アダムとイエス【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#6

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義認、つまり神に受容されることは、イエス・キリストに対する信仰を通してのみもたらされるという主張を、パウロは明白にしました。なぜなら、キリストの義だけが、神のそばに立つ権利を私たちに与えるのに十分だからです。この大いなる真理を足掛かりとして、パウロは義認という主題をさらに詳しく述べます。アブラハムのように「正しい」人でさえ、救いは信仰による必要があることを示しつつ、パウロは一歩下がって全体像——何が罪や苦しみや死の原因になったのかということと、その解決方法がキリストと、彼が人類のために成し遂げてくださったことの中にいかに見いだされるのかということ——に目を向けます。

アダムという1人の人の堕落によって、有罪宣告、疎外、死がすべての人に振りかかり、一方イエスという1人の人の勝利によって、全世界が神の前における新しい立場に置かれました。イエスへの信仰によって、彼らの罪の記録とその罪が受けるべき罰は免じられ、永遠に赦されるのです。

パウロはアダムとイエスを対比し、アダムがしたことをいかにキリストが取り消すために来られたのか、また信仰によってアダムの罪の犠牲者が救い主なるイエスによって救われうることを示します。その根拠は、キリストの十字架と十字架における彼の身代わりの死であり、それが、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、彼を受け入れるすべての人に、自らの血で義認をもたらされたお方であるイエスによって救われる道を全人類に開くのです。確かに、これは詳しく述べるに値する主題です。なぜなら、それが私たちのあらゆる希望の拠り所だからです。

信仰によって義とされる

ローマ5:1〜5を読んでください。「義とされたのだから」と訳されているギリシア語の動詞は、完了した行為をあらわしています。私たちは、律法の行いによってではなく、イエス・キリストを受け入れたことによって義と宣言されました。つまり、義と認められました。イエスが地上で送られた完全な人生、完全な律法順守が、私たちのものと認められたのです。

その一方で、私たちの罪はすべてイエスに負わされました。神は、それらの罪を犯したのが私たちではなく、イエスであるとみなされ、それによって、私たちは受けるべき刑罰を免れることができるのです。その刑罰は、私たちのために、私たちに代わってキリストに下されたために、私たち自身はそれを受ける必要がありません。罪人にとって、これ以上に喜ばしい知らせがあるでしょうか。

ローマ5:3で「誇りとする」と訳されているギリシア語は、口語訳では「喜んでいる」と訳されています。「喜ぶ」と訳されていると、前の節とのつながりが一層はっきりわかるでしょう。義とされた人々は苦難をも喜ぶことができます。なぜなら、彼らはイエス・キリストへの信仰と信頼を回復したからです。彼らは、神が万事を益としてくださるという確信を持っています。彼らは、キリストのために苦しむことを名誉だと考えるでしょう(Iペト4:13参照)。

ローマ5:3〜5における言葉の順序にも注目してください。

①「忍耐」——このように訳されているギリシア語「ヒュポモネー」は、「揺るぎない我慢強さ」を意味します。これは、時として人生を悲惨なものにする試練や苦しみの中にあっても信仰を保ち、キリストにある希望を見失わない人たちの中に苦難が成長させるような我慢強さのことです。

②「練達」——このように訳されているギリシア語「ドキメー」は、文字どおりには「立証された性質」を意味し、それゆえに「品性」、もっと具体的には「立証された品性」を指します。試練を忍耐強く耐えた者は、立証された品性を築くことができるのです。

③「希望」——忍耐と練達は自ずと希望(イエスの中に見いだされる希望と彼による救いの約束)を生じさせます。信仰、悔い改め、服従においてイエスにしがみついている限り、私たちはあらゆるものを望むことができます。

まだ罪人であったとき

ローマ5:6〜8を読んでください。この箇所は神の御品性について、希望に満ちていることを教えています。アダムとエバが神の要求に背いたとき、それは恥ずべき、弁解しがたいことでしたが、神は和解への第一歩を踏み出されました。それ以来、神は率先して救いの道を提供し、それを受け入れるように人々を招いてこられました。「時が満ちると、神は、その御子を……お遣わしになりました」(ガラ4:4)。

問1

ローマ5:9は、私たちはイエスによって神の怒りから救われうると述べています。私たちはその意味をどう理解したらよいのでしょうか。

エジプトを出発する前夜、イスラエル人の家の入り口の柱に塗られた血は、エジプトの初子を襲った神の怒りから彼らの初子を守りました。同様にイエス・キリストの血は、時代の終わりに神の怒りが罪を最終的に滅ぼすとき、すでに義とされ、その状態を保っている人が守られることを保証します。

愛の神が怒りを抱いておられるという考えに思い悩む人たちがいます。しかし、この怒りが存在するのは、まさに神の愛のゆえなのです。この世を愛される神が、どうして罪に対して怒りを抱かずにいられるでしょうか。もし神が私たちに無関心であるなら、地上で起こることを気にかけたりなさらないでしょう。世界を見回して、罪が神の被造物にどんなことをしてきたか、確かめてください。このような悪や荒廃に対して、どうして神は怒らずにいることがおできになるでしょうか。

聖書註解者の中には、ローマ5:10、11は、キリストがこの地上で送られた人生について述べているのだと理解する人たちがいます。キリストはその人生の中で完全な品性を築き、今やそれを私たちに提供しておられます。確かに、これはキリストの完全な人生が成し遂げたことですが、パウロは、キリストが亡くなられたのに復活し、永遠に生きておられるという事実を強調しているように見えます(ヘブ7:25参照)。キリストが生きておられるから、私たちは救われるのです。もしキリストが墓の中にとどまっておられたなら、私たちの希望はキリストとともに消え去っていたでしょう。ローマ5:11は、私たちが主を誇りとすべき理由を続けて述べており、それは、キリストが私たちのために成し遂げてくださったことのゆえです。

罪による死

死は敵です。最大の敵です。人類家族を創造したとき、神は、人間が永遠に生きるように意図されました。ほとんど例外なく、人間は死ぬことを望みません。そう望む者も、個人的に激しい苦悩や苦痛を味わったあとでのことです。死は私たちの最も基本的な性質と合いません。それは、そもそも私たちが永遠に生きるように創造されたからなのです。死は私たちに知られるべきではありませんでした。

ローマ5:12を読んでください。注解者たちは、どの聖句よりもこの聖句についてたくさん議論してきました。たぶんその理由は、『SDA聖書注解』第6巻529ページ(英文)に記されているように、その注解者たちが、「パウロが意図したのとは異なる目的のためにこの聖句を用いようとしている」からです。

そうした註解者たちが議論する一つの点は、「どのようにアダムの罪が彼の子孫に受け継がれたのか」ということです。アダムの子孫は、アダムの罪の責任を分け合ったのでしょうか。それとも、アダムの子孫は自分自身の罪のゆえに、神の前に有罪なのでしょうか。人々は、そのような疑問に対する答えをこの聖句から得ようとしてきましたが、それは、パウロが扱っていた問題ではありません。彼の頭にあったのは、まったく別の目的でした。彼は先に述べたことを再び強調しています——「人は皆、罪を犯して……います」(ロマ3:23)。私たちは、自分が罪人であることを自覚する必要があります。なぜなら、私たちが救い主の必要に気づく唯一の方法は、それだけだからです。ここでパウロは、罪がいかに悪いものであるか、また罪がアダムを通してこの世に何を持ち込んだのかを読者に気づかせようとしていました。それからパウロは、アダムの罪によってこの世にもたらされた悲劇に対する唯一の治療法であるイエスによって、神が私たちに何を提供してくださるのかを示します。

しかしこの聖句は、アダムによる死という問題について述べているだけで、イエスによる命という解決方法については触れていません。福音の最もすばらしい側面の一つは、死が命によって飲み込まれてしまったということです。イエスは墓の扉を通り抜け、その綱を断ち切られました。「(わたしは)また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(黙1:18)と、イエスは言われます。イエスがその鍵を持っておられるので、敵はもはやその餌食を墓の中にとどめ置くことができません。

アダムからモーセまで

ローマ5:13、14を読んでください。パウロはここで何について語っていますか。「律法が与えられる前」という言葉は、「アダムからモーセまで」という言葉と同じ意味です。天地創造からシナイまでのこの世の時代、(言うまでもなく、十戒を含む)イスラエルの制度の規則や律法が正式に導入される前の時代について、パウロは語っています。

「律法が与えられる前」とは、シナイにおいてイスラエルに与えられたさまざまな律法で神の要求が詳しく述べられる前、という意味です。罪はシナイの前にも存在していました。存在しないわけがありません。偽証、殺人、姦淫、偶像礼拝は、それ以前には罪ではなかったのでしょうか。もちろん、罪でした。

シナイ以前、一般的に人類には限られた啓示しか神から与えられていませんでした。しかし、人々は責任を負わされるだけのことは十分に知っていました。神は正しいお方であり、不当にだれをも罰したりなさいません。パウロがここで指摘しているように、シナイ以前の世界の人々は死にました。死はすべての人に伝わりました。人々は明示された命令に対して罪を犯したのではありませんが、それにもかかわらず、罪を犯したのです。人々には自然界における神の啓示が与えられており、彼らはそれに応答しなかったので有罪とみなされました。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質……は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(ロマ1:20)。

ローマ5:20、21を読んでください。シナイで与えられた命令には道徳律が含まれていましたが、それは以前から存在していました。しかし聖書によれば、この律法が文字で書かれ、広く宣言されたのは、これが初めてでした。

イスラエルの人々は、自らを神の要求と比較してみて、自分たちが程遠いことに気づきました。言い換えれば、「罪」が増し加わったからです。イスラエルの人々は不意に自分たちの罪の深さを自覚したのです。そのような啓示の目的は、彼らが救い主を必要としていることを気づかせ、神によって無償で与えられる恵みを受け入れるように促すことでした。先に強調したように、旧約聖書の本当の信仰は、律法主義ではありませんでした。

「第二のアダム」イエス

ローマ5:18、19を読んでください。私たち人間がアダムから受け取ったのは、死の宣告だけでした。しかしキリストは、アダムが罪に堕ちた場所に足を踏み入れ、人間の代わりにあらゆる試練に耐えながらそこで過ごされました。キリストはアダムの恥ずべき失敗と堕落の埋め合わせをし、そうすることで私たちの身代わりとして、私たちを神との有利な立場に置いてくださいました。それゆえ、イエスは「第二のアダム」なのです。

「第二のアダムは道徳的自由意志の持ち主であり、自分の行為に責任を負っていた。極めて巧妙で紛らわしい影響力に取り囲まれていた彼は、第一のアダムが罪のない生活を送るように置かれていた状況よりも、はるかに好ましくない状況の中に置かれていた。しかし、罪人たちのただ中にあって、第二のアダムはあらゆる罪への誘惑に抵抗し、純潔さを保った。彼にはまったく罪がなかった」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1074ページ、英文)。

問2

ローマ5:15〜19において、アダムの行為とキリストの行為は、どのように対比されていますか。

ここにある次のような対立概念に目を向けてください——「死」と「命」、「不従順」と「従順」、「有罪の判決」と「無罪の判決」、「罪」と「義」。イエスはまさに、アダムがしたあらゆることを取り消すために来られたのです。

ローマ5:15〜17に「賜物」という言葉が4回登場するのも興味深い点です。4回もです。論点は単純で、義認は獲得するものではなく、賜物として与えられるものだと、パウロは強調しています。それは、私たちが受けるに値しないものです。あらゆる贈り物と同様、私たちは手を伸ばしてそれを受け取らなければなりません。そしてこの場合、信仰によってその賜物を自分のものとして主張するのです。

さらなる研究

「多くの人は、自分の心の状態についてだまされている。彼らは、生まれつきの心が何よりも欺瞞的であり、どうしようもなく邪悪であることに気づいていない。人々は自分自身を自らの義で包み、品性の基準に達することで満足している」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻320ページ、英文)。

「唯一の希望、唯一の救いとして、キリストが大いに宣べ伝えられねばならない。信仰による義の教理が伝えられたとき……、それは、喉が渇いた旅人にとっての水のように、多くの人を潤した。私たちの側の功績のゆえではなく、神からの無償の賜物としてキリストの義が私たちに転嫁されるという思想は、貴重な思想に思えた」(同360ページ)。

「『アダムは来るべき者の型である』(ローマ5:14)。アダムもまたキリストの型である。どのようにして型であるのか……。木から取って食べなかったけれども、彼から生まれる人々にとってアダムは、食べることによってもたらされた死の原因となった。そのように、キリストは、彼から出る人々にとって、たとえ彼らがなにも義を行わなくとも、義を備えてくださり、十字架によってわれわれすべての者に義を与えてくださったのである。したがってアダムの違反の類似はわれわれの内にある。われわれは、同じ罪を犯したかのごとくに、死ぬからである。また、キリストの義の類似はわれわれの内にある。われわれは、同じく義を行ったかのごとくに、生きるからである」(『ルター著作集』第二集、第9巻(ローマ書講義・下)、徳善義和訳、聖文舎、1992年、73ページ)

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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