罪に勝つ【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#7

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もし行いが私たちを救えないのなら、なぜ行いのことで頭を悩ませるのでしょうか。なぜ罪を犯し続けてはいけないのでしょうか。

ローマ6章は、このような重要な疑問に対するパウロの答えです。パウロはここで、通常「聖化」として理解されていること、つまり私たちが罪に勝ち、キリストの御品性を一層反映する過程を扱っています。「聖なる生活(=聖化)」という言葉は、ローマ書の中でわずか2回しか登場しません。それはローマ6:19、22では、ギリシア語の「ハギアスモス」として登場し、この言葉が「聖化」を意味します。わずか2回しか登場しないということは、通常「聖化」という言葉によって理解されていることについて、パウロが語るものを持っていないことを意味するのでしょうか。まったくそうではありません。

聖書において、「聖とする」ことは(通常、神に)「ささげる」ことを意味します。それゆえ、「聖とする」ことは、しばしば完了した過去の行為としてあらわされます。「聖なる者とされたすべての人々」(使徒20:32)というのは、その一例です。このような意味で、聖とされた人たちは、神にささげられた人たちなのです。

しかし、「聖とする」という言葉の、聖書のこのような使い方は、聖化という重要な教理や、聖化が生涯の働きであるという事実を少しも否定しません。聖書はこの教理を強く支持していますが、ほとんどの場合、それをあらわすのに別の言葉を用いているのです。

私たちは今回、信仰による救いのもう一つの側面、誤解されやすい側面——イエスによって救われた者は、その生活において罪に勝利できるという約束——に目を向けます。

罪が増したところ

パウロはローマ5:20において、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と力強い発言をしています。彼が言いたのは、どれほど多くの罪があろうと、また罪の結果がどれほどひどかろうと、神の恵みはそれに対処するのに十分であるということです。それは私たち1人ひとりに、とりわけ、私たちの罪が赦され難いほど大きいと思い込みたくなるときに、なんという希望を与えてくれることでしょう。パウロは次のローマ5:21において、罪は死をもたらしたけれども、神の恵みはイエスを通して死を打ち倒し、私たちに永遠の命を与えることができると示しています。

ローマ6:1〜11を読んでください。義とされた人はなぜ罪を犯すべきではないのかということに関して、パウロはローマ6章において興味深い論法を取ります。パウロは最初に、私たちは罪に対して死んだのだから罪を犯すべきではないと言い、それから自分の意味するところを説明するのです。

バプテスマの水に浸かることは、埋葬をあらわします。何が葬られたのでしょうか。罪の「古い人」、つまり罪を犯す体、罪に支配された体です。結果として、私たちがもはや罪に仕えないように、この「罪の体」は滅ぼされます。ローマ6章において、罪は奴隷を支配する主人として擬人化されています。罪に仕えていた「罪の体」がひとたび滅ぼされるなら、それに対する罪の支配権も終わります。水の墓から復活する人は、もはや罪に仕えない新しい人としてあらわれます。その人は、今や新しい命に生きるのです。

キリストが死なれたのは、ただ一度であり、キリストは永遠に生きておられます。それゆえ、バプテスマを受けたクリスチャンは、ただ一度罪に死に、罪の支配の下に二度と入るべきではありません。言うまでもなく、バプテスマを受けたクリスチャンならだれもが知っているように、私たちがひとたび水から出たなら、罪は自動的に私たちの生活の中から消え去るわけではありません。罪に支配されないということは、罪と格闘する必要がないということと同じではないのです。

「使徒の言葉の意味は明瞭になる。こういう提題になる。1.罪に死ぬこと。2.神に生きること。……生涯の終りまでわれわれは罪の中にある。……ガリラヤの信徒への手紙第5章17節には、『霊は肉に逆らって欲し、肉は霊に逆らって欲する。互いに逆らい合って、あなたが欲することをさせないようにする』とある。……このように、すべての使徒と聖人たちが、からだが灰に帰り、別のからだが肉の欲と罪なしに挙げられる[復活]までは、罪と肉の欲がわれわれの内に残り続けると告白している」(『ルター著作集』第二集、第9巻(ローマ書講義・下)、徳善義和訳、聖文舎、1992年、78、793ページ)

罪が支配するとき

ローマ6:12を読んでください。「支配」という言葉は、ここでは「罪」が王として表現されていることを示しています。「支配」と訳されているギリシア語の文字どおりの意味は、「王になる」「王として機能する」ということです。罪は、死ぬべき私たちの体の王に進んでなろうとし、私たちの行動に命令を下します。

「罪に支配させ……てはなりません」とパウロが言うとき、それは、義とされた人は罪がその人の生活の中で王となるのを防ぐ選択ができることを意味します。意志の働きが関わるのは、ここにおいてです。

「ただ必要なのは、ほんとうの意志の力とは何であるかを知ることです。意志とは、人の性質を支配している力、決断力、選択の力です。すべては、ただ意志の正しい行動にかかっているのです。神は人間に選択の力をお与えになりました。つまり、人がそれを用いるようにお与えになったのです。私たちは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神にささげたりすることはできません。けれども、神に仕えようと選ぶことはできます。意志は神にささげることができます。そうすれば、神は私たちのうちにお働きになって、神の喜ばれるように望み、行うようにしてくださいます。こうして性質はまったくキリストの霊に支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまた彼と一致するようになります」(『キリストへの道』最新文庫版66ページ)。

ローマ6:12で「欲望」と訳されている言葉は、「強い欲求」を意味します。この欲望は、良いものに対する強い欲求かもしれませんし、悪いものに対する欲求かもしれません。しかし罪が支配するとき、罪は私たちに悪いものを強く求めさせます。その欲望は、たとえ私たちが自力で立ち向かっても、抵抗できないほど強くなるのです。罪は、決して満足することなく、復活し続ける残酷な暴君になりえます。私たちがこの容赦なき主人を倒すことができるのは、信仰により、勝利の約束を自分のものとして主張することによってのみです。

ローマ6:12の冒頭にある「従って」という言葉は大切です。その前で言われていること、具体的には10節と11節に結びつけるからです。バプテスマを受けた人は、「神に対して」生きています。つまり、神がその人の新しい人生の中心です。その人は神に仕え、神を喜ばせることを行い、従って、同時に罪に仕えることはできません。その人は、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」のです。

律法の下ではなく、恵みの下に

ローマ6:14を読んでください。この聖句は、ローマ書の中で極めて重要な言葉の一つです。またこれは、だれかが「第七日安息日は廃止された」と私たちアドベンチストに語る際にしばしば引用する聖句です。

しかし、それは明らかに、この聖句が意味することではありません。先に問うたように、道徳律が廃されたのなら、どうして罪が依然として現実のものでありうるのでしょうか。なぜなら、罪がどういうものであるかを定義するのは、まさに道徳律だからです。あなたがローマ書の、あるいは6章だけでも、これまでの箇所をすべて読んでいるなら、罪の現実に関するこのような議論の最中に、パウロが「道徳律(罪を定義する十戒)は廃されたのだ」と突然言い出すのは理解しがたいでしょう。それでは、つじつまが合いません。

パウロがローマの信徒に語っているのは、「律法の下」(つまり、人間が作った規則や規定を用いて当時実施されていたユダヤの制度の下)で生きている人は、罪に支配されるだろうということです。それとは対照的に、恵みの下に生きている人は罪に勝利します。なぜなら、律法がその人の心に書きつけられており、神の霊が彼らの歩みを導くことを任されているからです。イエスをメシアとして受け入れ、彼によって義とされ、彼の死にあずかるためにバプテスマを受け、「古い人」を滅ぼし、新しい命に生きるために立ち上がること——これらは、私たちの生活の中から罪を退けます。思い出してください。ローマ6:14が登場する全体的背景は、それ——罪に対する勝利の約束——なのです。

私たちは「律法の下」という語句を、あまりにも狭い意味で捉えるべきではありません。「恵みの下」に生きているはずだが神の律法を破る人は、恵みではなく、有罪判決を見いだすでしょう。「恵みの下」とは、イエスによってあらわされた神の恵みを通して、律法が避けがたく罪人にもたらす有罪判決が取り除かれたことを意味します。それゆえ、私たちは律法によってもたらされる死の宣告から今や自由になり、「新しい命」、つまり自己に死に、もはや罪の奴隷ではないという事実によってあらわされ、特徴づけられる命を生きているのです。

罪か従順か

ローマ6:16を読んでください。パウロは再び、信仰による新しい生活は罪を犯す自由を認めないという点に戻ります。信仰生活は罪に対する勝利を可能にします。もっとはっきり言えば、信仰によってのみ、私たちは約束されている勝利を得ることができるのです。

臣民を支配する王として罪を擬人化したパウロは、今や、奴隷に服従を要求する主人という罪の比喩に戻ります。人は主人を選ぶことができると、パウロは指摘します。人は、死をもたらす罪に仕えることもできれば、永遠の命をもたらす義に仕えることもできるのです。パウロは私たちに、中立の立場も妥協の余地も残しません。どちらか一方です。なぜなら、私たちは最終的に永遠の命か永遠の死に直面するからです。

問1

ローマ6:17を読んでください。パウロは前の節で述べたことを、いかにここで詳しく説明していますか。

とても興味深いことに、従順と正しい教理とがどのように結びつけられているかに注目してください。「教理」に相当するギリシア語は、ここでは「教え」を意味します。ローマのクリスチャンたちは、彼らが現在従っているキリスト教信仰の原則をかつて教えられました。それゆえパウロにとって、正しい教理、正しい教えは、それに「心から従(った)」とき、ローマの信徒が「義に仕える」(ロマ6:18)助けとなったのでした。私たちは時折、愛を示してさえいれば教理は重要ではないといった話を耳にします。それは、単純でないことを単純化しすぎた表現です。先の課でも触れたように、パウロは、ガラテヤの教会が屈した偽の教理をとても憂慮していました。ですから、正しい教えの重要性を何らかの形で過小評価する言葉に、私たちは注意する必要があります。

罪からの自由

これまでにローマ6章で学んだことを心にとめつつ、ローマ6:19〜23を読んでください。ここでのパウロの言葉は、彼が人間の堕落した性質を十分に理解していたことを示しています。パウロは「あなたがたの肉の弱さ」について語っています。彼は、堕落した人間の性質が自己裁量に任されるとき、どのようなことをしでかすかを知っているのです。それゆえ、パウロは再び選択の力——私たちが聖なる生活を送れるようにしてくださる新しい主人イエスに、私たち自身と私たちの弱い肉を明け渡すことを選ぶ力——に訴えます。

ローマ6:23は、罪、つまり、律法を犯すことに対する報いが死であることを示すためにしばしば引用されます。確かに、罪の報いは死です。しかし、死を罪の報いとみなすことに加えて、私たちは罪を、パウロがローマ6章で説明しているように、奴隷を支配する主人、奴隷をだまして死という報酬を支払う主人だと考えるべきです。

パウロが2人の主人の比喩を展開する中で、一方の主人に仕えることはもう一方の主人から自由であることを意味するという事実に注意を促している点にも注目してください。ここでも私たちは明確な選択を目にします。どちらか一方です。中立の立場はありません。同時に、だれもが知っているとおり、罪の支配から自由であるというのは、罪がないこと、つまり私たちが格闘もせず、時折つまずいたりもしないことを意味するのではありません。そうではなく、罪がどれほど私たちの生活の中に残っていようと、どれほど私たちが罪に勝利する約束を日ごとに主張しなければならないとしても、私たちはもはや罪に支配されていないということなのです。

それゆえ、この箇所(ロマ6:19〜23)は、罪に仕えている者たちへの力強い訴えになります。この暴君は、恥ずべきことをしたことへの報酬として死を支払うだけです。ですから、分別のある人はこのような暴君からの解放を望むはずです。対照的に、義に仕える人たちは、正しく、立派なことをしますが、彼らがそうするのは、自分の救いを獲得しようという考えからではなく、彼らの新しい体験の実(結果)としてなのです。もしそうした人々が救いを獲得するために行動しているとしたら、彼らは、救いとは何か、私たちはなぜイエスを必要とするのかといった福音の肝心な部分を理解していないことになります。

さらなる研究

「イエスは罪に同意されなかった。1つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。イエスは聖霊の内住によって戦いに備えられた。しかもイエスはわれわれを神のご性質にあずかる者とするためにおいでになったのである。われわれが信仰によってキリストにつながっているかぎり、罪はわれらの上に権をとることはできない。神はわれわれが品性の完全に到達できるように、われらの中にある信仰の手を求め、それをみちびいてキリストの神性をしっかり把握させてくださるのである」(『希望への光』725ページ、『各時代の希望』上巻135ページ)。

「バプテスマにおいて、私たちは、サタンとその代理人たちとのつながりをすべて断ち、心も思いも魂も神の国を広げる働きにささげることを誓った。……父と子と聖霊は、聖別された人間の手段と協力することを誓っておられる」(エレン・G・ホワイト注釈『SDA聖書注解』第6巻1075ページ、英文)。

「信仰と行いの伴わない口先だけのキリスト教は、何の役にも立ちません。だれも二人の主人に仕えることはできないのです。悪い主人の子どもたちは、彼らの主人の僕です。その主人に対して従うべく、彼らは自分自身を委ねます。彼らはその主人の僕であり、悪魔とそのすべての業を捨てない限り、神の僕にはなりえません。たとえ彼らが、このような娯楽に害はないとしばしば繰り返し述べたとしても、サタンの僕たちが没頭している楽しみや娯楽に加わることが、天の王に仕える僕たちにとって無害ではありえないのです。神は、神の民を不信心な者から引き離し、彼らをご自身の清い民とするために、清く聖なる真理を啓示なさいました」(『教会への証』第1巻分冊②199ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

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