信仰によって義とされる【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#4

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この記事のテーマ

今回の研究において、私たちはローマ書の中心テーマ、信仰による義認に至ります。それは、ほかのどんな真理よりも宗教改革をもたらす要因となった偉大な真理です。そして、反対の主張はいろいろあるものの、ローマ〔カトリック教会〕はこの信仰に関して、教皇レオ10世がルターと彼の教えを糾弾する勅書を出した1520年と何ら変わっていません。ルターはその勅書を焼き捨てました。もし妥協してはならない教えが一つあるとしたら、信仰による義認がそれだったの(それだから)です。

この義認という用語自体は、法に基づく象徴的なものです。法を犯した者は裁判官の前に行き、その罪のゆえに死刑を宣告されます。ところが、身代わりの者があらわれ、その犯罪者の罪を引き受け、それよって彼を放免にするのです。身代わりの者を受け入れることで、その犯罪者は、罪の責任を免除されるだけでなく、法廷に連れて来られた原因である罪をそもそも犯していなかったとみなされて、今や裁判官の前に立ちます。身代わりの者がその完璧な律法順守を、釈放される犯罪者のものとして提供するからです。

救済計画において、私たちはだれもが犯罪者です。身代わりの者であられるイエスは完璧な記録を持っており、私たちの代わりに法廷に立ち、その義が私たちの不義の代わりに受け入れられます。こうして私たちは神の前に義と認められます。私たちの行いによってではなく、イエスによって、つまり私たちが「信仰によって」受け入れるときに私たちのものとなるイエスの義によってです。良い知らせとは、まさにこのことでしょう。それどころか、これ以上に良い知らせなどありえません。

律法を実行すること

問1

ローマ3:19、20を読んでください。パウロはここで、律法について、律法が何をするかについて、また律法が何をしないか、あるいはできないかについて、何と述べていますか。なぜこれは、すべてのクリスチャンが理解すべき重要な点なのですか。

パウロは「律法」という言葉を、当時のユダヤ人が理解していたように、幅広い意味で用いています。「トーラー」(ヘブライ語で「律法」)によって、ユダヤ人は今日でさえ、特にモーセが書いた最初の五書の中の神の命令だけでなく、旧約聖書全体におけるもっと一般的な命令も思い浮かべます。道徳律(に加えて、それを掟と法によって敷衍したものや礼典律)は、このような命令の一部でした。それゆえ、私たちはここでの律法を「ユダヤの制度」とみなすことができます。

律法の下にいるというのは、その管轄下にあることを意味します。しかし、律法は人の欠点や罪を神の前に明らかにします。律法はその罪を取り除くことができません。できることは、罪の治療法を探すように罪人を導くことです。

ユダヤの律法がもはや影響力を持たない現代にローマ書を適用するとき、私たちは律法を、特に道徳律の観点から考えます。この律法は、ユダヤの制度がユダヤ人を救えなかったのと同様、私たちを救うことができません。罪人を救うことは、道徳律の機能ではありません。その機能は、神の品性を明らかにし、その御品性を反映するのに人間がいかに不十分であるかを示すことなのです。

どの律法——道徳律、礼典律、民法、あるいはそれらすべて——であれ、そのどれか、あるいはすべてを守ることで、人は神の目に正しくなりはしません。実際に、律法はそうすることを目的にしていませんでした。それどころか、律法は私たちの欠点を指摘し、私たちをキリストへ導くためのものだったのです。

病気の症状が病気をいやせないように、律法は私たちを救うことができません。症状は病気をいやすのではなく、治療の必要を指摘するのです。律法もそのように機能します。

神の義

問2

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ロマ3:21)。この聖句の意味を、私たちどのように理解すべきですか。

この新しい義は、ユダヤ人になじみ深かった律法の義と対比されています。新しい義は「神の義」と呼ばれています。つまり、神からもたらされる義、神が与えてくださる義、神が本物の義としてお受け入れになる唯一の義です。

言うまでもなく、この義は、イエスが地上で肉体を取っておられた生涯の中で成し遂げられた義——それを受けるに値するからではなく、それを必要とするがゆえに自分のものとして要求し、信仰によって受け取るすべての者にイエスが提供してくださる義——なのです。

問3

「義とは律法を守ることである。律法は義を要求する。罪人は律法に義を差し出さねばならないが、そうすることができない。私たちが義を得る唯一の方法は、信仰によってである。信仰によって、罪人はキリストの功績を神にささげることができ、そして主は、御子の服従を罪人の勘定にお入れになる。キリストの義が罪人の失敗の代わりに受け取られ、神は、悔い改めて信じる魂を、受け入れ、赦し、義と認め、その人があたかも正しい者であるかのように扱い、御子を愛するように愛してくださるのである」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻367ページ、英文)。あなた自身のために、あなたはこのすばらしい真理を受け入れることをどのように学ぶことができるでしょうか(ロマ3:22も参照)。

イエス・キリストの信仰がここにあります。それは疑いもなく、イエス・キリストを信じる信仰です。信仰はクリスチャン生活において働きますが、それは単なる知的同意以上のもの、キリストの生涯と死に関する何らかの事実を認めること以上のものです。そうではなく、真にイエス・キリストを信じることとは、キリストを救い主、身代わり、保証人、主として受け入れることです。それは、キリストの生き方を選ぶこと、キリストを信頼し、信仰によってその掟に従って生きようとすることなのです。

神の恵みにより

律法と律法ができないことについてこれまで学んだことを心にとめつつ、ローマ3:24を読んでください。この聖句に見られる「義認」という考えは、どのようなものでしょうか。「義とする(認める)」と訳されているギリシア語の「ディカイオオー」は、「義と宣告する」「義とみなす」といった意味です。この言葉は、「ディカイオシュネー(義)」や「ディカイオーマ(正しい要求)」といった言葉と同じ語根を持っています。それゆえ、「義認」と「義」の間には密接な関係があるのですが、その関係はさまざまな翻訳によっていつも伝わるとは限りません。私たちは神から「義と宣告される」ときに、義と認められるのです。

義と認められる前の人間は不義であり、それゆえ神に受け入れていただけません。その人は義と認められたあと、神に受け入れられます。

そして、この義認は神の恵みによってのみ起こります。恵みとは好意のことです。罪人が救いを求めて神に頼るとき、その人を正しいとみなし、正しいと宣告するのは、恵みの働きです。それは身に余る好意であり、信じる者は何らの功績もなく、全くの無力以外に、神に申し立てるべき何の要求もなく、義とされます。その人は、キリスト・イエスの内にある贖い、つまり罪人の身代わり、保証人としてのイエスが提供してくださる贖いによって義とされるのです。

ローマ書において、義認は瞬間的な行為として表現されています。つまり、ある時点で起こるのです。ある瞬間に、その罪人は外部者であり、正しくなく、受け入れられていなかったのに、義と認められた次の瞬間、その人は内部者となり、正しくなり、受け入れられるのです。

キリストにある人は、義認を過去の行為、その人がキリストにすっかり献身したときに起こった行為とみなします。信仰によって「義とされる」というのは、文字どおりには、「義とされた」(ロマ5:1)ということです。

言うまでもなく、義とされた罪人が信仰から離れ、再びキリストに戻るなら、義認は再び起こるでしょう。同様に、もし回心が繰り返される経験とみなされるとしたら、義認もまた繰り返される経験であるとも考えられます。

キリストの義

ローマ3:25で、パウロは救いの大いなる知らせについてさらに詳しく述べています。彼は、「罪を償う供え物」という珍しい言葉を用いています。この言葉に相当するギリシア語は「ヒラステリオン」で、新約聖書において、ヘブライ9:5(「償いの座」、口語訳では「贖罪所」と訳されている)とここにしか登場しません。ローマ3:25でこの言葉は、義認の提供やキリストによる贖いを表現するために用いられていますが、旧約聖書の聖所の贖いの座によって象徴されたあらゆることの成就をあらわしているようです。このことの意味は、イエスはその犠牲的な死によって救いの手段として示されたのであり、「罪を償う供え物」を提供するお方としてあらわされているということです。要するに、神は私たちを救うのに必要なことを実行されたということです。

この聖句はまた、「罪を見逃す」ことにも触れています。私たちが神に受け入れられないようにしているのは、私たちの罪です。私たちは自分の罪を取り消すために何もできません。しかし神は救済計画において、キリストの血によって信じることによってこのような罪が赦される道を提供してくださいました。

「見逃す」に相当するギリシア語は「パレシス」で、字義どおりの意味は、「大目に見る」「通り過ぎる」です。「大目に見る」というのは、罪を無視するという意味ではありません。神は、キリストがその死によって全ての人の罪の罰を受けられたので、過去の罪を大目に見ることがおできになるのです。それゆえ、「その〔キリストの〕血によって信じる」者は誰でも、キリストがその人のためにすでに死んでくださったがゆえに(Iコリ15:3)、罪を赦していただけるのです。

ローマ3:26、27を読んでください。耳を傾けようとするすべての人とパウロが分かち合いたいと強く願っていた福音は、人間には「義」〔神の義〕が手に入ること、それは行いや私たちの功績によってではなく、イエスとイエスが私たちのために成し遂げてくださったことへの信仰によってである、というものでした。

神はカルバリーの十字架のゆえに、罪人は正しく、宇宙の目から見て、公正かつ公平とみなされる、と宣言なさることがおできになります。サタンは、天が究極の犠牲を払ったがゆえに、非難の矛先を神に向けることができません。サタンは、神が人類に与えようとするもの以上に多くを彼らに求めている、と非難してきました。キリストの十字架は、この主張に対する反論なのです。

律法の行いによるのではなく

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ロマ3:28)。歴史的背景の中で、パウロはこの聖句においてユダヤの制度という広い意味で律法のことを語っていました。あるユダヤ人がこの制度の下でどれほど良心的に生きようとしても、その人がイエスをメシアとして受け入れなければ、その人は義とされえません。

信仰の法則は誇りを取り除くというパウロの主張の結論が、この聖句です。もし人が自分の行いによって義とされるのなら、彼はそれを誇ることができます。しかし、イエスがその人の信仰の対象であるという理由で義とされるのなら、それは、その罪人を義となさった神のおかげです。エレン・G・ホワイトは、「信仰による義認とは何か」という疑問に興味深い答えを返しています。「〔それは〕人間の栄光を土にまみれさせ、神が人間のために人間自身の力ではできないことをしてくださることなのです」(『聖霊に導かれて——牧師と信徒への勧め』下巻241ページ)。

律法を行うことで、過去の罪を贖うことはできません。義認は獲得することのできるものではありません。それは、キリストの贖いの犠牲により、信仰のみによって与えられるものです。ですから、この意味において、律法を行うことは義認と何ら関係がありません。行いなしに義とされるということは、私たちの中には義認に値するものが何もないのに義とされることを意味します。

しかし、多くのクリスチャンがこの聖句を誤解し、これまで誤用してきました。彼らは、人がすべきことは信じることだけだと言い、行いや服従、道徳律を守ることさえも軽視するのです。彼らはそうすることによってパウロを完全に誤解しました。ローマ書やほかの書において、パウロは道徳律の順守を非常に重視しています。イエスも確かにそうでしたし、ヤコブやヨハネもそうです(マタ19:17、ロマ2:13、ヤコ2:10、11、黙14:12)。パウロが言いたかったのは、律法を守ることは義認の手段ではないが、信仰によって義とされた人は、なおのこと神の律法を守るということ、それどころか、神の律法を守ることができるのは、信仰によって義とされた人だけなのだということなのです。義とされておらず、生まれ変わっていない人は、律法の要求を満たすことができません。

さらなる研究

「律法は、罪に対する罰を免じることができず、あらゆる負債のことで罪人を告発するが、キリストは、悔い改めて彼の憐れみを信じるすべての人に豊かな赦しを約束された。神の愛は、悔い改めて信じる魂に豊かに与えられる。魂に押された罪の烙印は、父なる神と等しくあられたお方という贖いのいけにえの血によってのみ消すことができる。キリストの働き——その生涯、謙遜、死、失われた者のための執り成し——は律法を高め、それを高貴なものとする」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻371ページ、英文)。

「キリストの品性があなたの品性のかわりとなり、神の前にまったく罪を犯したことのない者として受け入れられるのです」(『キリストへの道』最新文庫版88ページ)。

「使徒が、『われわれは律法の行いなしに義とされる』(ローマ3:28)と言うときには、義認のあとで求められるべき行いについて語っているのではない。なぜなら、これはもはや律法の行いではなく、恵みと信仰との行いだからである。これを行う人は、これによって自分が義とされることを確信せず、義とされることを願っており、これによって自分が律法を成就したとは思わず、律法の成就を願い求めているからである。パウロが律法の行いと言っているのは、これを行う人々が、これを義認の原因と考え、これを行ったがゆえに、自分が義であると考えるようなものである。それだから、彼らは義認を求めるためにこれらの行いをするのではなく、得られた義を誇るためにするのである」(『ローマ書講義』上、ルター著作集第二集8377、378ページ)

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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