第二世代─訓戒【民数記―放浪する民】#12

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約束の地に入ることを拒んだ反逆的な世代はそこに入ることがないという主の言葉の通り、主はいま新しい世代を同じ地の国境にまで導かれました。主はそこで、モーセと大祭司エルアザルとに命じて、「兵役に就くことのできる」20歳以上の男子の数を数えさせられます(民26:2)。驚いたことに、2回目の調査の結果である60万1730人(民26:51)という総計は40年前になされた1回目の60万3550人(民2:32)とほぼ同じでした。ヨシュアとカレブを除いて、第一世代が神の裁きによって滅びたにもかかわらず、神は彼らを豊かに増し加えられたので、モアブの平野に集まったイスラエルの軍隊は実質的には第一世代のそれと同じくらい大きなものでした。

しかしながら、問題は、自分たちの両親の悪業の結果を見てきたこの新しい世代が、これらの過ちから学び、主に従う用意ができているかどうかでした。彼らは与えられた責任を受け入れる覚悟ができていたでしょうか。彼らはどんな教訓を学ぶことになるのでしょうか。私たちはそこから何を学ぶことができるでしょうか。

土地の分配

ペオルにおける災いの後、20歳以上の男子について人口調査がなされました

(民26:1~4)。古い世代が亡くなり(わずかな例外を除く──民26:64、65参照)、新しい世代が生まれていました。

問1

新しい世代に対して人口調査がなされた理由の一つは何でしたか。その意義はどこにありましたか。民26:52~56

第二世代が土地を征服したなら、それを公平に分配する必要がありました。そうしなければ、争いと混乱の種になるからです。幸いにも、モーセがまだ生きていて、この重要な問題について指導することができました。聖句にもあるように、人口の多い部族には多くの土地が与えられ、少ない部族には少ない土地が与えられました。じつに公平な配慮でした。

問2

民数記27:1~11を読んでください。ここに、どんな重要な原則が述べられていますか。

ここで重要な意味を持つのが、家族の尊厳です。特に、財産と相続権に関してはそうでした。その目的は財産を家族のうちに留めることにありました。土地は「相続財産」であって、家族に属するものでした。

このことからもわかるように、それは一時的な取り決めではありませんでした。これらの女たちが信仰と勇気をもって基本的な公平についてモーセに訴えたために、主はそれを「法の定め」(民27:11)とされました。それは将来の世代にわたって、同じ境遇の女性を保護することになるのでした。

後継者

長年、荒れ野をさまよった後、イスラエルの子らはもうすぐ約束の地に入ろうとしていました。新しく起こった世代が何世紀も前にアブラハムを通して与えられていた約束の地を受け継ぐのでした(創17:8)。こうして、神の民の失敗と反逆、不平、不信仰にもかかわらず、神はその約束を実現しようとしておられました。神は別の世代によって約束を実現しようとしておられたのでした。

問3

民数記27:12~23を読んで、以下の質問に答えてください。

  • 主は民数記27:12で、イスラエルの子らがまだ約束の地に入っていないのに、彼らに土地を「与えた」(過去形)と言っておられます。このことから、神の約束についてどんなことがわかりますか。
  • 再び主から、自分が罪のゆえに約束の地に入ることができないと言われたとき、モーセはどのように応答していますか。彼の最大の関心は何でしたか。このことから、モーセの品性についてどんなことがわかりますか。
  • ヨシュアが全会衆の前で職に任じられたのはなぜですか。

モーセはその働きを終えて、間もなく死のうとしていました。今、モーセの後継者に選ばれたヨシュアが職に任じられました。興味深いのは、跡を継いだのがモーセの子でなく、それにふさわしいとされた者であったことです。ヨシュアを選んだのはモーセや会衆ではなく、神でした。

聖句にもあるように、モーセと同様、ヨシュアは神の導きによってのみ指導するのでした。つまり、彼は書かれた律法と戒めに加えて、「主の御前でウリムによる判断を求める」ことによって、主の御心を行うのでした。

再確認された犠牲制度

主がシナイ山から十戒を語り(出20章)、幕屋の建造を命じられたとき(出25章)、第二世代はまだ子供だったはずです。神は今、要約されたかたちで、大人になった第二世代に対して犠牲制度を再確認されます。

民数記28:1~8は、朝と夕にささげる「日ごとの」、「継続的な」羊の献げ物について描写しています。この犠牲はつねに焼けているように配慮されていました

(レビ6:2、6──口語訳6:9、13)。この「日ごとの」、「継続的な」献げ物は聖所の中で最も重要な位置を占めていました。それは他のすべての犠牲に優先するもので、イスラエルの礼拝の中心でした。この犠牲は、神の赦しと受容が犠牲に予表される贖い主を通してつねに与えられていることを表していました。

問4

ローマ5章を読んでください。それは、私たちのためのキリストの犠牲が完全無欠であることについて何と教えていますか。

安息日には、(「日ごとの」献げ物とは別に)特別な犠牲がささげられました。それは、朝と夕の2匹の羊からなっていました(民28:9、10)。民数記28:11~15には、毎月ささげる犠牲について詳述されています。続いて、次のような各種の祭りのことが記されています──過越、五旬祭(七週祭)、角笛の祭り、贖罪日、仮庵祭(民28、29章)。

「ユダヤ人の制度において、なぜ神はこんなに多くの犠牲を望み、血を流す犠牲の捧げものを定められたのか、と不思議に思う人がいます。死んでいく犠牲はみな、キリストの型であり、最も厳粛な聖なる儀式によって人間の心にその教訓が植えつけられたのです。そのことは祭司たちによってはっきり説明されました。犠牲は、キリストの血によってのみ罪の赦しが与えられるという重大な真理を教えるために、神ご自身が計画なさったのです」(『セレクテッド・メッセージ1』137ページ)。

誓いを守る

問5

誓いと誓願について記している民数記30章を読んでください。この章からどんな重要な原則について学ぶことができますか。それは私たちの言葉の重要性について何を教えていますか。それはどんな警告でもありますか。

あからさまな嘘をつくことがあります──それは罪深く、悪いことです。しかし、それはここで言われていることではありません。当初は絶対に守るつもりで、主の御名によっておごそかに約束や誓いをなし、後で何らかの理由でそれを破ってしまったということがないでしょうか。

ここで言われているのは、「主に対して」なされた誓願のことですが、現実問題としては、特にクリスチャンである私たちは何かをすると言ったのなら、最後までそれをやり通すべきです。約束をしたときには守るつもりだったとしても、それは相手にとってはあまり意味のないことです。相手は私たちを信じるかもしれませんが、信じないかもしれません。問題は、クリスチャンである私たちがあちこちで約束や誓約をなし、何らかの理由でそれを守らなければ、果たしてキリストの代表者と言えるかということです。自分の言ったことを守らないなら、私たちの宗教にどれほどの価値があるでしょうか。何かについて約束や誓いをする場合、努めて注意深くなければならない理由はここにあります。たとえ動機がどれほど立派でも、約束を守り通すことができなくなる場合があるかもしれないからです。

「義務を誓ったからには、それが悪い行為を義務づけるものでない以上、尊重すべきである」(『希望への光』261ページ『、人類のあけぼの』下巻132ページ)。イスラエルの社会においては、神の御名によってなされた約束を破ることは怠慢の罪と見なされました。実際的な意味においては、誓いを守らないことは神の御名をみだりに唱えることです。すべてのことをキリストの御名によって行うクリスチャンであれば、なおさらそうです。

国境にて

その後、新しい世代が興ります。彼らは荒れ野を出て、自分の家郷を手に入れる準備ができていました。事実、ある者たちは定住する準備ができていました。

問6

民数記32:1~5を読んでください。ここで、どんなことが起きていますか。彼らがこのような要求をしたのはなぜですか。

民数記32:6~15はモーセの応答です。モーセは不快感を表し、彼らの行為は罪であると言っています。モーセは今回の出来事を、民が国境にいて、ヨルダン川を渡ろうとしていたときに起きた前回の出来事にたとえています。ただし、今回は前回と理由が異なっていました。前回は、土地の住民を恐れ、主に信頼しませんでした。今回は、状況が異なります。彼らは渡って行くことを恐れたのではなく、現在の場所が気に入って、そこにとどまろうとしたのでした。

問7

ルベン族とガド族の指導者は何と言いましたか。モーセは何と答えましたか。民32:16~42

ルベンとガドの人々は、同胞のために喜んで自分たちの分を果たすつもりだと言いました。つまり、すでに嗣業となった土地をどれほど望んだとしても、自分たちはそれについて利己的になることはない、またどれほど嗣業の地に心が引かれても、他のイスラエルが自分たちの嗣業の地を手に入れるまでは、自分たちも嗣業の地に落ち着くことはない、というのでした。

モーセは彼らの意思を確認した上で、一応の警告を与えますが(「その罪は身に及ぶ」)、彼らの言うことを信じ、一定の条件のもとで同意しました。

まとめ

モーセが特にイスラエルの第二世代に思い起こさせるために選んだ次の出来事について復習してください。彼の訓戒は次の原則にもとづいていました──主が過去に私たちを導かれた方法を忘れない限り、将来に恐れることは何もない。

ペオルにおける災害。2万4000人が死んだ(民25:9、26:1)。

コラ、ダタン、アビラムの反逆(民26:9~11)。

ユダの息子、エルとオナン(民26:19)。

アロンの息子で、祭司のナダブとアビフ(民26:61)。

カレブとヨシュアを除いて、第一世代は荒れ野で死んだ(民26:63~65)。

3と4を除いて、これらの出来事はすべて第二世代も経験したことでした。ヘブライ人の歴史の中に、これらの悲劇が記録されているのはなぜでしょうか。使徒パウロは次のように説明しています。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(Iコリ10:11)。

「原則という要塞をくつがえし、イスラエルをサタンの手に渡したのは、城壁の内部の反逆者たちであった。今なおこのようにして、サタンは魂の滅亡をはかっている。クリスチャンが公然と罪を犯すまでには、世間には知られない長い予備的な過程が心の中で進行している。精神は、たちまちにして純潔と聖潔から堕落と腐敗と犯罪へと急降下するのではない。神のかたちに造られた者を、獣、あるいは悪魔のかたちに堕落させるには時間がかかる。われわれは仰ぎ見ることによって変えられる。不純な思いにふけることによって、人間は、かつては嫌悪していた罪を快いものと思うようにもなることができる。サタンはあらゆる手段を尽くして、犯罪と堕落的な悪徳を広めようとしている。……心の下劣な人物のたどった道が、今日、雑誌に掲載され、人々の欲望をかきたてるあらゆるものが刺激的な物語の中で示される。人々は堕落的な犯罪について聞いたり、読んだりすることが多いため、かつてはこうした情景を嫌悪して目をそむけた敏感な良心も、感覚がにぶって、こうしたことをむさぼるごとく心に思い浮かべるようになるのである」(『人類のあけぼの』下巻73、74ページ)

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