ガリラヤの対立【マルコ—マルコの見たイエス】#5

目次

この記事のテーマ

闇の中の光

「後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザ9:1、2)。

イエスはこの預言を実現されました。罪と病、無知と貧困に打ちひしがれた民に、イエスは救いといやしと新しい命をもたらされました。

イエスはガリラヤで多くの信奉者を引きつけられました。しばらくの間は大変な評判でしたが、先には暗雲が垂れこめていました。事実、イエスが五千人に食べ物を与えられたとき、運動は危機に直面しました。群衆の熱意は頂点に達し、イエスを王にしようとしますが、イエスはそれを拒否されます。多くの人が失望し、イエスのもとを離れていきます。マルコはイエスを待ち受ける諸事件を予示するかのように、一時期人気のあったバプテスマのヨハネの運命を描写しています。

ナザレでの対立(マルコ6:1~6─ルカ4:16~30参照)

イエスとイエスの奇跡についての噂はガリラヤ中に広まっていたので、ナザレの住民もイエスの御業について聞いていたはずです。当時のナザレは人口500~600人の小さな村だったので、村人の一人が有名になれば、それは村中の語り草になったことでしょう。イエス御自身、次のように言っておられます。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」(ルカ4:23)。

問1

マルコ6:3を読んでください。彼らがそのように言ったのはなぜですか。本当は何が言いたかったのでしょうか。疑うべき正当な理由があったのでしょうか。

オーストラリアには、ナザレの村人に見られたような反応を表すうまい表現があります。それは“背の高いポピー”症候群(“出る杭は打とう”症候群)といわれるものです。ポピー畑では、一本だけほかよりも背の高いポピーがあると、切られてしまいます。ほかの人よりも目立つ、あるいは優れた人は嫌われるのです。同じように、スカンディナヴィア地方にも“ヤンテの法則”というのがあります。それは指導的立場にある人を戒めて、次のように言います。「自分が特別な人間だと思うなよ。俺たちと少しも違わないのだ。お前をこの地位につけたのは俺たちで、いつでも取り替えることができるのだよ」。

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6:5、6)。ナザレの住民はイエスについてすべてのことを知っていると思っていました。彼らはイエスが成長するのを見ていましたし、イエスの両親、兄弟、姉妹も知っていました。彼らにはイエスは住民の一人であって、特別な人ではありませんでした。彼らはイエスを知っていると思っていましたが、実際には知りませんでした。

あなたは神を誤解したことがありませんか。私たち罪人が神を誤解しがちなのはなぜですか。そのような経験を通してどんな教訓を学びましたか。

12使徒派遣の記事(マルコ6:7~13)の後に、マルコはバプテスマのヨハネの死についての詳しい記録を挿入しています。マルコが福音書の中で、行動の人イエスについての描写からそれているのはここだけです。マルコは冒頭で、メシアの到来を宣言する神の使者としてのバプテスマのヨハネに簡単に触れますが(マルコ1:2~8)、その後ここまでヨハネに再び言及していません。12人の派遣の頃までには、ヨハネはすでに殺害されていました。ヘロデ王は、イエスの奇跡は死者の中から生き返ったヨハネによるものだと思いました。この邪悪な支配者は神の僕を殺害したことで良心の呵責を感じていたようです。

問3

ここでのヘロデの行動を、イエスの裁判におけるピラトの行動と比較してください。マタ27:11~30、マルコ15:2~20、ルカ23:2~25、ヨハ18:28~38、19:1~16

(1)罪悪感はヘロデとピラトのうちでどんな役割を果たしていますか。

(2)両者は囚人[ヨハネとイエス]に死刑を宣告したことに関してどのように感じていましたか。

(3)両者の妻はどのような役割を果たしていますか。

(4)世俗の王権はそれぞれどんな役割を果たしていますか。

(5)両者は第三者[群衆]によってどのように操られていますか。

ヨハネの殺害、それに伴う屈辱的な出来事を知らされたとき、イエスは心を痛められたことでしょう。従兄弟であり協力者であったヨハネの死は、イエスの心に深い悲しみをもたらしただけでなく、御自身の最期をも予感させるものでした。イエスを待ち受けているのは死刑執行人の刃ではなく、十字架でした。

転換点(マルコ6:30~44)

問4

イエスが五千人に食べ物を与えられた記事(マルコ6:30~44)を読んでください。ヨハネ6:1~15にある平行記事を、特に14、15節に注意しながら読んでください。これらの聖句からさらにどんなことがわかりますか。イエスが王にされるのを望まれなかったのはなぜですか(ヨハ3:14、7:8、18:36参照)。

イエスは王位につくのを拒まれましたが、ヨハネはその結果について次のように記しています。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハ6:66)。彼らは失望しました。希望と期待は打ち砕かれました。イエスについて抱いていた先入観念は誤っていたのです。こうして、彼らはイエスから離れていきます。

問5

期待を裏切られたために、人や組織から離れてしまった経験はありませんか。あなたの期待は間違っていたのでしょうか。それとも非現実的だったのでしょうか。事前にもっとよく考えるべきだったのでしょうか。この経験からどんなことを学びましたか。

人々を回心に導こうとする熱意のあまり、クリスチャンになることに関して誤った期待を抱かせる危険を冒してはいないでしょうか。イエスを受け入れて教会に加わるなら、必ず幸せになり、健康になり、成功する、などと約束してはいないでしょうか。確かに、私たちは数々の素晴らしい聖書の約束を与えられています。しかし、これらの約束は、クリスチャンの生涯が時として戦いであって、試練と誘惑、苦しみを伴うというほかの聖句との関連において正しく理解されるべきです

(使徒14:22、Iペト4:12、13参照)。

問6

イエスが特にこの時を選んで、湖の上を歩くという信じがたい奇跡をなされたのはなぜだと思いますか。昨日の研究にもとづいて考えてください。

イエスが湖の上を歩き、船に乗り込まれた後で、弟子たちはその出来事に非常に驚いたと書かれています。このギリシア語動詞には、「理解できないほどに驚いた」という意味があります。マルコによれば、彼らが魚とパンの奇跡を理解しなかったのは、その心が鈍くなっていたからでした。このような驚くべき奇跡の後でさえ、彼らはそれを理解できなかったのです。

問7

マルコによる福音書1~6章に記されている出来事について復習してください。イエスはどんな奇跡を行われましたか。これらの奇跡はどんな意味でイエスに対する弟子たちの信仰を強めるはずでしたか。同時に、彼らにイエスを疑わせるようなどんなことが起こりましたか。これらのことから、私たちが信仰を抱いたり、信仰を持ち続けたり、信仰を失ったりすることに関してどんな教訓を学ぶことができますか。

罪深い人間である私たちは生まれつき、悪いこと、利己的なこと、罪深いことに向かう傾向があります。したがって、善なる神、無我にして罪のない神に向かうことは生まれながらの傾向ではありません。神が私たちのためにどんな御業をなされようとも、あるいはどんなに素晴らしい十字架の光景が示されようとも、もし私たちが自分の魂を守らないなら、もし信仰を養い、信仰を実践し、信仰によって生きようとしないなら、私たちの心は鈍くなるばかりです。人間は生まれつき下に、地上に、自己に、罪に、死に向かっています。信仰によって、日ごとに神の御手を捉えることによってのみ、私たちは生まれながらの堕落傾向から解放されます。

ファリサイ派の人々との対立(マルコ7:1~23)

問8

マルコ7:1~23を注意深く読んでください。ここで教えられている内容をひと言で言い表すとどうなりますか。

問9

イエスがここで教えておられることの内容を要約している聖句を一つあげるとするなら、あなたはどの聖句をあげますか。特にその聖句を選んだ理由は何ですか。

宗教を批判する人たちはしばしば、宗教とは特定の階級の人間がほかの階級の人間を支配するために考え出した人工的な構造物に過ぎない、と言います。皮肉なことですが、イエスが言おうとしておられたのはまさにこのことでした。祭司たちがこれらの儀式[昔の人の言い伝え]に従っていたのも、自分たちの権力と富をより強固なものとするためでした。

たとえば、神はレビ記の中で汚れに関する指示を与えておられますが、長年のうちにさらに多くの規則がこれに付加されてきました。その結果、病人、障害者、重い皮膚病を患っている人々、また儀式的な清めに関する規定を守ることのできない人々といった一般の人たちは、ますます神殿の儀式から締め出され、神殿とそれに伴う権威は少数の選ばれた人々の手に握られてしまいました。

イエスが多大の時間を、異教徒や懐疑主義者や不可知論者とではなく、むしろ信仰の擁護者を自認する宗教家たちと戦うことに費やさねばならなかったのですから、実に皮肉なことです。また、これらの宗教家たちが、神の戒めを守ろうとする熱心さのあまり、実際には自分たちが擁護しているつもりの戒めを無にするような伝承や規則を作り出していたのですから、恐ろしいことです(マルコ7:1~11参照)。

ミニガイド

ファリサイ派は見える形を重んじ、キリストは見えない心を重んじました。そこに両者が鋭く対立する要因がありました。心こそ人格の中枢をなす最も本質的なものであるとキリストはお考えになりました。神は(サタンもですが)私たちの心を獲得しようとなさいます。心が得られればすべてのものを得たことになるからです。形から本質に入ることもあり、形は本質の現れでもありますから両者が無関係というわけではないのですが、人間はしばし形にとらわれて本質を見失いがちです。ですから私たちは何が本質的なものかを見抜こうとする心の姿勢を持つ必要があります。そうでないとファリサイ派のように人間より規則のほうを大事にしたりします。教会の古き良き(?)伝統が一人歩きをして人を裁く物差しになったりします。たとえばアドベンチストのライフスタイルについて自分で確信を持っていることはよいのですが、それを他の人を裁く基準としたら大きな過ちを犯していることになります。

アメリカのSDA教会の礼拝に婦人牧師が講壇に立ちました。きちんとした身だしなみにお化粧してイヤリングを付けていました。格調高い説教をした後、最後に「クリスチャンにとって大切なことは良い人になることです」と締めくくって講壇を降りていきました。「あの先生はイヤリングなんか付けて」という視線を意識しての説教だったのでしょう。この先生が言わんとしたのはイヤリングの是非ではなく、そういうことは信仰や品性のような本質的なものではないということでしょう。「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタ23:24)。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(同12:7)。

ファリサイ派の宗教は「何をするか」(あるいは「何をしないか」)という行為を問う宗教でしたが、キリストの宗教は「どんな人であるか」と存在を問う宗教でありました。私たちもその人の業績よりも人柄に心を引かれるのではないでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次