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特異な墓
この世で最も有名な建造物の一つは墓です。エジプトの大ピラミッドは10万人の人が20年かけて造ったといわれています。平均2.5トンもある巨大な石230万個をどのように積み上げたか、今日でもわかっていません。しかし、はっきり言えることは、この大ピラミッドが死への関心から建設されたということです。それはファラオ[歴代の古代エジプト王の称号]の墓所、つまり死を記念する建造物でした。インドの壮麗なタージマハールもそうです。シャー・ジャハーン帝は愛妃ムムターズが死の床に伏していたとき、彼女に世界で最も美しい記念碑を建てることを約束しました。まばゆい白大理石、ちりばめられた貴石、庭、プールからなるタージマハールは実に壮麗な記念碑です。この墓の中に、シャー・ジャハーンとムムターズが眠っています。しかし、今回の研究で扱う物語はこれとは異なります。イエスの遺体が置かれたアリマタヤのヨセフの、岩に掘られた質素な墓はクフ王のピラミッドやタージマハールよりもはるかに素晴らしいものです。なぜなら、その墓は空だからです!
埋葬(マルコ15:42~47)
問1
パウロがコリントIの15:3、4で引用した初期の「福音の定式」にある「葬られたこと」という表現が、初期のクリスチャンにとって重要な意味を持っていたのはなぜですか。
新約聖書はイエスの復活を強調しています。使徒言行録の中で、使徒たちは終始、キリストが復活されたこと、聖霊を注がれたことを説いています。コリントIの15:3、4にある福音の定式には、(1)キリストが私たちの罪のために死なれ、(2)埋葬され(、3)復活されたという三つの事実が一つに結び合わされています。その埋葬は決して小さな問題ではなく、(一部の批評家や懐疑論者が言うように)イエスが単に気絶されたのではなく、実際に死なれた事実を強調するものであり、それによって復活を輝かしい奇跡とするものです。キリストの死との関連においてのみ、私たちはキリストの復活の重要性を理解することができます。
問2
次の聖句はどんな一点を強調していますか。レビ17:11、マタ26:28、ヨハ19:40、ロマ5:6~8、6:4、Iコリ5:7
聖書ははっきりとキリストは私たちの罪のために死なれたと教えています。その死は救いの計画に不可欠で、それがなかったら救いも、贖いも、永遠の命もなく、人間はただ永遠に滅びるしかありません。キリストの死は、私たちの死が最終的に無効となることの保証です。
イエスの復活(マルコ16:1―11)
問3
イエスの復活を最初に知ったのはだれでしたか。空の墓は当人たちにどんな影響を与えましたか。マルコ16:1~8
イエスの時代、婦人は社会的に低い地位にありましたが、神の前ではそうではありませんでした。マルコは、ガリラヤにおいて、その後、エルサレムにおいてイエスに仕えた婦人たちについて記しています。彼女たちは十字架のイエスを見守り、恥じることなくイエスに従う者であることを公言しています(マルコ15:40、41)。その中のある婦人たちはイエスの遺体に塗るための香料を買い求め、日曜日の早朝、墓にやって来ました。彼女たちはイエスの復活の信じがたい知らせを最初に聞くことになりました。
多くの学者にとって、イエスに最初お会いしたのが婦人たちであったという事実はこの記録の正しさを確証する助けになります。話のでっち上げのためには、社会的に身分の低い少数の婦人たちではなく、パレスチナの有力な宗教的・政治的指導者のだれかが初めに空の墓に気づいた方が都合よかったはずです。
婦人たちは驚きました。この福音書では人々はイエスの奇跡と教えに何度も驚いています。今ここに、最後を飾る奇跡が起こりました。それは、イエスが御自分の主張どおりのお方であることをはっきりと証明しました。婦人たちはまだ完全には理解していませんでしたが、墓が空であるのを見て非常に驚きました。
問4
イエスが初めに御自分を現された婦人はだれですか。マル16:9~11、ヨハ20:11~18
イエスが初めに御自分を現された婦人は、なんということでしょう。その暗い過去のゆえに、だれからも相手にされていない人物でした。しかし、多く赦されていたので、多く愛していた彼女が日曜日の朝早く、だれよりも先に墓に来たのも不思議ではありませんでした。再出発を許されたこの哀れな神の子に、イエスはあえて御自身を現されたのでした。
御自身を現される(マルコ16:12~18)
イエスが福音書に記された有名な人たちばかりでなく無名の人たちにもお現れになったことは、彼がすべての弟子に関心を持っておられたことをよくあらわしています。
問5
イエスは道を歩いていただれにお現れになりましたか(マルコ16:12、13)。ルカ24:13~35にはもっと詳しく書かれています。この出来事からどんな教訓を学ぶことができますか。
問6
主はほかにだれにお現れになりましたか。マタ28:16、17、マルコ16:14、ルカ24:36~49、ヨハ20:19~29、21:1~3、Iコリ15:4~8
それぞれの福音書記者は、他の記者が記さない新たな情報を提供しています。それらは互いに調和していて、イエスの復活を力強く証ししています。細かい点において異なるところもありますが、目撃証言とは一致しています。順序は正確ではないかもしれませんが、復活の主の現れを以下に列挙してみます。
- マグダラのマリアに現れる(マルコ16:9、ヨハ20:15~17)。
- ほかの婦人たちに現れる(マタ28:9、10)。
- ペトロに現れる(ルカ24:34、Iコリ15:5)。
- エマオ途上の二人の弟子に現れる(マルコ16:12、ルカ24:13~35)。
- 二階広間で弟子たちに現れる(マルコ16:14、ヨハ20:19~24)。トマスはいなかった。
- 1週間後、二階広間で11人の弟子に現れる(ヨハ20:26~29)。トマスもいた。
- ガリラヤ湖で魚を捕っていた7人の弟子に現れる(ヨハ21:1~3)。
- 500人以上の人に現れる(Iコリ15:6)。
- ヤコブに現れる(Iコリ15:7)。
- 昇天の直前に11人の弟子に現れる(マルコ16:19、20、ルカ24:50、51、使徒1:3~11)。
終わりを飾る奇跡
宗教指導者たちは、イエスの弟子たちが遺体を盗み出すことができないように、ピラトの許可を得て墓に封印をし、番兵を置きました(マタ27:62~66)。
問7
イエスの復活を阻止しようとする試みが、かえって復活の証拠を強める結果となったのはなぜですか。
後世になると、次のように、イエスの空の墓の説明が考え出されました。(1)イエスは十字架上で死んだのではなく、気絶しただけであって、涼しい墓の中で息を吹き返したのである。(2)イエスは実際に弟子たちに現れたのではなく、イエスの復活を強く願っていた弟子たちが、そのように勝手に思い込んだのである。この心理学的説明は願望実現理論と呼ばれる。弟子たちの願望がそれを実現させるに至ったからである。
問8
イエスは実際に死んだのではないという考えは、聖書のどんな証拠によって論破されますか(ヨハ19:31~35)。弟子たちはイエスが復活したと勝手に思い込んだに過ぎないという人に対して、あなたはどのように反論しますか。(使徒1:3、4)
復活について聖書が繰り返し強調していることは、弟子たちの心理状態は願望実現説の言うこととは全く違ったということです。弟子たちは、イエスが復活するとは思ってもいなかったので、イエスの復活の知らせを信じませんでした(マタ28:17、マルコ16:11、13、ルカ24:11、ヨハ20:24~29参照)。
二つの重要な事実が、イエスの復活を否定するあらゆる試みの反論となります。第一に、イエスの遺体が消えたということです。墓が封印され、番兵がいたにもかかわらず、何かが起こったのです。イエスの敵たちが新しい宗教の偽りをあばく最も容易な方法は、イエスの遺体を見せることだったのに、できませんでした。第二に、カルバリー後の弟子たちは打ちひしがれ、意気消沈していました。イエスの復活後、彼らは確信と力に満たされ、イエスの御名によって出て行きました。復活の主を見たからです。
任命(マルコ16:15~20)
ここまで、復活の主が御自身を現されたことに言及してきましたが、正確には御自身を現されたばかりでなく、語り、質問に答え、さらに弟子たちと共に食事をしておられます。彼は単に御自身を現されたのではなく、弟子たちとお会いになったのでした。
問9
復活されたイエスはどれだけの期間、弟子たちとお会いになりましたか(使徒1:3)。
マルコによれば(16:14)、イエスは復活された後でさえ、御自身の復活を最初に知らせた人たちの言葉を信じなかった弟子たちの不信仰とかたくなな心をとがめておられます。ギリシア語動詞の文字通りの意味は「非難する」あるいは「そしる」で、イエスが彼らの疑いを厳しく責めておられることがわかります。人間は今もほとんど変わっていません。私たちはだれでも、自分が神の素晴らしい恵みにあずかっていながら、すぐに不信仰とかたくなな心を表す存在であることをよく知っています。
問10
マルコによる福音書によれば、イエスは弟子たちにどんな使命を与えておられますか(マルコ16:15)。それは私たちアドベンチストに与えられている使命とどんな点で似ていますか。黙14:6、7
マルコによる福音書の最後の2節には興味深い対照が見られます。イエスは今、天の父なる神のもとに昇り、権威ある地位を意味する神の右の座に着いておられます。しかし、同時に、聖句によれば、主は御自分の教会と共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりと示しておられます。言い換えるなら、イエスは天におられるにもかかわらず、その力と権威を通して、なお御自分の教会、御自分の民のそば近くにおられて、彼らが必要とするものを与えておられます。これらの言葉は、今日の私たちにとってはもちろん、初期の教会にとって大きな慰めとなるものでした。
*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。