礼拝と献身【民数記―放浪する民】#3 

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疑いもなく、イスラエルの子らは時間と文化の大きな隔たりによって現代の世界から隔絶されていました。私たちの世界が彼らにとってそうであるように、彼らの世界は多くの点で私たちには理解できないものです。

しかしながら、私たちと同様、彼らを創造し、贖われた主は両者を一つに結びつけるお方です。どれほど文化や言葉、歴史によって隔てられていようとも、私たちは、たとえ形式や表現は異なっていても、同じ神を礼拝しています。事実、典礼や儀式を通して彼らに教えられた基本的な真理は、その原則において、今日、私たちが学ぶものと同じです。

今回も、引き続き、私たちの霊的祖先の信仰の旅について学びます。神が彼らに与えられた儀式と律法、命令について学びます。特に、焼き尽くす献げ物の祭壇の奉献について、地上の聖所の燭台について、また祭司と共に荒れ野の聖所で奉仕する聖なる働きに召されたレビ人の「按手」について学びます。

祭壇の奉献

荒れ野の聖所においては、犠牲は焼き尽くす献げ物の祭壇に集中していました。この祭壇はアカシア材で造られ、その表面を青銅で覆い、二つの部屋からなる聖所の入り口に近い中庭に置かれていました。至聖所の垂れ幕の前にある黄金の祭壇は香をたくためだけに用いられました。

問1

民数記7章を読んでください。この厳粛な儀式における捧げ物について読むとき、あなたはどんな思いに満たされますか。この記録からどんな霊的教訓を学ぶことができますか。たとえば、この記録のどこに、キリストの十字架が表されていますか。

この祭壇はすでに7日間、聖別されてきました(出29:37)。今、部族の指導者が各部族の代表として12日間、祭壇の奉献を祝う捧げ物をささげています。各指導者とその部族はそれぞれに特別な日を祝いました。ささげるものは全く同じでした。これは、私たちがその身分や立場にかかわりなく、同じ条件で、つまり恵みを必要とする罪人として立つことを示していたと思われます。

「ユダヤ人の制度において、なぜ神はこんなに多くの犠牲を望み、血を流す犠牲の捧げものを定められたのか、と不思議に思う人がいます。死んでいく犠牲はみな、キリストの型であり、最も厳粛な聖なる儀式によって人間の心にその教訓が植えつけられたのです。そのことは祭司たちによってはっきり説明されました。犠牲は、キリストの血によってのみ罪の赦しが与えられるという重大な真理を教えるために、神ご自身が計画なさったのです」(『セレクテッド・メッセージ1』137ページ)。

神との交わり

象徴としての契約の箱はイスラエルの礼拝の中心でした。それは天にある神の御座を象徴していました。「この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている」(サム下6:2、口語訳)。至聖所の中にあって、ケルビムの間に現れる、目に見える「シェキーナー」の栄光は主の臨在を表していました。ケルビムの座の下にある十戒は神の御心を立証していました。それは神と神の民とのあいだの契約の基礎であり、神の普遍的な支配と統治の道徳的基礎となっているものです。律法は神の義なる要求を明示すると共に、神の品性を礼拝者に悟らせるものでした。

問2

出エジプト記25:22と民数記7:89を読んでください。この経験がどのようなものであったか想像してみてください。あなたもこのような神との出会いを経験してみたいと思いますか。たとえ神に近づきすぎても完全に滅ぼされるようなことはないと考えますか。出20:19参照

問3

私たちは今日、どんな意味で、いっそう神の臨在に近づくことができますか(ヘブ4:14~16参照)。イエスはどのようにしてそれを可能にしてくださいましたか。

モーセは主と語るために聖所に入って行きました。しかし、聖書には、主からモーセに語りかけられたと書かれています。私たちはどのように祈るかを知っています。主にどのように語り、どのようにあれこれと要求を述べたらよいかを知っています。しかし、交わりは一方通行ではありません。人間関係においても、双方が相手と語り合います。人間と創造主なる神の場合は異なるのでしょうか。もちろん、そのようなことはありません。重要なのは、神が私たちに語られるとき、喜んで神の声に耳を傾けることです。

聖所の光

中庭における祭壇の奉献にささげられた12日間の後に、モーセが聖所に入ったとき、おそらく聖所の内部は真っ暗だったと思われます。主はアロンに命じて、ヘブライ語で“メノラー”(光を意味するヘブライ語の“オール”から来ている)と呼ばれる「燭台」の7つのともし火皿に火をともすようにされました(民8:1~4)。メノラー(燭台)は主柱から6本の支柱(両側に3本ずつ)まで一枚の純金の打ち出し作りになっていました。それは様式化されたアーモンドの枝の形をしていました(出25:31~40)。各枝の上に置かれたともし火皿は祭司によって1日に2回、朝と夕に整えられました(出30:7、8)。「アロンは主の御前に絶やすことなく火をともすために、純金の燭台の上にともし火皿を備え付ける」(レビ24:4)。

問4

メノラーの意味に関して、次の聖句はどんなことを教えていますか。ゼカ4:1~6、11~14 、黙4:2、5、11:4

ゼカリヤの幻は、燭台のともし火皿に送られ、それらを燃えるようにしている油が神の聖霊であることを暗示します(ゼカ4:5、6)。アーモンドをさすヘブライ語には、「見張る」とか「目を覚ます」といった意味があります(エレ1:11、12)。アーモンドには、文字通り「目覚ましの木」とか「見張りの木」という名前もありました。というのは、それが一番早く目覚め、花を開く木だったからです。ヨハネは天の聖所の幻の中で、玉座の前に燃える7つのともし火を見ています。ヨハネによれば、これは「神の7つの霊」であって、聖霊のさまざまな働きを表していました。

このように、イスラエルは荒れ野にあって、日夜、聖所の第1の部屋と第2の部屋における神の臨在を約束されていました。

レビ人の献身(その1)

問5

民数記8:6~26を読んでください。ここには、神への特別な奉仕に召されたレビ人の献身のことが書かれています。どんな点が目を引きますか。それは聖、罪、清め、神への献身についてどんなことを教えていますか。ここから、私たちの現在の生き方に関してどんな原則を学ぶことができますか。

レビ人の3氏族は聖所の周りに宿営していました。その数は2万人を超えていたので(民3:39)、彼らの献身のある部分は象徴的な表現によってなされたと思われます。つまり、レビ人全員ではなく、一部の代表者だけが直接的にかかわりました。

ここで注目されるのは、レビ人が水で清められ、毛をそられ、贖罪の献げ物をささげた後で(民8:7、8)、彼ら自身が「奉納物」(民8:11)とされたことです。これは決して人間の犠牲を意味するものではありません。これだけははっきりしています。むしろ、この行為には、これらのレビ人がイスラエルのためにある働きをする、自分自身ではできないことを自分のためにするという献身と承認の意味が込められていました。

このことはモーセの次の言葉にはっきりと示されています。「イスラエルの人々はレビ人の上に手を置く」(民8:10)。これは、彼らの責任がレビ人に移されたことを意味していました。全体としてのレビ人は生ける供え物として神にささげられました。彼らは、いま自分たちが代表する長子に代わって聖所で行うこの特別な働きの賜物として自分をささげたのでした。

レビ人の献身(その2)

「彼らはイスラエルの人々の中からわたしに属する者とされている。彼らは、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして、わたしが受け取った者である」(民8:16)。

主がレビ人の特別な召命を強調しておられることに注意してください。彼らは、

「全くわたしにささげられたもの」(口語訳)でした。ヘブライ語では、「ささげられた」が二度繰り返されていて、彼らの召命の重大さが強調されています。

問6

民数記8:19を読んでください。レビ人に「イスラエルの人々のために罪のあがないをさせる」(口語訳)とは、どんなことを意味していますか。十字架の光に照らして考えるなら、これはどのように理解すべきですか。ロマ5:11、ヘブ9:25~28

この言葉の正確な意味に関しては、学者の間でも意見が異なります。明らかに、それは他人の罪のために死ぬという意味での「罪のあがないをさせる」ではありません。それは、もし贖いを身代わりの犠牲と理解するなら、レビ記16章で「あがないをなし」(レビ16:10)と言われていながら、決して犠牲として屠られることのなかった(サタンの象徴であった)雄山羊に、贖いをなすことができなかったのと同じことです。

明らかに、ここで「あがないをなす」と訳されている動詞は一般的に用いられる場合よりも広い意味を持っています。この場合は、レビ人がイスラエルのために奉仕をすることによって彼らを災いから守ると述べている同じ聖句のうちに、その答えがあります。つまり、彼らはその奉仕の働きにおいて、もしイスラエルが「聖所に近づいた」なら直面するかもしれない神の怒りからイスラエルの子らを守る助けをしているのでした。

このように、レビ人は祭司と同様、民が自分自身ではできないことを彼らのためにしていたのでした。このような広い意味において、レビ人は民のために「あがないをなす」と言われているのです。

まとめ

古代イスラエルにおける「按手」の儀式について考えてください。それにはどんな重要な意味がありましたか(創48:8、9、13、14、17~20、民27:18~23、マタ19:13~15、使徒13:1~3)。

「ユダヤ人にとってこの形式は意味深いものであった。ユダヤ人の父は、子供たちを祝福するとき、敬虔に、子供たちの頭の上に手を置いた。動物が犠牲としてささげられるとき、祭司の職権をさずけられている者が、犠牲のささげ物の頭の上に手を置いた。アンテオケの教会の指導者たちが、パウロとバルナバの上に手を置いたとき、彼らはその行為によって、この選ばれた使徒たちが既に任命されていた特別の仕事に献身するにあたり、祝福が彼らにさずけられるよう神に求めたのである。

のちに、手を置く按手の儀式は非常に誤用された。まるで按手礼を受けた者の上に直ちに力が加わり、そのことによって、どんな奉仕の働きにもたちどころに資格ができたかのように、この按手の式に不当な重要性が加えられた。しかしこれらふたりの使徒が聖別されるにあたって、単に頭に手を置く行為によって徳がさずけられたというような記録はない」(『希望への光』1417ページ、『患難から栄光へ』上巻174ページ)。

礼拝のための神聖な幕屋の建造に汚れた動物といわれていた動物から作られた製品が用いられたかどうかを考えてみましょう。イスラエルの民は幕屋建設のために材料を献げましたが、その中に「テハシムの皮」(出エ25:5)という言葉がありますが、それは幕屋の「おおい」(民数記4:25)になりました。この「テハシムの皮」は「じゅごんの皮」(口語訳、新共同訳)、「あなぐまの皮」(KJV)、「あざらしの皮」(RV,ASV)、その他「いるかの皮」、「白てんの皮」などと訳されています。しかし私が聖書学会で発表した論文の結論によりますと、「テハシム」は動物の名ではなく、色の名です。出エジプト25:5は、「赤に染めた羊の皮、茶色に染めた

(羊の)皮」と訳せます。民数記4:25は、「皮色のおおい」でしょう。アンテオカス3世がパレスチナを支配していたとき、神の神殿のあるエルサレムに食べることを禁じられた動物、例えば馬、ラバ、ろば、ヒョウ、きつね、兎などの肉や皮を市内に持ち込むことが禁じられました。私は、幕屋のおおいに使われた「テハシムの皮」は、「茶色に染められた羊の皮」であったと考えています。70人訳聖書もシリヤ語訳聖書も「青紫色」とか「青色」の色に訳しています。

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