ローマ7章の「わたし」とはだれか【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#8

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ローマ7章よりも論争を巻き起こしてきた章は、聖書の中にわずかしかありません。関連する問題について『SDA聖書注解』は次のように記しています。「その〔ローマ7:14〜25の〕意味は、ローマ書全体の中で最も議論されてきたことの一つである。中心的な疑問は、このような激しい道徳的葛藤が自伝的なものかどうかについてであり、もしそうであるとした場合、この箇所が述べているのは、パウロの回心前の体験か、それとも回心後の体験かというものであった。パウロの言葉の最も単純な意味からすると、彼が自分の個人的葛藤について語っていることは明らかなように思える(ロマ7:7〜11参照)〔『キリストへの道』(最新文庫版)22、23ページ、『教会への証』第3巻475ページ、英文〕。しかし彼が、神の聖なる律法の霊的要求を突きつけられ、それに気づいたすべての人が多かれ少なかれ体験する葛藤を描いていることも確かなのである」(第6巻553ページ、英文)。

ローマ7章は、パウロの回心前の体験か、回心後の体験かという点について、聖書の研究者たちの意見は分かれています。しかしどのような立場を取ろうと、重要なのは、イエスの義が私たちを覆うということ、そして彼の義によって私たちは神の前に完全な者になるということであり、その神が、私たちを聖なる者とし、罪に対する勝利を与え、私たちを「御子の姿に似たものに(する)」(ロマ8:29)と約束しておられるのです。これらが、「永遠の福音」を「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に」(黙14:6)伝えようとする際に、私たちが知り、体験すべき重要なことです。

律法に死ぬ

ローマ7:1〜6におけるパウロの説明はいささか複雑ですが、この箇所を注意深く分析すれば、彼の論理的思考をたどる助けになるでしょう。

この手紙を見ると、パウロはシナイで制定された礼拝制度を扱っていました。それが、「律法」という言葉で彼がしばしば意味するものです。ユダヤ人は、神から与えられたこの制度がメシアの到来とともに終わるという事実を理解するのに苦労しました。これこそが、パウロが対応していたことです——ユダヤ人信徒は、彼らの生活の重要な部分であったものを捨てる準備がまだできていませんでした。

要約すると、パウロの説明は次のとおりです——ある女がある男と結婚します。すると律法は、夫が生きている限り、妻を夫に結びつけます。夫の生存中、妻はほかの男と一緒になることはできません。しかし夫が死ねば、妻は、夫に結びつけられていた律法から自由になれるのです(ロマ7:3)。

問1

パウロは、婚姻法による説明をいかにユダヤの制度に適用していますか(ロマ7:4、5)。

夫が死ねば、女(妻)が夫の律法から解放されるように、イエス・キリストによって、肉に従う古い命が死ねば、ユダヤ人は(メシアがその型を成就なさるまで順守することが期待されていた)律法から解放されます。

今やユダヤ人は自由に「再婚」できました。彼らは、復活されたメシアと結婚し、神に対して実を結ぶように招かれたのです。この実例は、今や古い制度を自由に捨てることのできるユダヤ人を説得するために、パウロが用いたもう一つの工夫でした。

ここでもまた、十戒の順守についてパウロや聖書が述べているすべてのことを考慮するなら、パウロがこのユダヤ人信徒たちに、十戒はもはや拘束力がないと言っていたのだと主張することは、理にかないません。先の聖句を用いて、道徳律は廃止されたと主張しようとする人たちは、本当はそのような主張をしたいのではありません。彼らが本当に言いたいのは、(ほかの律法ではなく)第七日安息日の律法だけが廃止されたということなのです。第四条が廃止された、あるいは日曜日に取って代わられたとローマ7:4、5が教えていると解釈することは、まったく意図せぬ意味をそれらの聖句に与えることになります。

罪と律法

もしパウロがシナイでの律法制度全体について語っているのだとすれば、ローマ7:7はどうでしょうか。パウロはその節で、十戒の一つの戒めに特に言及しています。そのことは、パウロは十戒の廃止について語っていたのではないという、昨日取り上げた立場を否定することにならないでしょうか。答えは、「いいえ」です。ここでもまた、パウロにとって「律法」という言葉は、シナイで導入された制度全体であることを、私たちは心にとめておく必要があります。そこには道徳律も含まれますが、それだけに限りません。従って、パウロは自分の主張をするために、十戒からだけでなく、ユダヤの制度全体のどの部分からも引用することができました。しかし、この制度がキリストの死で終わったとき、そこには、シナイ以前から存在し、カルバリー以降も存在している道徳律は含まれていませんでした。

ローマ7:8〜11を読んでください。神はユダヤ人に御自分を啓示し、道徳、民事、礼典、健康といった事柄における善悪を語られました。彼はまた、さまざまな律法違反に対する罰も説明なさいました。神の啓示された御旨を犯すことが、ここでは罪と定義されています。それゆえパウロは、「律法」によって事実を知らされなければ、それがむさぼりの罪であるかどうかわからなかったであろうと説明するのです。罪は、神の啓示された御旨を犯すことであり、啓示された御旨がわからない所では、罪に気づきません。その啓示された御旨が1人の人に知らされるとき、その人は、自分が罪人であり、有罪判決と死の下にいることを認識するようになります。パウロは、ここでの論法やこの箇所全体を通じて、律法を尊ぶユダヤ人がキリストを律法の成就とみなすようになるための橋を架けようとしているのです。律法は必要だったが、その機能は限られていたと、パウロは指摘します。律法は救いの必要を示すように意図されていたので、救いを得る手段となるように意図されていたのではありませんでした。

「使徒パウロは、自分自身の体験と関連づけながら、回心においてなされるその働きについて重要な真理を述べている。『わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました』と、彼は言う。パウロは、罪に定められていると感じていなかったのである。『しかし、掟が登場したとき』、つまり神の律法が良心に強く語りかけたとき、『罪が生き返って、わたしは死にました』。こうして、パウロは自分自身を罪人、神の律法によって有罪判決を受けた者とみなしたのである。死んだのは律法でなく、パウロであったことに注意を払いなさい」(エレン・G・ホワイト注釈『SDA聖書注解』第6巻1076ページ、英文)。

律法は聖なるもの

ローマ7:12を読んでください。ユダヤ人は律法を尊んでいたので、パウロは可能な限りの方法でそれを称賛します。律法は、その本来の機能について言えば、もともと意図されていないこと、つまり罪から私たちを救うことはできません。そのためには、イエスが必要です。なぜなら律法は(ユダヤの制度全体であれ、道徳法であれ)、救いをもたらすことはできないからです。イエスと、信仰によって私たちに与えられる彼の義だけが可能なのです。

パウロはローマ7:13において、可能な限り一番良い意味で「律法」を提示しています。彼は自分のひどく罪深い状態のゆえに、つまり「あらゆる種類のむさぼり」(ロマ7:8)を働くことのゆえに、律法ではなく、罪を非難することを選びます。律法は行為に関する神の基準であるがゆえに、良いものです。しかし罪人であるパウロは、律法によって罪に定められるのです。

ローマ7:14、15を読んでください。パウロは自分を「肉の人」と呼んでいます。それゆえ、パウロはイエス・キリストを必要としました。キリストだけが有罪宣告を取り消すことができ(ロマ8:1)、キリストだけが罪に対する隷属からパウロを解放することがおできになったからです。

パウロは自分のことを、「罪に売り渡されてい(る)」と評しています。彼は罪の奴隷であり、自由がありません。彼は、自分がしたいと望むことをすることができません。パウロは、善い律法が「しなさい」と彼に告げることをしようとしますが、罪がそうさせないのです。

パウロはこのような説明によって、メシアの必要性をユダヤ人に示そうとしていました。彼は、勝利が恵みの下でのみ可能であることをすでに指摘してありました(ロマ6:14)。その同じ考えが、ローマ7章で再度強調されているのです。「律法」の下で生きるというのは、罪という無慈悲な主人に隷属することを意味するのです。

ローマ7章の「わたし」

問2

ローマ7:16、17を読んでください。どのような葛藤がここで述べられていますか。

聖霊は律法を鏡として用い、人が律法の要求を満たせないことによって神を不愉快にしていると気づかせてくださいます。罪人はそれらの要求を満たそうと努力することで、律法が善いものだと同意していることを示すのです。

ローマ7:18〜20を読んでください。キリストの必要性を印象づけるために、聖霊はしばしば「古い契約」型の体験を通して人を導かれます。エレン・G・ホワイトは、イスラエルの体験を次のように記しています。「人々は、自分たちの心の罪深さと、キリストの助けがなくては神の律法を守ることができないことを自覚しなかった。そして、彼らは直ちに神と契約を結んでしまった。彼らは、自分たちの義を確立することができると感じて、『わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います』と宣言した(出エ24:7)。……その後わずか数週間しかたたないうちに、彼らは神との契約を破り、偶像にひざまずいて礼拝したのである。彼らは、契約を破ってしまったために、神の恵みを受けることは望めなくなった。そして、今、自分たちの罪深さと、ゆるしの必要を認めた彼らは、アブラハムの契約にあらわされ……た救い主の必要を感じるようになった」(『希望への光』190ページ、『人類のあけぼの』上巻441、442ページ)。

残念なことに、キリストへの献身を日々新たにしていないために、結果として多くのクリスチャンが、どれほど認めたがらないとしても、罪に仕えています。多くのクリスチャンは、自分たちが実際には聖化の通常の経験をしているのであり、まだまだ道のりは遠いと自己弁護をします。それゆえ、彼らは気づいている罪をキリストのもとへ携えて行き、それに勝利させてくださいと求める代わりに、正しいことをするのは不可能だと主張していると彼らが考えるローマ7章を盾に取るのです。確かにこの章は、人が罪に隷属しているなら善を行うことはできないと述べていますが、イエス・キリストによって勝利は可能なのです。

死から救われて

問3

ローマ7:21〜23を読んでください。クリスチャンであるにもかかわらず、あなたはこれと同じ葛藤をあなた自身の生活の中で、いかに体験してきましたか。

この箇所で、パウロは自分の五体の内にある法則と罪の法則を同一視しています。「肉では罪の法則に仕えている」(ロマ7:25)と、パウロは言います。しかし、罪に仕えることやその法則に仕えることは、死を意味します(ロマ7:10、11、13参照)。それゆえ、罪に従って機能しているその体は、「死に定められたこの体」と適切に呼ばれうるのです。

心の法則は、神の律法、つまり神の御旨の啓示です。聖霊の有罪判決を受けて、パウロはこの律法に同意しました。心はそれを守る決心をしましたが、そうしようと努めてもできませんでした。なぜなら、体は罪を犯したいと望むからです。同じような葛藤を味わったことのない人がいるでしょうか。心の中は、したいことがわかっていても、体は何か別のことを強く要求するのです。

ローマ7:24、25を読んでください。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という表現で輝かしい山場を迎えたあとに、なぜパウロは、彼が解放された魂の葛藤に再び言及するのだろうかと、ある人たちは不思議に思ってきました。この感謝の表現を挿入的な叫びと理解する人たちもいます。そのような叫びは、「だれが救ってくれるでしょうか」という嘆きの声に続いて自然に出てくるものだと、彼らは信じているのです。それが輝かしい解放に関する詳しい議論(ロマ8章)に先立つものであると、彼らは考えます。パウロはこれまでに述べたことを要約し、罪の力との葛藤をもう一度告白しているのです。

パウロの「わたし自身」という言葉は、「キリストを離れて、自分だけで」という意味だと言う人たちもいます。ローマ7:24、25がいかに理解されようと、一つの点だけははっきりさせておくべきでしょう。私たちは、キリストなしに自分たちだけにされると、罪に対して無力だということです。キリストがともにおられるので、私たちは彼にあって新しい命にあずかります。この命にあるとき——絶えず自己があらわれるとしても——、求めるなら、勝利の約束は私たちのものとなります。だれもあなたの代わりに呼吸をしたり、咳をしたり、くしゃみをしたりできないように、だれもあなたの代わりにキリストに屈服することを選択することはできません。その選択ができるのは、あなただけです。イエスにあって私たちに約束されている勝利をあなた自身のために得る方法は、ほかにはありません。

さらなる研究

「律法を犯すことの中には、安全も平穏も義認もない。人は罪を犯し続けながら、神の前に潔白でいることも、キリストの功績によって神と平和な関係にいることもできない」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻213ページ、英文)。

「パウロは、罪を赦す救い主の大いなる栄光が、ユダヤの制度全体に重要性をもたらしたことを兄弟たちが理解するようにと願った。パウロはまた、キリストがこの世に来て、人間の犠牲として死なれたとき、型が実体に出会ったことを彼らが理解するようにとも願った。贖罪の献げ物としてキリストが十字架で死なれたあと、礼典律はもはや効力を持たなくなった。しかし、それは道徳律と関連しており、輝かしいものであった。その全体が神の印を帯びており、神の聖、正しさ、義をあらわしていた。もし廃止されるべきその時代の儀式の務めが輝かしいものであったとしたら、キリストがおいでになり、信じるすべての者に、命を与える彼の霊、清める霊を授けられたときの状態は、はるかに輝かしいものであるに違いない」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1095ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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