神殿における最後の日々【マルコ—マルコの見たイエス】#9

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この記事のテーマ

論争

今回の研究で学ぶ出来事はすべて、イエスの地上生涯における最後の火曜日に起こったと思われます。それらは熾烈な論争になっていて、その中で宗教指導者たちはイエスを公の場でやり込め、ローマ当局に訴える口実を得ようとしています。いつもは互いに反目しているさまざまな集団(ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々、ヘロデ派の人々)が、ここでは結束してイエスに反対しています。

イエスは敵に囲まれ、孤軍奮闘されます。だれひとり彼を擁護する者はいません。しかし、イエスはだれの助けも必要とされません。彼は深い洞察と権威をもって、策略に満ちた敵の質問に答え、告発者たちを困惑させ、論破されます。そして、鋭いたとえと質問をもって彼らの偽善を暴露されます。

長く苦しい一日が終わると、イエスはもう一度周囲を見回し、それから神殿を去っていかれます。そして、二度とこの地上の神殿にお戻りになることはありませんでした。

「分からない」(マルコ11:27~33)

問1

イエスは神殿を清めることによって、御自分の権威が神殿や、神殿で仕えている大祭司、律法学者のそれにまさることを明らかにされました。したがって、この神殿における最後の日に、彼らがまず権威についてイエスに質問したとしても不思議ではありません。イエスは告発者たちに何と答えられたでしょうか(マルコ11:27~33─マタ21:23~27、ルカ20:1~8参照)。彼らがイエスに答えなかったのはなぜですか。

イエスは決して言葉でだますようなことはされず、その言葉はいつでも率直で、表裏のないものでした。イエスは宗教指導者たちの質問を彼ら自身に向けて、彼らがイエスに対して築いていた心理的な障壁を除こうとされました。イエスの質問に対する答えは彼らの質問に対する答えでした。イエスもバプテスマのヨハネも共に、神の任命によって語り、働きました。その働きと権威は人間によるものではありませんでした。もし告発者たちがヨハネに対する無知を悟っていたなら、彼らの目はイエスに対して開かれていたはずです。しかし、そのような敵意の中でもイエスは反対者たちのために働いておられました。

「分からない」という彼らの答えに注目してください。これは、正直に言えば、群衆にばれてしまうので、大きな声では言えない、という意味です。イエスは彼らを困惑させただけでなく、もう一度悔い改める機会をお与えになったのでした。しかし、彼らはこの機会を活用しませんでした。

問2

彼らがイエスの質問に答えられなかったのは、ほかにどんな理由があったからですか。マルコ1:7、8、ヨハ1:29参照

彼らは窮地に立たされました。もしヨハネが神から遣わされたことを認めるなら、イエスについてのヨハネのあかしを信じなければならなくなります。もしヨハネが神から信任されたことを認めるなら、キリストに反対する理由がなくなります。

「ぶどう園と農夫」のたとえ(マルコ12:1―12)

これはイエスのたとえの中でも最も力強いものの一つです。その適用は直接的で、その内容は非常に厳粛なので、聞いた人々に深い印象を与えたはずです。イエスはここで、御自分が死ぬこととイスラエルの不忠実な者たちによって拒絶されることをはっきりと予告しておられます。イエスは先に、いちじくの木を呪うという実際的なたとえを通して、イスラエルについての教訓を個人的に弟子たちに与えておられます。そして今、邪悪な農夫のたとえによって、同じ真理を教えておられます。

問3

イエスは邪悪な農夫のたとえの中で、よく知られたどの旧約聖書の言葉を引用しておられますか(イザ5:1~7参照)。

問4

イエスのたとえの多くは一つの要点だけを教えているものですが、ここでは人物や物の一つひとつがはっきりとした意味を持っています。このたとえで出てきた一つひとつの事柄は何を表しているでしょうか。

問5

このたとえは宗教指導者たちにどんな衝撃を与えましたか。マルコ12:12

イエスの言葉は非常に厳粛なものでした。イエスにとっても、イスラエルにとっても、残された時間はわずかでした。イエスはこの厳粛な警告のたとえによって、何人かでも回心することを願っておられました。

滑らかな言葉(マルコ12:13~17)

普段はあまり交際のない二つの集団が、一致団結してイエスを陥れようとしています。ファリサイ派の人々はユダヤ教の律法を厳格に守る人たちで、主がモーセを通して与えられた律法のほかに、長年にわたって律法学者によって付け加えられた数多くの規定を守っていました。一方、ヘロデ派の人々は宗教的な団体というよりも政治的な団体で、ローマの手先となって支配していたヘロデ王とその一族を支持していました。

問6

これらの人たちはイエスに質問する前にどんな巧みな策略を用いていますか。

イエスは言われました。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタ12:37)。ここでは、彼らは自分の言葉によって自分自身を罪に定めています。イエスが真実な方であり、神の道を教えておられることを認めているからです。悔い改めない限り、彼らは最後の裁きにおいて再び自分の言葉に直面することになるでしょう。

問7

次の聖句を読んでください。それらはどんなことを教えていますか。聖書がこのようなテーマについて語っているのはなぜですか。詩編5:10(口語訳5:9)、12:3、4(口語訳12:2、3)、箴20:19、26:28、28:23、29:5

「お世辞」を意味するヘブライ語は「滑らか」「滑りやすい」を意味する言葉から来ています。まさに、この言葉にぴったりの描写です。お世辞の言葉は相手の防衛線をかわし、その人の最大の弱点であるうぬぼれや自尊心をつくときに用いられます。お世辞は人間には通用するかもしれませんが、キリストには通用しません。

策略に満ちた質問(マルコ12:18―27)

サドカイ派は、裕福で進歩的な世俗的人々で構成される宗教的、政治的な団体で、創世記から申命記までのモーセ五書だけを霊感の書とし、死人の復活は信じていませんでした。その彼らが今、イエスを困惑させることを必定と考える、策略に満ちた質問をもってイエスのもとにやって来ました。彼が自分たちに同意しないなら嘲笑の的にすることができ、同意するなら、それはファリサイ派の人々を怒らせることになりました。

問8

サドカイ派の人々に対するキリストの最初の言葉は、彼らの最も痛いところをついています。キリストの言葉が、とりわけ宗教指導者にとって痛烈な批判となっているのはなぜですか。

サドカイ派の人々はモーセの五書しか受け入れていなかったので、イエスは復活について教えている旧約聖書のほかの書巻(たとえば、イザヤ書やダニエル書)からは引用しておられません。出エジプト記3:6が復活に関連して引用されているのは、おそらくここが初めてでしょう。聖書の最初の5巻に関して専門家を自認していたサドカイ派の人々でしたが、不意に自分たちの無知を思い知らされることになりました。

問9

イエスの引用された聖句(出3:6)は神の力と死人の復活をどのように教えていますか(ヨハ11:26、Iヨハ5:11、12参照)。マルコ12:27はこの問いへの答えにどんな助けになりますか。

イエス御自身、人々にこれと同じことを教えておられます。すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブのように、イエスを信じる者たちはすでに死から命に移っているのであり、イエスの声を聞いて墓から出てくるのです(ヨハ5:24、25)。たとえこの肉体は朽ちても、私たちは神の命に結ばれているので、再び生きます。私たちにとって、死は単なる眠り、静かな休息に過ぎません。墓の中にあっても、神の目には生きているのです。

最も重要な掟(マルコ12:28~34)

マルコ12:28~34を注意深く読んでください。その後で、エレン・ホワイトの次の言葉を読んでください。

「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が……尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない』」(マルコ12:28~31)。

【参考】「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4~5)。

「キリストの賢明な答が律法学者を心服させたのであった。律法学者は、ユダヤ人の宗教が内部の信心にはなくて、外面的な儀式にあることがわかった。彼は単なる儀式的なささげ物や、罪のあがないとして信仰もなく血を流すことが無益であることにいくらか気づいた。神への愛と服従、人に対する無我の関心が、そうしたすべての儀式よりもとうといものに思えた。この男がキリストの議論の正しさをすぐにみとめ、人々の前ではっきりとただちに応答したことは、祭司たちや役人たちとまったく異なった精神をあらわしていた。自分の心の確信を語るために、祭司たちの不興と役人たちのおどかしにあえて直面したこの正直な律法学者に、イエスの心は同情となってそそがれた。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた『、あなたは神の国から遠くない』」(『各時代の希望』下巻58ページ)。

ミニガイド

「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」(使徒23:8)。サドカイ派は、人間の理性や経験の範囲内で認識できることしか信じない、いわば自由主義神学の立場でしたが、ファリサイ派は、聖書を神の言葉として文字通り信ずるSDAと同じ保守主義の立場でした。キリストともっとも鋭く対立したのはファリサイ派であったというのは皮肉に見えますが、これは互いに立場が近いからであって、サドカイ派とあまり対立がなかったのは立場が違いすぎて論争にならなかったということでしょう

(教会でよく争いが起きるのは兄弟姉妹という近い立場だからであり、相手が無神論者や仏教徒では争いは起きないでしょう)。

サドカイ派は、もし復活があるとしたらひとりの妻に7人の夫という矛盾が起きるではないかという論理で復活を否定しようとしますが、キリストから「あなたがたがそんな思い違いをしているのは聖書も神の力も知らないからではないか」と一蹴されます。もうお話にならないというわけです。

私が青年の頃、こんな疑問がまじめに話し合われていました。「イエス様が天の雲に乗っておいでになるとき全世界の人々が目撃するというけれど、地球は丸いのにどうしてそんなことができるだろうか」。今では人工衛星を用いて地球の裏側で起こることもリアルタイムで見ることができます。人間にできることが神様にできないでしょうか。私たちは人間の狭い常識という部屋に神様を押しこめてはいないでしょうか。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。神様がモーセにこのように言われたとき父祖たちは土の塵となっている過去の人でした。しかし神様が彼らを現在形で呼んでおられるのは、彼らを復活させるおつもりだからであるとキリストは主張なさったのです。人は死を恐れます。それは自分の存在がなくなる恐怖、人々から忘れ去られる恐怖です。しかし私たちが塵に帰っても、すべての人から忘れ去られても、神様がお心のうちに私たちの名を覚えておられるということはなんと大きな慰めでしょうか。主がお帰りになる時、主はこう言われるのです。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(ヨハ11:11)。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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