この記事のテーマ
ここにもまた、民数記に流れている同じテーマを見ます。つまり、神の民は神の明らかで力強い導きのもとにあって、なお誤った選択をし、信仰の足りなさを露呈し、はなはだしい不従順に陥っています。神の当初からの望みはイスラエルを約束の地に導くことでしたが、イスラエルのやることなすことは神の計画の実現を困難にするものばかりでした。
今も昔も、神の絶対的な摂理が成就することは疑う余地がありません。神は昔の御自分の契約の民を約束の地に導かれましたが、終わりの時にも私たちのために同じことをしてくださいます。しかし、そのためには神の目的に逆らわないで、神に協力することが肝要です。
今回は、旧約の歴史の中でも最悪の背信の一つであるペオルにおける背信について学びます。それは数千年前の、文化も背景も現代とは全く異なった時代に起こった出来事ですが、そこには原則的霊的共通点があって、やはり約束の地との国境にある神の教会に対して警告を発しています。
誘惑
民数記25:1には、次のように書かれています。「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた」。ここには、事実がありのままに書かれています。
この聖句は、イスラエルがシティムに「滞在していた」と述べています。つまり、彼らはどこにも行かないでそこにいたのでした。彼らは平穏でした。いくつもの戦いに勝利したばかりで、安心していました。彼らはカナン人(民21:1~3)、アモリ人(民21:21~31)、バシャンのオグ王の軍に勝利していました。そして今、ヨルダン川をはさんで、約束の地の国境まで来ていました。
言い換えるなら、いくつかの失敗と挫折の後、万事うまくいっていました。これら軍事的な脅威もすべて取り除いたので、当面は敵から攻撃される危険もありませんでした。それゆえ、のんきに構えていました。
問1
民数記25:1~3を読んでください。この恐ろしい背信は、どのようにして行われましたか。
ヨルダンの岸辺には、性も食物も偶像崇拝もありました。書かれている順序によれば、彼らはまず女と性的な関係を持ちました。こうして、防壁が崩れました。それから、女たちの誘惑によって異教の神々に犠牲をささげ、ひざまずいて、それらを拝むようになりました。
私たちの目からすれば、どうしてこのようなことが起こるのか理解に苦しむところです。彼らは細心の注意を払うべきではなかったのでしょうか。しかも、彼らはこれらの民と接触していました。初めはそれほどでもなかったでしょうが、次第にそれが普通になりました。徐々に、しかし確実に、彼らの警戒心は薄れていきました。そして、気づかないうちに、彼らは食欲と情欲の罠にかかっていました。ひとたびこの罠にかかると、どんなことでもできるようになりました。
私たちは罪の惑わしに負けるようなことはないと考えて、自分自身を欺いています。
背景にあるもの
問2
黙示録2:14と民数記31:16を読んでください。これらの聖句はシティムにおけるイスラエルの行為についてどんなことを明らかにしていますか。それらは、イスラエルが罪に陥った理由を知る上でどんな助けになりますか。
敵は、一つの方法では成功することができなかったので、別の方法を用いてみたら、今度はうまくいきました。原則ははっきりしています。つまり、私たちが信仰と服従にもとづいて行動するうちは、罪と偽り、滅びに至る多くの門は閉ざされているということです。しかしながら、ひとたびなすべきことを怠ると、抑制が効かなくなります。したがって、服従の道に踏み留まることはきわめて重要です。
「バラムの提案によって、モアブの王は、神々をたたえる大祭を催すことにきめた。そして、バラムが、イスラエル人の参加を促すということがひそかに取り決められた。イスラエル人は、彼を神の預言者と見なしていたので、この目的を果たすのはぞうさなかった。大ぜいの民が、彼と共に祭りを見物した。彼らは禁じられた場所に足を踏み入れ、サタンのわなに捕えられた。歌と踊りに浮かされ、異邦の女たちの美しさに魅せられて、彼らは主への忠誠心を捨ててしまった。一緒になって歓楽に身をゆだねるにつれて、酒が感覚をくもらせ、自制心を失わせた。情欲がすべてを支配し、みだらな思いで良心を汚した彼らは、勧められるままに、偶像にひざをかがめた。彼らは異教の祭壇に犠牲をささげ、最も堕落した儀式に参加した。
この害毒が、恐ろしい伝染病のように、イスラエルの宿営に広がるには長時間を要しなかった。戦いにおいて敵を征服したはずの者たちが、異教の女の惑わしに負けてしまった。民は、魂を抜かれてしまったようであった。つかさたちや、おもだった人々が先頭に立って罪を犯した。そして多くの人々が罪を犯したため、背信は全国的なものとなった。『イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがった』(民数記25:3)。モーセがこの悪に気づいたときは、すでに敵の計画は完全に成功し、イスラエル人はペオルの山のみだらな礼拝に参加していたばかりでなく、この異教の儀式がイスラエルの宿営の中でも行われようとしていた」
(『希望への光』236ページ、『人類のあけぼの』下巻66、67ページ)。
罪と刑罰
これらの人たちは罠にはまったわけですが、そのことは彼らの罪の言い訳になりませんでした。もし彼らが初めから主に従っていたなら、もし彼らが神の戒めを守っていたなら、もし彼らが善を行っていたなら、そしてもっと早く誘惑に対処していたなら、このような恐ろしい背信と苦しみは決して起こらなかったはずです。初めのうちは、それほど深入りするつもりはなかったのでしょう。催しに参加するくらいのつもりだったのでしょう。神の預言者バラムの招待だから、悪いことなどないと考えたのでしょう。ところが、手に負えない事態になっていきました。
問3
最終的に恐ろしい結果、想像もしなかった結果をもたらすような罪を犯した人物をほかに聖書からあげてください。
聖書の至るところに、これと同じことが繰り返し起こっているのを見ます。エデンにおけるエバから、エルサレムにおけるユダまで、なすべきことを知っていた人たち、警告を受けていた人たち、大きな光を受けていた人たちが、その光を無視し、自分の行動を正当化し、破壊的な結果をもたらす罪に陥っています。私たちもたぶん、同じような経験をしているのではないでしょうか。神が私たちに御自分に従うように要求されるのは、神が厳格な暴君だからではなく、むしろ神が御自分の子らを愛し、私たちにとって何が最善であるかを知っておられるからです。
問4
民数記25:4、5にあるような強硬策がとられたのはなぜでしょうか。(民25:8、9参照)。この事件からどんな教訓を学ぶことができますか。
同胞を殺さねばならないイスラエル人の苦しみを想像してみてください。各部族は背信に加わった同族の人々を処刑する責任を負ったように思われます。とすれば、それは自分の家族であったかもしれません。しかも、それを白昼に(直訳、「太陽の前で」)やるのですから。それは宿営全体にとって恐るべき経験だったに違いありません。
公然の罪
この時期、イスラエル人の間に見られた混乱と戸惑い、苦しみは想像しがたいものでした。人々が「臨在の幕屋の入り口で嘆いてい」たという民数記25:6の聖句はそのことを暗示しています。おそらく、背信のゆえに、苦しみのゆえに、殺された親族のゆえに泣いていたのでしょう。さらには、災害が宿営を襲ったので、次は自分や家族の番かもしれないと恐れて、泣いていたのかもしれません。彼らが臨在の幕屋にいたということは、彼らが災いを終わらせてくださるように主に嘆願していたということです。
問5
民数記25:6~18を読んでください。この出来事をどのように理解したらよいですか。ここから、どんな教訓を学ぶことができますか。
聖句にははっきりと書かれていませんが、イスラエル人のジムリは女と性的関係を持っていたために、天幕に入ってきたピネハスによって女と共に槍で突き刺されたと読み取ることができます。厳しすぎるように思われるかもしれませんが、その時の状況を考えてみてください。宿営全体が嘆き悲しみ、災害のゆえに主に嘆願しているときに、この男が──大胆かつ公然と罪を犯し──ミディアンの女を宿営に連れてきて、一緒に天幕に入り、彼女と性的関係を持ったのです。その間にも、災害が宿営を襲っているのです!さらに悪いことに、ジムリは一族の中で指導する人物であって、善悪をわきまえるべき立場にありました。彼は完全に欲望のとりこになっていたので、幕屋の前で嘆き悲しむ人々の光景も何ら抑制力とはならなかったのでした。
聖書の至るところに、罪がどのように人の理性を曇らせ、とんでもない不合理なことをさせるかについての実例を見ることができます。カインについて、ダビデとバト・シェバについて、イエスを裏切ったユダについて考えてみてください。聖書が繰り返し罪に関して警告しているのも不思議ではありません。神が私たちの罪をお赦しになることができないからではありません。むしろ、罪を罪として認めることができなくなるほどに、罪が私たちの心をゆがめるからです。
ミディアン人の滅び
ペオルにおける恐ろしい災いがやんだ後も、主は欺きによって御自分の民に多大の苦難をもたらしたミディアン人の問題を解決しておられませんでした。正義がなされようとしていました。このミディアン人は偶像崇拝と、それにともなうあらゆる悪に完全に没頭していました。アモリ人と同様、彼らは「不義の杯を満たして」いました。主は彼らを滅ぼす決定を下されました。
問6
ミディアン人の滅びについて記している民数記31章を読んでください。現代の私たちにとって理解しがたいことは何ですか。
子供を含めてすべての人を殺すということは、確かに理解しがたいことです。イエス・キリストを通して啓示された神についての啓示に信頼し、私たちには理解できないこと、啓示されていないことがあるという事実を受け入れるしかありません。
多くの人たちにとって、特に民数記31:13~18は戸惑う部分です。確かにそうでしょう。しかし、私たちは次の事柄を心にとめる必要があります。これらのミディアンの女たちの多くは、多くの人々を死に至らせた欺きに直接かかわった者たちで、その罪の刑罰を受けていました。しかし、何もしていないと思われる少女や女たちはどうなのでしょうか。
たとえば、主が彼女たちを放っておきなさいと言われたと仮定してください。これらの無力な少女たちは、両親に死なれ、すべての社会的拠り所を失って、独りぼっちになるしかありません。当時の苛酷で危険な世界にあって、彼女たちはどうなるのでしょうか。一方、もしイスラエルの宿営に受け入れられるなら、彼女たちは放置されることからくるあらゆる危険より守られ、イスラエル人によって厚遇されることでしょう。イスラエルの律法もそのように要求していました。
まとめ
「イスラエル人が罪にいざなわれたのは、外面的には安楽で、安全な状態にあったときであった。彼らは、常に神を自分たちの前に置くことを怠り、祈りをおろそかにし、自負心をいだいた。……クリスチャンが公然と罪を犯すまでには、世間には知られない長い予備的な過程が心の中で進行している。精神は、たちまちにして純潔と聖潔から堕落と腐敗と犯罪へと急降下するのではない。神のかたちに造られた者を、獣、あるいは悪魔のかたちに堕落させるには時間がかかる。われわれは仰ぎ見ることによって変えられる。不純な思いにふけることによって、人間は、かつては嫌悪していた罪を快いものと思うようにもなることができる」(『希望への光』239ページ、『人類のあけぼの』下巻73ページ)。
民数記25:9によると、ペオルのバアルを礼拝して「疫病で死んだ者は2万4000人」でした。しかしコリント第I・10:8が同じ物語であるとすると、人数がわずかに少なく、「2万3000人」です。聖書の霊感を信じるグリーソン・アーチャー氏は、コリント第I・10:8はバアル・ペオル(民数記25:1~8)の出来事に言及していないと考えています。むしろ2万3000人の死は金の仔牛礼拝のあとに死んだ者の数であると考えています(出エ32:35「主は民を撃たれた。彼らが仔牛を造ったからである」)。確かに彼が言うように、コリント第I・10:8は、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と言い、出エジプト記32:6に言及しています。また、「不品行」(Iコリント10:8)は偶像礼拝のことを言っている場合も多くあります(黙示録17:2、18:3、9、ホセア9:1、エゼキエル23:19、歴代誌上5:25)。しかしながら前後関係の文脈を見ると、コリント第I・
10:7は4つの異なった例話(Iコリント10:7~10)の一つですから、コリント第I・10:7と同じ物語に言及しているとは考えないほうがよいでしょう。コリント第I・10:8は、ペオルのバアルに関する言及と思われます。私は、2万3000なにがしかの数字が民数記では繰り上げられて2万4000となり、コリント第I・10:8では、切り下げられて2万3000となったと考えます。箴言30:15、18、21、29では、3でも4でも大きな違いはなく、どちらでもよいと思われます。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年4期『放浪する旅ー民数記』からの抜粋です。