【ローマの信徒への手紙】すべての人が罪を犯した【解説】#3

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自分が罪人であることを認めない限り、人は義認(罪人が神によって義と宣告されること)の必要を感じることはありません。したがってパウロにとって、義認への第1歩は、人が自分自身を無力で、希望のない罪人と認めることでした。この議論を進めるために、パウロはまず異邦人の恐るべき堕落ぶりについて語ります。異邦人がここまで堕落したのは、彼らが神を記憶の隅に押しやってしまったからです。パウロは次に、ユダヤ人も同じくらい堕落していると言います。異邦人にせよユダヤ人にせよ、自分自身の善い行いによって救われる人はだれもいないということです。

エレン・G・ホワイトは次のように明言しています。「人の何らかの行いがその人の罪の負債をいくらかでも減らしてくれるという偏狭な考えをだれも抱いてはならない。それは決定的な偽りである。そのことを理解しようと望むなら、あなたは自分勝手な考えについて議論することをやめ、へりくだった心をもって贖いについて調べねばならない。彼らが自分自身の行いに頼ろうとするため、神の子を自認する多くの人が悪魔の子となっている。神はつねに善い行いを要求されたし、律法もそれを要求する。しかし、人間が罪のうちに身を置いたため、それによって自らの善行が無価値となってしまった。ただイエスの義だけが価値を持つものとなった。キリストはつねに生きていて、私たちのために執り成しておられるので、完全に救うことがおできになる」(『SDA聖書注解』第6巻1071ページ、英文)。

福音を恥としない

問1

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ロマ1:16、17)。これらの聖句は何を述べていますか。あなたはここにある約束と希望を体験していますか。

ここに、鍵となる言葉がいくつか出てきます。

福音:この言葉は「よいメッセージ」あるいは「よい知らせ」を意味するギリシア語から来ています。単独で用いられると、あらゆる知らせを意味しますが、ローマ15:19のように「キリストの」という言葉によって修飾されると、「メシアについてのよい知らせ」を意味します(キリストは「メシア」を意味するギリシア語の音訳)。福音とは、メシアが来て、人がメシアを信じることによって救われるということです。私たち自身や神の律法によるのではなく、イエスとイエスの完全な義によって、人は救われます。

:この言葉は神に対して「正しく」あることを述べています。この言葉の独特な意味が、これから進める『ローマの信徒への手紙』の研究の中で詳しく述べられています。特筆すべきことは、この言葉がローマ1:17で「神の」という句によって限定されていることです。それは神から来る義、神御自身が与えてくださる義です。後に学ぶように、これこそが私たちに永遠の命の約束を与えてくれる唯一の義です。

信仰:ギリシア語では、ここで「信じる」「信仰」と訳されている語は、同じ語の動詞形と名詞形で、“ピステューオー”(信じる)と“ピスティス”(信仰)です。救いに関連した信仰の意味は研究の進展と共に明らかになります。

あなたは救いの確信がありますか。自分が救われている、あるいは救われることに疑いを感じることがありませんか。あるとすれば、それは何によるものですか。現実の生き方から来るものですか。つまり、あなたの告白している信仰に背くような生き方をしているからでしょうか。私たちがイエスにあって与えられている約束と確信を自分のものとするにはどうしたらよいでしょうか。

人間の状態

問2

ローマ3:23を読んでください。私たちクリスチャンにとって、このことを信じるのは容易かもしれません。その一方で、この聖句の真実性を疑う人たちがいるのはなぜですか。

驚くべきことに、一部の人たちは、人間が罪深いという考えを受け入れません。彼らは、人間は基本的に善であると言います。しかしながら、そのような彼らの発言は、真の善についての認識不足から来ています。人は自分を他人と比較し、自分が善であると考えがちです。ギャングの首領アル・カポネでさえ、アドルフ・ヒトラーに比べれば聖人でした。しかし、自分を神に、また神の聖と義に比べれば、自己嫌悪と嫌気に圧倒されない人はいないはずです。

この聖句はまた、「神の栄光」について述べています。ヘブル語では、金のような重さと輝きを感じさせるものという意味がありますが、聖書では、栄え、誉れ、力に近い言葉として、また、恥や不名誉の反語として用いられています。人は、神から与えられた栄えと誉れを罪を犯して失いました。罪深い人間は神の栄光を反映するにはほど遠い存在です。

問3

ローマ3:10~18を読んでください。当時と現代を比べてください。これらの聖句はどんな意味であなたにもあてはまりますか。もしキリストを信じていなかったなら、あなたの人生はどのようだったでしょうか。

私たちは確かに罪深い人間ですが、それでも希望がないわけではありません。第一にすべきことは、私たちが自力ではどうすることもできないほど罪深く、無力な存在であることを認めることです。このような自覚をもたらすのは聖霊の働きです。罪人が聖霊に逆らいさえしなければ、彼は聖霊に導かれて自己防衛や見せかけ、独善の仮面を捨て、キリストの憐れみを求めて次のように言います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)。

1世紀から21世紀へ

20世紀の初頭には、人間は進化し、道徳は向上し、科学と技術はユートピアをもたらすという風潮が人々のあいだに広まっていました。人間は基本的には完全に向かって進んでいる、つまり正しい教育と道徳によって、人間と人間社会は大いに向上する、と信じられていました。20世紀という全く新しい時代に入ると同時に、これらが一斉に始まることになっていました。

悲しいことに、社会はそのようにはなりませんでした。それどころか、20世紀は全歴史を通じて最も暴力的で、残忍な時代の一つとなりました。皮肉なことに、そのために一役買ったのが科学の進歩でした。それによって、過去の最も邪悪な狂人でさえ想像もしない規模で、人間を殺すことが可能となったからです。何が問題だったのでしょうか。

問4

ローマ1:22~32を読んでください。1世紀に書かれたこれらのことは21世紀の今日においてどのように現されていますか。

人間が神を見失ったとき、罪と虚偽、堕落の水門が開かれました。今日、私たちはみな、この問題の結果に苦しんでいます。事実、時々刻々、神に従っていなければ、私たちも罪と悪に飲み込まれてしまいます。

ユダヤ人も異邦人も

パウロはローマ1章で、特にユダヤ人にとって外国人である異邦人と異教徒の罪について述べています。彼らは神を見失い、堕落的な習慣に陥っていました。しかし、パウロは自分自身の民、イスラエル人を見逃しているわけではありません。種々の特権を与えられていたにも関わらず(ロマ3:1、2)、彼らもまた神の律法によって有罪とされる罪人であって、キリストの恵みによる救いを必要としていました。ですから、だれもが罪人であって、ユダヤ人も異邦人も同様に神の恵みによる救いを必要としていました。

問5

ローマ2:1~3、17~24を読んでください。パウロはここで、どんな警告を与えていますか。ユダヤ人であれ異邦人であれ、私たちはみな、この警告からどんなことを学ぶ必要がありますか。

「自分は人よりまさっていると考えて、人をさばく立場に自分を高めてはならない。あなたは、動機を見わけることができないのだから、他人をさばくことはできない。相手を批判することによって、あなたは自分自身に宣告をくだしているのである。なぜなら、あなたは、兄弟たちを訴える者、すなわちサタンの仲間であることを示しているからである」(『希望への光』829ページ、『各時代の希望』中巻24ページ)。

ある人々は、自分自身に目をつぶり、自分がまだ人よりましであると考えて安心しています。パウロは自国民に対して、軽率に異邦人を裁いてはならないと警告しています。というのは、ユダヤ人も選民ではありましたが、罪人であって、ある意味では、自分たちが軽率に裁いている異教徒よりも罪が深いのです。なぜなら、彼らはユダヤ人として異邦人以上に光を与えられてきたからです。

パウロがここで強調しているのは、私たちはだれひとり義ではなく、だれひとり神の標準を満たさず、だれひとり生まれつき善で、生得的に聖ではないということです。私たちはみな罪人であって、福音に啓示された神の恵みがなければ、だれひとり希望がありません。

悔い改め

5歳の男の子が幼い妹を押し倒したので、両親は彼に謝るように言いました。男の子は気が進みませんでしたが、いやいや、下を向いたまま、やっとのことで、「ごめんなさい」と言いました。とうてい、心から謝っているようには思われません。

問6

このことを心にとめて、次の聖句を読んでください。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ロマ2:4)。この聖句は私たちにどんなことを教えていますか。

神の憐れみが罪人を悔い改めに導く(強制するのでない)ことに留意してください。神は決して強制されません。神は限りなく忍耐深いお方で、愛をもってすべての人を引き寄せられます。強制された悔い改めというものは、悔い改めの目的そのものを無意味にします。もし神が悔い改めを強制するなら、すべての人が救われることになります。それゆえ、ある人は強制し、ある人は強制しないというのでしょうか。そのようなことはありません。

問7

神の愛に逆らい、悔い改めることを拒み、不従順のうちに留まる人たちはどうなりますか。ロマ2:5~10

これらの聖句と、『ローマの信徒への手紙』の随所で、パウロはよい行いの役割を強調しています。律法の行いのともなわない、信仰による義認と言っても、よい行いがクリスチャンの人生において何の役割も待たないという意味ではありません。ちなみに、7節では、救いが「忍耐強く善を行」うことによって、それを求める人たちに与えられると書かれています。人間の努力は救いをもたらしませんが、救いの経験の一部であることに変わりありません。聖書を読み、行いや行為が全く問題にならないと結論づけるとすれば、それは誤りです。真心から出た真の悔い改めには、いつでも、悔い改めによって捨てるべきものに勝利し、それを離れるという決意がともないます。

まとめ

「多くの者が自分の心の状態を正しく理解していない。彼らは、生まれながらの人の心が何にもまして、とらえ難く病んでいることに気づいていない。彼らは自分の義で自分を包み、自分の人間的な品性の標準に到達することで満足している。しかし、神の標準に到達しないという致命的な誤りを彼らは犯してしまっている。彼らは自分自身では神の要求を満たすことができない」(エレン・G・ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』第1巻320ページ、英文)。

「この世の状態についての恐ろしい描写が私の前に示された。不道徳はあらゆるところにあふれている。放縦はこの時代の特別な罪である。悪徳が今ほど大胆にその醜い頭をもたげたことはなかった。人々は麻痺しているように思われる。美徳と真の慈愛を愛する者たちは悪徳の大胆さと威力、流行にほとんど失望している。あふれるほどの不義は不信仰な者たちや嘲笑する者たちだけに限られたものではない。そうであってくれればよいのだが、そうではない。キリストの宗教を告白する多くの男女が罪を犯している。キリストの再臨を待ち望むと告白する者たちの中にも、サタン自身と同じくらい再臨に対する備えのできていない者たちがいる。彼らはあらゆる汚れから自分自身を清めていない。彼らは長らく自分の欲望に仕えてきたので、その思いが不純になり、その想像力が堕落するのも当然である」(エレン・G・ホワイト『教会への証し』第2巻346ページ、英文)。

パウロは1:18~2:1を特に、細心の注意を払って書いたと思います。彼は1:32まで、「彼ら」の罪を指摘しています。読者は他人事として、安心して彼の話に耳を傾けます。すると突然、「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がありません。あなたは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」という言葉が発せられます。これは、ダビデに「あなたがその人です」と言ったナタンの手法と同じです(サムエル下12:7)。他人への厳しい視線を自らに向ける時、人は弁解できなくなります。聖霊は今も、あらゆることを通して、私たちが罪人であることを悟らせしようとしています。そのことなしに、人をキリストに導くことは不可能だからです。

*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。

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