【ローマの信徒への手紙】罪に打ち勝つ【6章解説】#7

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律法の行いによってではなく、信仰によって義とされるのであれば、良い行いは必要なのでしょうか。その理由は何ですか。

第6章はこの重要な疑問に対する彼の答えです。パウロはここで、いわゆる「聖化」(清め)、すなわち私たちが罪に勝利し、徐々にキリストの品性を反映する者となる過程について論じています。しかし、「聖化」という言葉そのものは『ローマの信徒への手紙』のどこにも出てきません(「聖なるものとされた」という言葉が一度、ローマ15:16に出てきます)。

このことは、パウロが、聖化について何も教えていないことを意味するのではありません。彼はただその言葉によって聖化に言及していないだけです。

聖書では、「聖なる者となる」は、神に「献身する」を意味します。したがって、聖なる者とされることはしばしば、過去の完了した行為を表します。たとえば、「聖なる者とされたすべての人々」という表現がそれです(使徒20:32)。この意味で、聖なる者とされた人々とは、神に献身した人々のことです。しかし、「聖なる者となる」というこの聖書の用法は、決して重要な聖化の教えや、聖化が一生の業であることを否定するものではありません。聖書はこの教えを強く支持していますが、一般的には、別の言葉を用いてそれを描写しています。

今回は、誤解しやすい、信仰による救いのもう一つの側面、イエスによって救われた者の生活と罪への勝利の約束について学びます。

恵みは満ちあふれる

「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)。パウロが言っていることは、罪がどれほど蔓延していようとも、あるいは罪の結果がどれほど恐ろしくても、神の恵みはそれに対処するに十分であるということです。これは私たちに大きな希望を与えてくれます。自分の罪は赦されるにはあまりにも大きいと感じるときには、特にそうです。パウロは次の聖句で、罪は死をもたらしたが、イエスによる神の恵みは死を打ち砕き、永遠の命を与えてくれる、と言っています。

問1

ローマ6:1を読んでください。パウロはここで、どんな理論に対処していますか。彼は2節以下の聖句の中で、この種の考えにどのように応答していますか。ロマ6:2~11

6章で、初めにパウロは、私たちが罪を犯すべきでないのは、私たちが罪に対して死んだからであると述べています。それから、彼はその意味について説明します。

浸礼のバプテスマは埋葬を表します。「古い自分」、つまり罪を犯す体、罪に支配・制御された体が葬られます。この「罪の体」は滅ぼされ、私たちはもはや罪に仕えることがなくなります。ローマ6章で、罪は奴隷を支配する主人として擬人化されています。罪に仕えていた「罪の体」が滅ぼされると、「罪の体」に対する罪の支配は終わります。バプテスマの水の墓から出てくる者は、もはや罪に仕えることのない新しい人として出てきます。彼は新しい命に生きるようになります。

キリストは一度かぎり死なれましたが、今は永遠に生きておられます。死は二度と彼を支配することができません。同じように、バプテスマを受けたクリスチャンも一度かぎり罪に死んだので、二度と罪の支配に服するべきではありません。私たちが水から出てきたときに、罪は自動的に私たちの生活から消えるわけではありません。罪に支配されないということは、罪と闘わなくてもよいという意味ではありません。私たちには、時々刻々、自分自身を罪に死んだ者、キリストに生きる者と思い続ける闘いがあります。勝利の約束が与えられていますが、私たちはそれを信仰によって求め続ける必要があります。

罪が擬人化されている

問2

ローマ6:12には、どんな勧告が与えられていますか。

「罪が支配する」という言葉は、「罪」がここで王として擬人化されていることを示しています。「支配する」と訳されているギリシア語は、字義的には「王となる」となります。罪はすぐに私たちの死すべき体の王となり、行動を支配したがります。パウロは、「罪に支配させて……はなりません」と言っています。これは、義とされた人が、罪が彼の人生の王として君臨するのを阻止することができることを暗示しています。自分の意志の力を働かせるのは、ここにおいてです。

「ただ必要なのは、本当の意志の力とは何であるかを知ることです。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力です。すべてはただ意志の正しい行動にかかっているのです。神は人間に選択の力をお与えになりました。つまり、人がそれを用いるようにお与えになったのです。私たちは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神に献げることはできません。けれども、神に仕えようと選ぶことはできます。意志は、神に献げることができます。そうすれば、神は私たちのうちにお働きになって、神の喜ばれるように望み、また行うようにしてくださいます。こうして性質は全くキリストの霊に支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまた彼と一致するようになります」(『希望への光』1950ページ、『キリストへの道』60ページ)。

ローマ6:12で「欲望」と訳されているギリシア語は「願望」を意味しますが、罪が人を支配するとき、それは悪いものを求める願望となります。私たちが自分の力でそれと闘うとき、悪い願望は強いもの、また抵抗できないものとなります。罪は冷酷な暴君のようなもので、決して満足しないだけでなく、つねにより多くのものを求めてきます。ただ信仰によって勝利の約束にすがることによってのみ、私たちはこの無慈悲な主人に打ち勝つことができます。

バプテスマを受けた人は、「神に向いて」生きています。神は彼の生活の中心です。彼は神に仕え、神のお喜びになることをしているので、同時に罪に仕えることはできません。彼は、「キリスト・イエスに結ばれて、神に向いて生きている」のです。

律法の下?

問3

ローマ6:14を読んでください。この聖句は何を意味しますか。十戒はもはや私たちを拘束しないという意味ですか。そうでなければ、なぜですか。

ローマ6:14は『ローマの信徒への手紙』の中で鍵となる聖句の一つです。それは、だれかがセブンスデー・アドベンチストに向かって、第7日安息日が廃止されたと言うときによく引用する聖句です。

しかし、それは明らかにこの聖句の意味するところではありません。道徳律が罪を定義するはずであるのに、その道徳律が廃止され、罪がなおも実在するということがありうるでしょうか。この聖句に先立つ部分、あるいは6章全体を読むなら、パウロが罪の実在について論じている途中で突然、「罪を定義する道徳律、つまり十戒は廃止された」などと言うことはとても考えられません。そのようなことは無意味です。

パウロがローマの信徒に言っていることは、「律法の下」──つまり、人間の作ったあらゆる規則や規定を含む、当時のユダヤ人の制度の下──に生きている者は罪によって支配される、ということです。対照的に、恵みの下に生きている者は罪に勝利します。なぜなら、律法が彼の心に書かれ、神の霊が彼の歩みを導いてくださるからです。イエス・キリストをメシアとして受け入れること、彼によって義とされること、バプテスマによって彼の死にあずかること、「古い人」を滅ぼすこと、新しい命に生きること──これらが私たちの生活から罪を退けるのです。

「恵みの下」で生きているつもりでも、神の律法に逆らっているなら、その人にあるのは恵みではなく、罪の宣告です。「恵みの下」とは、イエスによって啓示された神の恵みを通して、律法が必然的に罪人にもたらす有罪宣告が撤回されたということです。こうして、律法によってもたらされた死の宣告から解放された今、私たちは「新しい命」に生きるのです。それは、自己に死に、もはや罪の奴隷とは無縁となった生き方です。

2人の相反する主人

問4

ローマ6:16を読んでください。パウロはここで何を強調していますか。彼の議論ははっきりしています。二者択一的で、中立の立場がないのはなぜですか。このようなきわめて明快な対比から、どんな教訓を学ぶことができますか。

信仰の生活は罪に対する勝利を可能とします。事実、信仰によってのみ、私たちは約束された勝利を自分のものとすることができます。

罪を人の上に君臨する王として擬人化した後で、パウロは再び罪を、奴隷に服従を要求する主人として描いています。人は自分の主人を選べるとパウロは言います。人は罪に仕えて死に至るか、義に仕えて永遠の命に至るか、どちらかです。中立の立場、あるいは妥協の余地はありません。これを取るか、あれを取るかです。私たちは永遠の命か永遠の死のどちらかを選ぶことができます。

問5

ローマ6:17を読んでください。ここで、パウロは16節で述べた内容をどのように発展させていますか。

興味深いことに、服従が正しい教えと結びつけられています。ここで「教え」と訳されているギリシア語は「教理」を意味します。ローマのクリスチャンはキリスト教信仰の原則について教えられ、それに従っていました。このように、パウロにしてみれば、正しい教理、正しい教えは、「心から従う」ことによって、ローマの信徒が「義に仕えるように」なる助けとなりました(18節)。私たちはときどき、愛を表しているかぎり、教理は問題ではないという意見を耳にします。これは、それほど単純でない問題を非常に単純化した表現です。先にも触れましたが、パウロはガラテヤ教会が従っていた偽りの教理について非常に憂慮していました。この意味で、私たちは正しい教理の重要性を軽んじるような言説に対して注意する必要があります。

きよきに至る実

問6

ローマ6章でここまで学んだことを心にとめ、残りの聖句を読んでください(19~23節)。パウロが述べていることを要約してください。とりわけ、どうしたらパウロがここで強調している真理を生活の中で実践することができるかを考えてください。ここで問題となっているのはどんなことですか。

パウロの言葉から、彼が人間の堕落した性質をよく理解していたことがわかります。彼は「肉の弱さ」について語っています。「弱さ」と訳されているギリシア語は「病気」も意味します。堕落した人間の性質をそのままにしておくとどうなるかを、彼は知っていました。そこで、彼は再び選択の力に訴えています。それは、自分自身と自分の弱い肉を、義なる生き方を可能とする新しい主人、イエスに明け渡すことを選ぶことです。

ローマ6:23は、罪に対する刑罰、律法の違反が死であることを示すためによく用いられる聖句です。確かに、罪の刑罰は死です。しかし、死を罪の刑罰と見ることに加えて、パウロがローマ6章で描いているように、罪を、自分の奴隷を支配する主人、奴隷を誘い、だまして死に至らせる主人と見るべきです。

加えて、パウロが二人の主人の比喩を用いることによって、一方の主人に仕えることは他の主人には仕えないという事実を強調していることに注目してください。ここにも、あれか、これかという、明白な選択が見られます。中立の立場はありません。同時に、私たちがみな知っているように、罪の支配から解放されることは罪がなくなること、葛藤がなくなること、さらには堕落することすらなくなることを意味するのではありません。そうではなく、たとえ罪が現実として私たちのうちに残っていても、またたとえ毎日、罪に対する勝利の約束を要求しなければならないとしても、私たちがもはや罪に支配されるようなことがないという意味です。このように、これらの聖句は罪に仕える者にとって強力な訴えとなります。罪は暴君であって、恥ずべき行為に対して死以外の何ものも与えません。したがって、理性ある人はこの暴君から解放されることを求めるべきです。一方、義に仕える人たちは高潔で、賞賛に値することを行いますが、それは救いを得ようとする思いからではなく、新しい経験の結果としてです。もし救いを得ようとする思いから行動しているのであれば、彼らは福音の核心であり、救いの核心であるイエスを必要とする理由を見失っていることになります。

まとめ

「イエスは罪に同意されなかった。一つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。イエスは聖霊の内住によって戦いに備えられた。しかもイエスはわれわれを神のご性質にあずかる者とするためにおいでになったのである。われわれが信仰によってキリストにつながっているかぎり、罪はわれらの上に権をとることはできない。神はわれわれが品性の完全に到達できるように、われらの中にある信仰の手を求め、それをみちびいてキリストの神性をしっかり把握させてくださるのである」(『希望への光』725ページ、『各時代の希望』上巻135ページ)。

「私たちは、バプテスマにおいてサタンおよびその手下とのあらゆる関係を断ち切り、心と精神と魂を神の御国を進展させる働きに注ぐと誓ったのである。……父なる神、御子、聖霊は清められた人間の器と協力すると確約しておられる」(『SDA聖書注解』第6巻1075ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。

「ふさわしい信仰と行いのともなわないキリスト教の告白は何の役にも立たない。人は二人の主人に仕えることができない。悪しき者の子らは彼ら自身の主人の奴隷である。彼らは悪しき者に自分自身を奴隷として明け渡すので、彼の奴隷である。悪魔とそのすべての働きを拒絶するまでは、彼らは神の僕となることができない。天の王の僕たちにとって、サタンの僕たちの携わる楽しみや娯楽に携わることは、たとえ彼らがそのような娯楽を無害であると繰り返そうとも、無害であるはずがない。神は、御自分の民を不信仰な者たちから区別し、御自分に聖なる者とするために、聖なる真理を啓示しておられる。セブンスデー・アドベンチストは自らの信仰を生活の中で実践すべきである」(『教会へのあかし』第1巻404ページ、英文)。

「あなたがたは知らないのか……。わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ6:3、4)。私たちは「知らなければなりません」。バプテスマの時に、罪におぼれた放蕩息子は死に、神の王子・王女が生まれたということを。自分が天の王子であるという認識ほど、罪を捨てる動機として強いものがあるでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。

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