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ローマ7章ほど多くの論争を生み出している聖書の章はあまりありません。論争の争点に関して『、SDA聖書注解』は次のように記しています。「[ローマ7章の]14~25節の意味は、この手紙全体の中で最も議論されている点の一つである。主要な問題は、このような強烈な道徳的葛藤についての描写が自伝的なものであるのか否か、また、もしそうであるなら、これらの聖句がパウロの回心前の経験をさすのか、回心後の経験をさすのかということにある。パウロが罪に対する自分自身の個人的な葛藤について述べていることは、用いている言葉のきわめて単純な意味からも明らかなように思われる(7~11節[『希望への光』1939ページ、
『キリストへの道』17ページ『、教会へのあかし』英文第3巻475ページ]比較)。ローマ7章がパウロの回心前の経験か回心後の経験であるかについては、学者の間でも意見が異なります。どの立場をとるにせよ、重要なことは、イエスの義が私たちを覆うこと、また私たちがイエスの義によって神の前に完全な者として立つことができるということです。神は、私たちを清め、罪に対する勝利を与え、私たちを「御子の姿に」似たものにすると約束しておられます(ロマ8:29)。「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に」「永遠の福音」を宣べ伝える私たちにとって(黙14:6)、これは理解し、経験しなければならない重要な点です。
何につながれる?
問1
ローマ7:1~6を読んでください。パウロはここで、どんな例話を用いて、読者と律法との関係について述べていますか。彼はこの例話によって何を強調していますか。
ローマ人への手紙の全体的な文脈の中で、パウロはシナイで確立された犠牲制度を含む、神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた教えを「律法」と呼んでいます。神から与えられた救い主を予示する犠牲制度がメシアの到来によって終わるということは、ユダヤ人にとって受け入れ難いことでした。ユダヤ人信者は、自分たちの生活の中で続けてきた慣習を放棄する準備がまだできていませんでした。
パウロの例話は次のようなものです。ある女がある男と結婚しています。律法は夫が生きている限り妻を拘束します。夫が生きている間は、妻はほかの男と結婚することができません。しかし、夫が死ねば、妻は自分を夫に拘束していた律法から解放されます(3節)。
問2
パウロは結婚の例話をユダヤ教の制度にどのように適用していますか。ロマ7:4、5
夫の死が妻を夫の律法から解放するように、メシアがその予型を成就するときまで守るように期待されていた予示的、象徴的、犠牲的律法から、ユダヤ人を解放します。今やユダヤ人は自由に「再婚」することができました。彼らは、復活したメシアと結婚し、それによって神に対して実を結ぶように招かれていました。この例話は、ユダヤ人が今や古い犠牲制度を捨てる自由を持つことを彼らに確信させるために、パウロが用いたもう一つの方法でした。
繰り返しますが、十戒に対する服従についてパウロと聖書が教えていることから考えると、パウロがここでユダヤ人信者に、十戒がもはや拘束力を持たないと教えていると考えることは意味をなしません。これらの聖句を用いて、道徳律が廃止されたと主張する人たちは、実際にはそのことをあまり強調したくないのです。彼らが本当に言いたいのは、律法のうちの第7日安息日だけが廃止されたということです。これらの聖句を用いて、第4条が日曜日によって廃止され、取り替えられ、置き換えられたと教えることは、全く意図されていない意味をこれらの聖句に賦与することです。
律法は罪か
ローマ7:7はどうでしょうか。パウロの言う「律法」はシナイで与えられた制度全体のことであって、これは道徳律を含みますが、道徳律に限定されるものではありませんでした。キリストの犠牲を予示していた犠牲制度は、キリストの死と共に終息しましたが、神と人を愛する道徳律は残りました。それはシナイ以前からあり、カルバリー以後も存続します。
問3
ローマ7:8~11を読んでください。パウロはここで、律法と罪の関係について何と言っていますか。
神はユダヤ人に御自身を啓示し、道徳や民事、犠牲制度、食べ物に関して、何が正しく、何が悪いかを詳しくお示しになりました。神はまた、さまざまな律法の違反に関して与えられる刑罰について説明されました。啓示された神の御心に対する違反がここで罪として定義されています。
そこで、パウロは言います。もし「律法」によって教えられていなかったなら、自分はむさぼることが罪であることを知らなかったであろう、と。罪は啓示された神の御心に違反することであり、啓示された御心を知らないところには、罪の認識もありません。その啓示された御心を知るとき、人は自分が罪人であって、有罪宣告と死のもとにあることを認めるようになります。この意味において、その人は死ぬのです。
パウロは、律法は必要なものであったが、その機能は限られていたことを、明らかにしています。律法の役割は人の罪を明白にし、救いの必要を示すことであって、決して救いを得る手段を提供することではありませんでした。
「使徒パウロは…言う。『わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました』──彼は罪を自覚しなかった。『しかし、掟が登場したとき』、つまり神の律法が彼の良心に訴えたとき、『罪が生き返って、わたしは死にました』[ロマ7:9、10]。そのとき、彼は自分が神の律法によって有罪とされる罪人であることを認めた。死んだのは律法ではなく、パウロであった」(『SDA聖書注解』第6巻、1076ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。
聖なる律法
問4
ローマ7:12を読んでください。
律法は本来の目的にかなうかぎりは善いものですが、本来の目的にかなわないこと、つまり私たちを罪から救うことについては無力です。私たちが罪から救われるためには、イエスが必要です。なぜなら、律法は罪を示すだけで、救いをもたらしません。イエスへの信仰によって、イエスが私たちに与えてくださる義が私たちを救います。
問5
パウロは自分の「死」を何のせいにしていますか。それは何のせいではありませんか。この区別が重要なのはなぜですか。ロマ7:13
この聖句の中で、パウロは「律法」を善い意味に解釈しています。彼は自分の恐ろしく罪深い状態、「あらゆる種類のむさぼり」(8節)を、律法ではなく、罪のせいにしています。律法は善いものです。なぜなら、それは行動に関する神の標準だからです。しかし、パウロは律法の前に罪ある者として立っていました。
問6
罪がパウロを恐ろしい罪人に仕立てていたのはなぜですか。ロマ7:14、15
「肉の人」とは、「肉欲の人」のことです。パウロはイエス・キリストを必要としました。イエス・キリストだけが有罪宣告を撤回することがおできになりました(ロマ8:1)。パウロは自分自身を「罪に売り渡されている」と表現しています。彼は罪の奴隷であって、自由がありません。彼は自分が望む善を行うことができません。彼は善い律法の命じることを行いたいのですが、罪がそうさせません。
パウロはこの例話によって、ユダヤ人に救い主が必要であることを教えようとしていました。彼はすでに、勝利が恵みの下でのみ可能であることを指摘しました(ロマ6:14)。これと同じことがローマ7章でも強調されています。「律法」の下で生きることは、無情な主人である罪の奴隷であり続けることを意味します。
ローマ7章の人
問7
「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7:16、17)。これらの聖句はどんな葛藤について述べていますか。
聖霊は、律法を鏡として用いて、人に鏡を見させ、人が神の要求に逆らい、神の怒りの対象となっていることを悟らせてくださいます。罪人はこれらの要求に従おうと望み、律法が善い鏡であり、自分の罪を見せてくれるものであることを認めます。
問8
パウロはすでに述べたどんなことを、何のために再び繰り返していますか。ロマ7:18~20
エレン・G・ホワイトは言っています。「人々は、自分たちの心の罪深さと、キリストの助けがなくては神の律法を守ることができないことを自覚しなかった。そして、彼らは直ちに神と契約を結んでしまった。彼らは、自分たちの義を確立することができると感じて、『わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います』と宣言した(出エジプト記24:7)。……その後わずか数週間しかたたないうちに、彼らは神との契約を破り、偶像にひざまずいて礼拝したのである。彼らは、契約を破ってしまったために、神の恵みを受けることは望めなくなった。そして、自分たちの罪深さと、ゆるしの必要を認めた彼らは、アブラハムの契約にあらわされ、犠牲のささげものによって示された救い主が必要であることを感じるようになった」
(『希望への光』190ページ、『人類のあけぼの』上巻441、442ページ)。多くのクリスチャンは、日ごとにキリストへの献身を新たにすることを怠ることによって、実質的に罪に仕えています。明らかな罪をキリストのもとに携えてゆき、罪に勝利させてくださるように求める代わりに、彼らはローマ7章を勝手に解釈して、善を行うことは不可能であると言います。人は罪の奴隷となっているかぎり善を行うことはできず、イエス・キリストによってのみ勝利が可能です。
死から救われる
問9
ローマ7:21―23を読んでください。あなたはクリスチャンとして、これと同じ葛藤を経験したことがありますか。
パウロは、「肉では罪の法則に仕えている」と言っています(ロマ7:25)。しかし、罪に仕え、その法則に従うことは死を意味します(10、11、13節参照)。したがって、罪に従うことにおいて機能していたパウロの肉体は、「死に定められたこの体」と描写されるにふさわしいものでした。
「心の法則」は神の律法、神の御心の啓示です。聖霊の導きの下で、パウロはこの律法に同意しました。彼の心はそれを守りたいと望みましたが、守ることができませんでした。なぜなら、彼の体が罪を犯そうと望んだからでした。だれもが同じような葛藤を感じているのではないでしょうか。あなたの心は自分の望みを知っていますが、あなたの肉がほかのことを要求するのです。
問10
私たちはどうしたら、この困難な状況から救われますか。ロマ7:24、25
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という輝かしい勝利の叫びに到達した後で、パウロが再び、明らかに解放されたはずの魂の葛藤に言及しているのはなぜか、と不思議に思う人たちがいます。ある人たちはこの感謝の言葉を、いわば挿入句的な叫びと理解しています。このような叫びは、
「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という叫びに必然的にともなうものであると、彼らは考えます。それは輝かしい救いに関するさらなる議論に先立つものであると考えます(ロマ8章)。パウロは先の聖句で述べたことを要約し、改めて罪の力に対する葛藤を告白しているのです。
別の人たちは、「わたし自身は」というパウロの言葉が「キリストを離れて、自分自身だけでは」の意味であると考えます。一つの点だけははっきりしています。つまり、キリストを離れて、自分自身だけでは、罪に対して無力であるということです。一方、キリストが共におられるなら、私たちにはキリストによる新しい命があります。その中にあって、たとえ自我が絶えず出現しようとも、求めさえすれば、勝利の約束は私たちのものです。他人が自分に代わって息をすることができないように、だれもあなたに代わってキリストに従うことはできません。そうすることができるのはあなただけです。それ以外に、キリストによって私たちに与えられている約束を自分自身のものとする方法はありません。
まとめ
「律法を犯すことには、安全も安息も義認もない。人が罪のうちに留まっているうちは、神の前に罪のない者として立ち、キリストの功績を通して神と和解することを望むことができない」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻213ページ、英文)。
「パウロは、罪を赦す救い主の大いなる栄光がユダヤ教の全制度に意味を与えたことを知るように兄弟たちに望んでいる。彼はまた、キリストがこの世に来て、人の犠牲として死なれたとき、予型が対型に出会ったことを知るように兄弟たちに望んだ。キリストが十字架上で贖罪の献げ物として死なれた後、礼典律は効力を持たなくなった。しかし、それは道徳律と結びついていて、栄光に満ちたものであった。すべては神の印を帯びていて、神の神聖と正義、義を表していた。もし廃止されるべき制度の務めが栄光に満ちたものであったとすれば、キリストが現れていのちを与え清めてくださる聖霊を、信じるすべての人に与えてくださるときの現実はどれほど栄光に満ちたものとなることであろうか」(『SDA聖書注解』第6巻1095ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。
ローマ人への手紙の「章」は、後に便宜上付けられたものです。パウロは元々一つの長い手紙を書いたのです。よって、章・節の区切りを使いつつも、私たちは著者自身の思考の流れに沿って読むことが大切です。7章も、より大きな流れの中で理解しようとする時、以前は見えなかったパウロの思いを知ることができるかもしれません。
さて、現在形で登場する7:14~25の「わたし」は、6:19の「わたし」や8:18の「わたし」とは別人の「わたし」でしょうか。それはすべて、ローマの教会に手紙を書いているパウロのはずです。そうであるなら、「7章のわたし」が突然、改心前のサウロに変わるということがあるでしょうか。そして今、この特別を書いている「私」も、「わたしはなんというみじめな人間なのだろう」という葛藤を経験していることを告白します。そしてもちろん私は、罪を犯してもよいとは考えませんし、キリストによる勝利を信じています。
*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。