにイエスについての使徒たちの教えです。この聖書の教えを受け入れて、その中に忠実にとどまる人たちは御父と御子に結ばれています。父なる神とイエスは同等の立場に置かれています。イエスについての教えを拒むことは父なる神との関係を失うことにつながります。
もてなすことをやめる?(IIヨハ10、11)
問7
聖書は人をもてなすことに大きな価値を置いています(ヘブ13:2、Iペト4:9)。イエスは徴税人やファリサイ派の人々、それにまともな神学や生活様式を持たない人々とお交わりになりました。このことは、ヨハネがヨハネIIの10、11で言っていることとどのように調和するのでしょうか。マタ10:14、15、18:15~17参照
もてなしはクリスチャンの美徳ですが、限界もあります。もしもてなしが直接的、間接的に偽りの教理を支持することになるなら、やめるべきです。紀元1世紀には、教師は各地を旅行して、いろいろな場所で説教し、教会員の家に滞在して、食事や宿泊の接待を受けました。
もしそのような教師が偽りの教えを宣伝するなら、もてなしは彼の立場を擁護し、その働きを助けるものと解釈されるでしょう。さらに、使徒の教えと偽りの教えの間で迷っている教会員は、有力な教会員が惑わす者を自宅に泊めるのを見て、当惑し、誤った判断を下すかもしれません。
ヨハネは、このような者たちを憎むように、彼らとのどんな接触も避けるようにと言っているわけではありません。しかし、私たちの行動が真理に反する思想を支持するかのように誤解される場合があることだけは知っておかねばなりません。そのようなときには、特に注意が必要です。
ヨハネが10節と11節で述べているのは一人の信者の態度ではなく、教会全体の態度であり、10節の「家」は個人の住宅ではなく、教会が礼拝に用いている場所のことだと思われます。教会は異端を教える教師を支持すべきではありません。
要するに、偽教師を歓迎することは彼(彼女)の教えを支持することになります。今日の私たちには、異端がどれほど厄介な問題であるか理解できないかもしれません。聖書はたびたび異端に言及していますが、「異端」について話すこと自体、批判的、あるいは傲慢なことと考える人たちもいました。ヨハネは、真理と虚偽の間に根本的な違いがあることを教えています。
相互の交わり(2ヨハネ12,13)
12節と13節をもって、ヨハネの手紙IIは終わります。これらの聖句は結びの言葉になっていて、読者に対するヨハネの個人的な関心と、これらの信者と個人的に会いたいという彼の願いが述べられています。
問8
ヨハネの手紙IIの12、13節に書かれていることに注目してください。文字に書かれた手紙とは対照的に、親しく話し合うことにはどんな利点がありますか。「わたしたちの喜びが満ちあふれるように」という表現から、ヨハネが信者に会いたいと願った理由についてどんなことがわかりますか。使徒2:42~47参照
ヨハネが伝えているメッセージは強力です。反キリストに関しては、全く交渉や妥協の余地がありません。ガラテヤの信徒に書き送ったときのパウロの態度を思い起こさせます(ガラ1:6~9)。
ヨハネは口頭でメッセージを伝えることもできましたが、手紙で伝えることにも利点がありました。
・使徒たちの手紙は特別な重要性と権威を持つものと見なされ、大事に扱われました。
・手紙は個人的な訪問よりも早く読者に届きました。緊急の場合には、迅速な応答が要求されました。
・メッセージは他の教会や同じ状況にある後の世代のために保存されました。事実、ヨハネはこの手紙を別の教会に回すように求めています(13節)。
・手紙は非常に注意深く書かれるので、概して口頭で伝えるよりも正確でした。
・手紙を書くに際して、聖霊の導きが与えられました。
それにもかかわらず、ヨハネは彼らと親しく話し合いたいと願いました。
まとめ
次の聖句を読んでください。ガラ2:11~16、Iテモ4:1~7、IIテモ2:14~19、黙2:1~3、12~16、18~25
「使徒ヨハネは教えています。私たちはクリスチャンの礼儀を表すべきであるが、その一方で罪と罪人をその正当な名で呼ぶことを許されており、またそうすることは真の愛と矛盾しない、と。私たちは、キリストが死んでくださった魂を愛し、彼らの救いのために働くべきですが、罪と妥協すべきではありません。反逆的な人々と交わり、これを愛と呼ぶべきではありません。神がこの時代にあってご自分の民に求められることは、ヨハネが自らの時代にあってそうであったように、魂を滅ぼす誤りに対抗して、ひるむことなく善のために立つことです」(『清められた生活』63ページ)。
「世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、罪を罪と呼ぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人、──そういう人である」(『教育』54ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。