罪に定められることはない【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#9

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ローマ8章は、7章に対するパウロの答えです。ローマ7章においてパウロは、苛立ち、失敗、罪に定められること(有罪宣告)について述べています。8章では、罪に定められることは姿を消し、イエス・キリストによる自由と勝利に置き換わっています。

パウロはローマ7章の中で、もしあなたがイエス・キリストを受け入れないなら、その章で触れた悲惨な体験があなたのものになるだろうと言っていました。あなたは罪に対して奴隷となり、あなたが選んだことをすることができません。8章では、キリスト・イエスは罪からの解放と、(あなたがしたいと思うのに、あなたの肉が許さない)良いことをなす自由をあなたに与えてくださると、彼は言っています。

パウロは話を続け、この自由はかけがえのない価によって買い取られたことを説明します。神の御子なるキリストは、人性をお取りになりました。キリストが私たちに共感し、私たちの完全な模範となり、私たちに代わって死ぬ身代わりになりうる唯一の方法が、それだったのです。彼は、「罪深い肉と同じ姿で」(ロマ8:3)来られました。その結果、律法の要求が私たちの内に満たされるのです(同8:4)。言い換えれば、キリストは、彼を信じる者たちが罪に勝つ(とともに、律法の肯定的な要求を満たす)ことができるようにしてくださったということです。律法を守ることは救いの手段ではありませんでしたし、その手段になりうるものでもありません。それがパウロやルターのメッセージであり、また私たちのメッセージともなるべきことです。

キリスト・イエスに結ばれている

ローマ8:1を読んでください。「キリスト・イエスに結ばれている」という言い回しは、パウロの書簡の中でよく使われるものです。人がキリスト・イエスに「結ばれて」いるというのは、その人がキリストを自分の救い主として受け入れていることを意味します。その人は暗黙のうちにキリストを信頼し、彼の生き方を自分自身の生き方にしようと決心したのです。その結果が、キリストとの密接な個人的結びつきです。

「キリスト・イエスに結ばれている」という語句は、「肉の支配下にある」という語句と対比を成しています。それはまた、7章で詳しく述べられている体験とも対比を成しており、そこでは、キリストに屈服する前の、罪に定められた状態の人が「肉」と(その人は罪に対して奴隷であるという意味で)表現されています(ロマ7:11、13、24)。その人は「罪の法則」(同7:23、25)に仕えており、惨めなひどい状態の中にいるのです(同7:24)。

しかしそうは言うものの、その人がイエスに屈服すると、神に対するその人の立場がたちまち変わります。これまで律法違反者として罪に定められていたその人が、今や神の目に完全な者になる、あたかも罪を犯したことがない者のようになるのです。なぜなら、イエス・キリストの義がその人を完全に覆うからです。もはや罪に定められることがないのは、その人が完璧で、罪がなく、永遠の命に値するからではなく、イエスの完全な人生の記録がその人の記録に代わって有効になるからです。それゆえに、罪に定められることがありません。しかし、良い知らせはそこで終わらないのです。

ローマ8:2を読んでください。「命をもたらす霊の法則」とは、人類救済のためのキリストの御計画をここでは意味します。それは、行き着くところが死である罪の法則として7章で説明された「罪と死の法則」とは対照的です。キリストの法則は、命と自由をもたらすからです。

律法がなしえないこと

どれほど善いものであったとしても、礼典律であれ、道徳律であれ、その両方であれ、「律法」は、私たちが最も必要としているものを提供することができません。また、救いの手段、罪がもたらす有罪宣告と死から私たちを救う手段を提供することもできません。それゆえに、私たちはイエスを必要とするのです。

ローマ8:3、4を読んでください。神は、「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送(る)」ことで救済策を提供し、「その肉において罪を罪として処断されたのです」。キリストの受肉は、救済計画において重要な手段でした。キリストの十字架を称賛することはふさわしいことですが、救済計画の完遂において、キリストが「罪深い肉と同じ姿で」送られた生涯も極めて重要でした。

神がキリストをこの世に送ることで成し遂げられた結果として、今や私たちは律法の要求を満たすこと、つまり律法が要求する正しいことをなせるのです。これは「律法の下」(ロマ6:14)では不可能でしたが、「キリストにおいて」今や可能になっています。

しかし、律法が要求することを満たすだけでは、救いを得るのに十分なほど律法を順守していることにはならないということを、覚えておく必要があります。それは、選択肢ではありませんし、そうであったこともありません。クリスチャン生活は単純に、神が私たちに実現させてくださる生活を送るということです。それは服従の生活、私たちが「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」(ガラ5:24)生活、私たちがキリストの御品性を反映する生活を意味します。

ローマ8:4における「歩む」という言葉は、「行動する」ことをあらわす慣用表現です。「肉」という言葉は、罪に定められる前であれ、あとであれ、生まれ変わっていない人をここでは意味します。肉に従って歩むとは、利己的な欲望に支配されていることです。

それとは対照的に、霊に従って歩むとは、律法の要求を満たすことです。聖霊の助けによってのみ、私たちはこの要求を満たすことができます。キリスト・イエスの内にのみ、律法が要求することをなす自由があります。キリストから離れて、そのような自由はありません。罪に隷属する人は、その人がなそうとする良いことがなせないことに気づくのです(ロマ7:15、18参照)。

肉か霊か

ローマ8:5、6を読んでください。ここで「考える」と訳されている言葉は、「熱望してやまない」という意味です。一方のグループの人たちは、自然な欲求を満たすことを熱望してやまず、もう一方のグループは、霊のもの、霊の命令に従うことを熱望してやみません。思いが行動を決定するので、この二つのグループは異なる生き方、行動の仕方をします。

問1

肉の思いは、どのようなことをすることができませんか(ロマ8:7、8)。

肉の欲望を満たそうと熱望することは、実のところ、神に敵対する状態にあることです。思いがそのように定まっている人は、神の御心を行うことに関心がありません。その人は神に反旗すら翻し、公然と神の律法を破っているかもしれません。

パウロは、もし私たちがキリストから離れるなら、神の律法は守れないことを特に強調したいと願っています。彼は繰り返しこの主題に戻ります。人はどれほど努力しようと、キリストから離れては律法を守れないという主題です。

パウロの特別な目的は、ユダヤ人が「トーラー(律法)」以上のものを必要としていることを彼らに納得させることでした。彼らは神の啓示を持っていたにもかかわらず、自らの行為によって、異邦人と同様に罪深いことを示してきました(ロマ2章)。これらすべてのことの教訓は、ユダヤ人がメシアを必要としているということでした。メシアなしでは、ユダヤ人は罪の奴隷となり、その支配から逃れられないのです。

旧約聖書の中で神から与えられたものが、なぜもはや救いには十分でないのかを理解できないユダヤ人に対するパウロの答えがこれでした。パウロは、彼らがこれまでしてきたことはすべて良かったと認めました。しかし彼らは、すでに来られたメシアを受け入れる必要もあったのです。

あなたの内におられるキリスト

パウロはこの主題を続けて扱い、人が生き方に関して直面する二つの可能性、すなわち霊(つまり、私たちに約束された聖霊)に従った生き方と、罪深い、肉の性質に従った生き方とを対比しています。一つは永遠の命をもたらし、もう一つは永遠の死をもたらします。中立の立場はありません。イエスが、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタ12:30)とおっしゃったとおりです。これ以上わかりやすくすること、つまり白黒を一層はっきりさせることは難しいでしょう。

ローマ8:9〜14を読んでください。「肉の支配下にある」命と「霊の支配下にある」命が対比されています。「霊の支配下にある」命は、神の霊、つまり聖霊に支配されています。聖霊はこの章において「キリストの霊」と呼ばれていますが、それはたぶん、聖霊がキリストの代理人であり、聖霊を通してキリストが信じる者の内に宿られるからでしょう(ロマ8:9、10)。

これらの聖句の中で、パウロはローマ6:1〜11で用いた比喩に立ち戻っています。「罪の体」、つまり罪に仕える体は、比喩的にバプテスマにおいて滅びます。「古い自分(は)キリストと共に十字架につけられた」(ロマ6:6)のです。しかしバプテスマと同様、葬りだけでなく、復活もあります。ですから、バプテスマを受けた人は、新しい命に生きるために復活します。これは、私たち自身の古い自己を日々、一瞬一瞬殺すこと(私たちがなすべき選択)を意味するのです。神は人間の自由を侵害したりなさいません。罪の古い人が滅んだあとでさえ、罪を犯すことはありえます。パウロはコロサイの信徒に、「だから、地上的なもの……を捨て去りなさい」(コロ3:5)と書きました。

それゆえ、回心のあとにも、依然として罪との葛藤があるでしょう。違いは、聖霊を内に宿している人には、勝利するための神の力があるという点です。さらに、その人は罪という奴隷の主人から奇跡的に救われたので、再び罪に仕える義務がありません。

神の子とする霊

ローマ8:15を読んでください。新しい関係は、恐れからの解放として表現されています。奴隷は捕らわれの身です。彼は常に主人を恐れる状態の中で生きており、長年仕えても何も得られない立場にあります。

イエス・キリストを受け入れる者は、そうではありません。第一に、その人は自発的に奉仕をします。第二に、その人は恐れることなく奉仕をします。「完全な愛は恐れを締め出……す」(Iヨハ4:18)からです。第三に、その人は神の子とされるので、計り知れない価値を持つ財産の相続人になります。

「奴隷の霊は、自分の力で律法の要求を満たそうと努力することを通して、律法の宗教に従って生きようとすることから生じる。私たちに望みがあるのは、私たちがアブラハムの契約、つまりキリスト・イエスへの信仰による恵みの契約の下に入るときだけである」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1077ページ、英文)。

問2

神が私たちを神の子として受け入れてくださったことの確証は、何によって与えられますか(ロマ8:16)。

私たちが受け入れられたことを裏づけるのは、聖霊の内的あかしです。単に感覚だけで判断することは安全ではありませんが、御言葉の光に従ってきた人たちは、理解できる範囲で、自分たちが神の子として受け入れられたことを裏づける内的な確証の声を聞くでしょう。

確かに、ローマ8:17は、私たちが相続人であると述べています。つまり、私たちは神の家族の一員であり、相続人、子どもとして、父なる神からすばらしい相続財産を受け取るのです。私たちはそれを獲得するのではありません。それは、神における私たちの新しい立場、神の恵みによって認められた立場のおかげで与えられるのであり、その立場は、私たちに代わってイエスが死んでくださったことによって提供されたものです。

さらなる研究

「救済計画は、御国が来るまでは、信じる者たちに、苦しみや試練のない人生を提供することはない。それどころか、キリストが歩まれた自己否定と不名誉という同じ道を行くようにと信じる者たちに求める。……キリストの御品性がキリストの民の中に再生され、あらわれるのは、このような試練や迫害を通してである。……キリストの苦しみを共有することで、天国の栄光を分かち合うための教育、訓練、準備が私たちになされるのである」(『SDA聖書注解』第6巻568、569ページ、英文)。

「神の玉座からつり降ろされた鎖は、どん底に達するほど十分に長い。キリストは、最も罪深い者も堕落の穴から引き上げ、彼らが神の子らとして、つまりキリストとともに朽ちぬ財産を相続する者として認められる場所に彼らを置くことがおできになる」(『教会への証』第7巻229ページ、英文)。

「全天の栄誉を受けておられた方がこの世に来られたのは、人性を取って人類の家長の地位に立ち、堕落した天使や堕落したことのない諸世界の住人たちに、すべての人が、与えられた神の助けによって神の命令に従う道を歩めることをあかしするためであった。……私たちの身代金は、キリストによって支払われた。だれもサタンの奴隷にされる必要はない。キリストは、全能の助け主として私たちの前に立っておられる」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻309ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

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