人間の状態【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#3

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ローマ書の早い段階で、パウロは重要な真理、福音の中心である真理——人間の惨めな状態——を明らかにしようとします。この真理が存在するのは、人間が罪に堕ちて以降、私たちがみな罪に汚れているからです。目の色が遺伝子と深く結びついているように、罪は私たちの遺伝子と深く関係しています。

マルティン・ルターは、『ローマ書講義』において、次のように書きました。「『みな罪のもとにある』(ローマ3:9)。……この本全体が、霊において語られていると理解されるべきである。すなわち、自分の眼において、また、人々の前にあるような人間について語られているのではなく、神の前にあるような人間について語られている。そこでは、すべての人が罪のもとにある。明らかに人々にとって悪い人も、自分にとっても人々にとってもよく見える人も、そうなのである。……明らかに悪い人々は……罰への恐れから、あるいは、利益や名誉やその他の被造物への愛からこれを行うのであって、心から、喜びをもって行うわけではない。このように外的な人はよい行いをするよう強制されているが、内的な人はこれに反する肉の思いと欲望でいっぱいになっている」(『ルター著作集』第二集、第8巻(ローマ書講義・上)、徳善義和訳、聖文舎、1992年、330ページ)

神の力

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ロマ1:16、17)。ここに見いだされる約束や希望を、あなたは経験したことはありますか。

この箇所には、いくつかの鍵となる言葉が登場しています。

①「福音」——この言葉は、文字どおりの意味が「良いメッセージ」「良い知らせ」であるギリシア語を訳したものです。単独であれば、何らかの良いメッセージを指しますが、〔詳訳聖書や〕いくつかの英訳聖書のように「キリストの」という句によって修飾されると、「メシアに関する良い知らせ」(「キリスト」は「メシア」を意味するギリシア語の音訳語)を意味します。その良い知らせとは、メシアがおいでになり、彼を信じることによって人々が救われるというものです。人が救いを見いだすことができるのは、(私たち自身の中でも、神の律法の中でさえもなく)イエスの中、その完全な義の中なのです。

②「義」——この言葉は、神と「正しい」状態にある性質を指します。この言葉の特殊な意味がローマ書の中で説明されており、今期の研究が進むにつれて明らかになります。注目すべきはローマ1:17において、この言葉が「神の」という句で修飾されていることです。この「義」は、神によってもたらされる義、神御自身が与えてくださった義なのです。あとで見るように、永遠の命の約束を私たちに与えるのに十分な義は、これだけです。

③「信仰」——この箇所で「信じる」とか「信仰」と訳されているギリシア語は、同じ言葉の動詞形(「ピステウオー」)と名詞形(「ピスティス」)です。救いとの関連における信仰の意味は、私たちの研究が進むにつれて明らかになります。

「人は皆、罪を犯して」

問1

ローマ3:23を読んでください。今日、クリスチャンにとって、なぜこのメッセージは信じやすいのですか。一方、ある人たちは何が原因でこの聖句の真理を疑うのですか。

まったく驚くべきことに、ある人たちは、人間が罪深いという考えに異議を唱え、人間は基本的に善である、と主張します。しかしながら、その問題は、真の善とは何かということへの理解不足から生じているのです。人間は自分自身をだれかと比較して、自分に自信を持つことができます。要するに、私たちは自分自身と比較するために、自分よりも悪いだれかをいつでも見つけることができるのです。しかし、他人と比較することで私たちが良くなるわけではありません。自分自身を、神と、つまり神の聖や義と比較するとき、だれ1人として自己嫌悪に圧倒されずにいることはできないでしょう。

ローマ3:23もまた、「神の栄光」について述べています。この語句はさまざまに訳されてきましたが、おそらく最も簡単な解釈は、「男は神の姿と栄光を映す者」というIコリント11:7の意味をこの語句に当てはめることでしょう。ギリシア語では、「栄光」に相当する言葉と「姿」に相当する言葉が、ほぼ同義とみなされていたのかもしれません。罪は、人間の中の神の姿を損ないました。罪深い人間は、神の姿や栄光を反映するには遠く及びません。

ローマ3:10〜18を読んでください。私たちの状況は、私たちが悪いほどに絶望的ではありません。最初の一歩は、私たちが心底罪深いことと、それに関して何もできない自分自身の無力さを認めることです。そのような罪の自覚をもたらすのは、聖霊の働きです。もし罪人が反抗しないなら、聖霊はその人から自己防衛や見せかけや自己正当化の仮面を引きはがし、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と、キリストの憐れみにすがれるようにその人を導いてくださいます。

「進歩?」

「人類は進歩しており、倫理観はますます高まり、科学技術は理想郷への案内役を果たすだろう」。20世紀の幕が開けたとき、人々はこんな考えを持ちながら生きていました。基本的に人類は完全への途上にあると信じられていました。正しい教育と道徳的訓練によって、人間は自分自身と社会を大いに改善できると考えられていたのです。私たちが20世紀という華やかで新しい世界に入ったとき、このようなことがすべて始まると予想されていました。

しかし残念なことに、およそそのようにはなりませんでした。(皮肉なことに)おもに科学の進歩のおかげで、20世紀は、全歴史上、最も暴力的で野蛮な時代の一つになりました。科学が、過去の最も邪悪な狂人しか夢見ることのできなかった規模で、人が人を殺せるようにしたからです。何が問題だったのでしょうか。

問2

ローマ1:22〜32を読んでください。ここに書かれている西暦1世紀の物事は、21世紀の今日、どのようにあらわれていますか。

キリスト教に関する多くのこと、例えば死者の復活、再臨、新しい天と地などを信じるには、信仰が必要かもしれません。しかし、人間の堕落した状態を信じるのに、だれが信仰を必要とするでしょうか。今日、私たち1人ひとりは、その堕落した状態が招いた結果を生きています。

問3

特に、ローマ1:22、23に注目ください。私たちは、これらの聖句の本質的なことが、現在どのようにあらわれているのを目にしますか。神を拒むことによって、現代の人間は代わりに何を拝み、何を偶像化するようになりましたか。そしてそうすることで、彼らはいかに愚かになりましたか。あなたの答えを安息日学校のクラスで発表してください。

ユダヤ人と異邦人に共通するもの

パウロはローマ1章において、はるか昔に神を見失い、最も恥ずべき習慣に陥っていた異邦人の罪、異教徒の罪を特に扱っていました。しかしパウロは、自分の仲間や同胞を見逃すつもりもありませんでした。これまで与えられてきたあらゆる優位性にもかかわらず(ロマ3:1、2)、彼らもまた、神の律法によって有罪宣告を受けた罪人であり、キリストの救いの恵みを必要としていました。その意味において、つまり罪人であり、神の律法を犯してきており、救いのために神の恵みを必要としているという意味において、ユダヤ人も異邦人も同じなのです。

ローマ2:1〜3、17〜24を読んでください。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちはみな、この警告からメッセージを受け取る必要があります。

「彼[使徒パウロ]は、すべての異邦人が罪のもとにあることを明らかにしたあとで、ここでは断固として、特別に、ユダヤ人が罪の中にあることを 明らかにする。それは特に、彼らが律法を外見だけで、すなわち、霊においてではなく、文字において守るという理由によってである。」(『ローマ書講義』上、ルター著作集第二集829、31ページ)

他人の罪を見て、それを指摘することは、しばしばとても簡単です。しかし、どのくらいの頻度で、私たちは同じような罪を、あるいはもっと悪い罪を犯していることでしょうか。問題は、私たちが自分自身には目をつぶる傾向があること、つまり自分自身と比較して、いかに他人が悪いかだけを見ることで自分に自信を持つという点です。

パウロはそのようなことを認めません。彼は同胞たちに、たとえユダヤ人が選民だとしても罪人なのだから、異邦人をすぐに裁いてはならないと警告します。ユダヤ人は、異邦人よりも多くの光を与えられてきたがゆえに、彼らがすぐに責める異教徒よりも、場合によっては罪深かったのです。

ここにおけるパウロの論点は、私たちのだれもが正しくなく、だれもが神の基準を満たしておらず、だれもが本質的に善でもなければ、生まれながらに聖なる者でもないということです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、男であれ、女であれ、金持ちであれ、貧しい人であれ、神を畏れる人であれ、神を拒む人であれ、私たちはみな罪に定められています。そして、福音の中に示されている神の恵みがなければ、だれにも希望はないでしょう。

福音と悔い改め

問4

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ロマ2:4)。悔い改めに関するあらゆる疑問に対して、ここにはどんなメッセージがありますか。

神の強制力ではなく、神の憐れみが罪人を悔い改めに導くということに、私たちは注目すべきです。神は強制力をお用いになりません。神は限りなく忍耐深く、すべての人を愛で引き寄せようとなさいます。強いられた悔い改めは、悔い改めの目的をすっかり台なしにしてしまうでしょう。もし神が悔い改めを強制なさるなら、すべての人が救われるのではないでしょうか。なぜなら、神がある人は悔い改めさせ、ある人は悔い改めさせないということはないだろうからです。悔い改めは、自由意志の行為、私たちの生活の中における聖霊の働きへの応答であるはずです。確かに、悔い改めは神からの贈り物ですが、私たちはそれを受け入れるために心を備え、開く必要があります。その選択は、私たちだけが自らできるものなのです。

神の愛に逆らい、悔い改めることを拒み、反抗し続ける者たちはどうなるかについてパウロは述べています(ロマ2:5〜10参照)。また、ローマ2:5〜10やローマ書の至る所で、パウロは善行の役割を強調しています。律法の行いによるのではなく、信仰による義認は、善行がクリスチャン生活において無用であることを意味すると解釈されてはなりません。例えばローマ2:7において、救いは「忍耐強く善を行(う)」ことでそれを求める者たちにもたらされる、と記されています。人間の努力は救いをもたらすことができませんが、それは救いという経験全体の一部なのです。聖書を読んで、行いや業はまったく重要ではないという考えを持って読み終える人がいるというのは、理解しがたいことです。真の悔い改め、すなわち心から進んでする悔い改めのあとには、いつも、悔い改めを必要とするような事柄を放棄し、克服しようとする決意が生まれます。

さらなる研究

「このように聖書が用いている言葉は、罪が、人間を不意に襲う災難ではなく、人間の側の能動的な態度や選択の結果であることを示している。さらに、罪とは、善がないことではなく、神の期待に『及ばないこと』である。罪は、人間が意図的に選んできた悪の道なのである。罪は、人間が責任を負うことのできない弱さではない。なぜなら、罪の態度や行為の中にいる人は、神の律法を犯すことで神に逆らう道を意図的に選び、神の言葉を聞かないからである。罪は、神がお定めになった制約を超えようとする。つまり、罪は神への反逆なのである」(『SDA神学ハンドブック』239ページ、英文)。

「世の状態について恐ろしい光景がわたしの前に示された。不道徳が至る所に多く行われている。淫蕩は現代独特の罪である。今日ほど悪がかくまで厚かましくその醜い頭をもたげた時代はない。人々は無感覚になっているようであり、徳と真の善良さを愛する者たちは、悪の厚かましさと力と優勢さにほとんど気をくじかれている。おびただしい罪悪は、未信者や嘲笑者たちにのみ限られているわけではない。そうであればよいのであるが、そうでないのである。キリストを信ずると自称する多くの男女が罪を行っている。主の再臨を待つと言っている者のある人たちでさえ、サタンと同様その事のために何の準備もしていないのである。彼らはすべてのけがれから自らを清めていない。彼らは長いこと欲望に仕えてきたので、思考がけがれ、想像力が堕落するのは当然である」(『希望への光——クリスチャン生活編』756ページ、『アドベンチスト・ホーム』368ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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