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ローマ8章は7章に対するパウロの答えです。パウロはローマ7章で、有罪宣告について語っています。ローマ8章では、有罪宣告がイエス・キリストが与える自由と勝利に変わっています。
パウロがローマ7章で述べていたのは、もしイエス・キリストを受け入れないなら、あなたは悲惨な経験をするということでした。あなたは罪の奴隷となり、自分の欲することができなくなります。パウロがローマ8章で述べているのは、キリスト・イエスがあなたを罪から解放し、望んでいても肉のゆえにできなかった善をなす自由を与えてくださるということです。
神の御子キリストは人性をお取りになりました。それは、キリストが私たちと関わりを持ち、私たちの完全な模範となり、私たちの身代わりとなって死ぬことのできる唯一の方法でした。キリストは、罪を犯した人のように、「罪深い肉と同じ姿で」地上に来られました(ロマ8:3)。そして、罪のない生涯を送り、罪を犯さない救い主が人の罪を負い、死んで、人の罪を法的に破棄なさいました(3節)。それが「その肉において罪を罪として処断された」の意味です。
神の愛についての驚くべき約束で満ちている8章全体を通して読んでください。これらの聖句は、「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めて」いる民としての私たちが持つべき希望について力強くあかししています(37節)。神はその愛によって、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」です(32節)。
有罪宣告からの解放
問1
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません(」ロマ8:1)。「罪に定められることがない」とは、どんな意味ですか。何から罪に定められることがないということですか。このことがそれほどよい知らせであるのはなぜですか。
「キリスト・イエスに結ばれている」という表現はパウロの手紙によく見られるものです。人がキリスト・イエスに「結ばれている」とは、彼がキリストを自分の救い主として受け入れていることを意味します。彼はキリストに絶対的に信頼し、キリストの生き方を自分自身の生き方とします。
「キリスト・イエスに結ばれている」は「肉の支配下にある」と正反対の状態です。それはまた、ローマ7章に詳述されている経験と対比されます。パウロは7章で、キリストに従う以前の有罪宣告の下にある人を肉的な存在、つまり罪に隷属する者として描いています。彼は死に定められています(11、13、24節)。彼は「罪の法則」に仕えています(23、25節)。彼は恐ろしく惨めな状態にあります(24節)。しかし、イエスに従うとき、神の前における彼の立場は一変します。それまで律法の違反者として有罪宣告の下にあった者が、今や神の前に完全な存在、一度も罪を犯したことのない者として立ちます。なぜなら、イエス・キリストの義が完全にその人を覆うからです。もはや有罪とされることはありません。イエスの完全な履歴がその人のものとされるからです。しかし、喜ばしい知らせはそれで終わりではありません。
問2
人を罪の奴隷から解放するものは何ですか。ロマ8:2
「命をもたらす霊の法則」とは、人類を救うキリストの計画のことです。それは、罪による支配の法則、最終的には死に至らしめる「罪と死との法則」と対極にあるものです。キリストの法則は命と自由をもたらします。
「神に献身しようとしない魂はみな、別の権力の支配下にある。彼は彼自身のものではない。彼は自由を口にするかもしれないが、最もあわれむべき奴隷状態にある。……彼は、自分自身の判断の命令に従っているとうぬぼれているが、実は暗黒の君の意思に従っているのである。キリストは、魂を罪の奴隷の束縛から切り離すために来られた」(『希望への光』915ページ、『各時代の希望』中巻255ページ)。
律法がなしえなかったこと
どれほど良いものであったとしても、律法や戒めは、私たちに救いを提供することができません。人を救うのは、キリストです。
問3
ローマ8:3、4を読んでください。律法がその性質上できないどんなことを、キリストは成し遂げてくださいましたか。
神は、御子を人の罪深い肉のさまでこの世に送り、その肉体の死によって人の罪を破棄されました。キリストの受肉は救いの計画における重要な一歩でした。十字架を高く掲げることは適切なことですが、罪深い人と同様の肉体をとられたキリストの生涯もまた、きわめて重要でした。
神がキリストを遣わすことにおいて成し遂げられた業の結果として、私たちは律法の義なる要求を満たすこと、律法が要求する正しいことを行えるようになりました。これは「律法の下」では不可能でしたが(ロマ6:14)、「キリストに結ばれている」今は、可能です。
しかし、律法の要求を行うことは、救いを得るに十分なだけ忠実に律法を守ることを意味するものではありません。それは単に、神が私たちに生きることを可能としてくださる人生を生きることです。それは服従の生活であり、「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」生き方であり(ガラ5:24)、キリストの品性を反映する生き方です。
4節にある「歩む」とは、「振る舞い」を意味します。ここにある「肉」とは、罪を自覚する前であれ後であれ、生まれ変わっていない人をさします。肉に従って歩むとは、利己的な欲望に支配されることです。対照的に、霊に従って歩むとは、律法の義なる要求を満たすことです。聖霊の助けによってのみ、私たちはこの要求を満たすことができます。キリスト・イエスに結ばれているときにのみ、律法の要求を満たす自由があります。キリストを離れては、そのような自由はありません。罪の支配下にある者は自分の欲する善を行うことができません(ロマ7:15、18参照)。
肉によらず霊による
問4
「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ロマ8:5、6)。ここに、どんな基本的なことが教えられていますか。
上記の聖句にある「~に従って」は、「~によって」(ギリシア語で、“カタ”)の意味に用いられています。「~を考え」は、心を留めることを意味します。一方のグループは生まれながらの欲望を満たすことに心を留めますが、もう一方のグループは霊に属することに心を留め、神の命令に従います。心は行動を決定するので、両者の生き方・行動は異なったものとなります。
問5
肉の思いにできないことは何ですか。ロマ8:7、8
肉の欲望を満たすことに心を向ければ、神と敵対関係になります。そのような心の人は神の御心を行うことに無関心です。彼は神に反逆し、神の律法を公然と侮蔑することさえあります。
パウロは、キリストを離れては神の律法を守ることができないと言っています。人はどれほど熱心に努力しても、キリストを離れては律法に従うことができません。パウロの目的は、ユダヤ人が「トーラー」(律法)以上のものを必要としていることを彼らに納得させることでした。ユダヤ人は自らの行動によって、自分たちが神の啓示を与えられているにもかかわらず異邦人と同じ罪を犯していることを示していました(ロマ2章)。これらすべてのことが教えているのは、彼らがメシアを必要としていることでした。メシアがいなければ、彼らは罪の奴隷であって、罪の支配から逃れることができません。
ユダヤ人は、神が旧約聖書の中に与えておられる律法や戒めを救いの手段として守ることは、救いに十分でないことを理解しませんでした。ユダヤ人のこれまでの行いがみな良いものであったことは、パウロも認めました。しかし、彼らはまた、すでに来られたメシアを受け入れる必要がありました。
私たちの内に宿る聖霊
パウロは、神の御霊が宿っている人は、霊におるのであって、肉におるのではないと言っています。一つは、霊のうちにあり、霊に属し、霊に導かれて生きることであり、もう一つは自分自身の罪深い、肉なる性質に属し、情欲に従って生きることです。前者は永遠の命につながり、後者は永遠の死につながります。中立の立場はありません。キリストの霊を宿しているなら、その人は「キリストのもの」(8:9)であり、キリストの霊に属しており、新しいいのちへ生かされます。
問6
ローマ8:9~14を読んでください。心からキリストに従う人たちにはどんな約束が与えられていますか。
ギリシャ語の前置詞エン「……の中、内に」は、口語訳の「……におる」がよい訳と思われます。「肉におる」生き方は「霊におる」生き方と対比されています。「霊におる」生き方とは、神の霊、聖霊によって導かれる生き方です。聖霊はこの章でキリストの霊と呼ばれています。それは、聖霊がキリストの代表者であって、聖霊を通してキリストが信者の内に宿られるという意味です(9、10節)。比喩的に、バプテスマにおいて、「罪の体」、つまり罪に仕えた体は死にました。
「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」(6節)。しかし、バプテスマに埋葬と復活があるように、バプテスマを受けた人は新しい命に生きるために復活します。これは古い自分が死ぬことを意味します。私たちは、日ごとに、そうしなければなりません。神は人間の自由意志をなくされません。罪の古い自分が死んだ後も、罪を犯すことはなお可能です。パウロはコロサイの信徒に次のように書き送っています。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」(コロ3:5)。このように、回心後も、なお罪との闘いは続きます。違うのは、心に聖霊の宿る人には、勝利をもたらす神の力が与えられるということです。彼は奇跡的に罪という奴隷監督者から解放されたのですから、二度と罪に仕えないようにする義務があります。
子か奴隷か
問7
パウロはキリストに結ばれた新しい関係をどのように描写していますか(ロマ8:15)。この約束は私たちにどんな希望を与えてくれますか。
神と人との関係は、父と子として描かれています。神と救われる人との関係は、主人と奴隷との関係ではありません。荘園の主人と小作人たちとのあいだの宗主権契約でもありません。イエス・キリストを受け入れる人は神の子となります。彼は自発的にキリストに奉仕します。彼は恐れることなく奉仕します。「完全な愛は恐れを締め出」すからです(Iヨハ4:18)。神の家族となることによって、彼は限りない価値を持った天国の相続人となります。
「隷属の霊は律法主義的な宗教によって生きようとすること、自分自身の力によって律法の要求を満たそうとすることによって生まれる。アブラハムの契約、つまりキリスト・イエスを信じる信仰による恵みの契約に入ることによってのみ、私たちには希望がある」(『SDA聖書注解』第6巻1077ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。
問8
神が私たちを子どもとして受け入れてくださったという保証は何によって与えられますか。ロマ8:16
私たちが受け入れられていることは、聖霊の内なるあかしによってわかります。感情だけに頼ることは安全ではありませんが、知っている限り御言葉の光に従っている人は、自分が神の子供として受け入れられていることを確証する内なる声を聞くはずです。事実、ローマ8:17には、私たちは相続人であると書かれています。私たちは神の家族の一員であり、相続人、子どもとして、父なる神から驚くべき財産を受けるのです。私たちはそれを自分で獲得するのではありません。それは神から与えられた神の子という身分のゆえに私たちに与えられるのです。この身分は私たちのためのイエスの死のゆえに可能となった神の恵みを通して私たちのものとなりました。
まとめ
「救いの計画はこの世において苦しみと試練のない生涯を信者に約束するものではない。むしろ、それはキリストに従って同じ自己否定と恥辱の道を歩むように彼らに要求する。……キリストの民のうちにキリストの品性が見られ、現されるのはそのような試練と迫害を通してである。……キリストの苦しみにあずかることによって、私たちは教育され、鍛練され、来たるべき世の栄光にあずかるにふさわしい者とされるのである」(『SDA聖書注解』第6巻568、569ページ、英文)。
「神の御座から降ろされている鎖は最も低い深みにまで届くだけの長さを持つ。キリストは最も罪深い者たちを堕落の底から引き上げて、神の子ら、すなわちキリストと共に不朽の遺産を受け継ぐ者たちとして認められる地位に据えることがおできになる」(『教会へのあかし』第7巻229ページ、英文)。
「全天から崇められるお方がこの世に来て、人性をとって人類の先頭に立ち、堕落した天使と清い諸世界の住民の前で、備えられている神の助けによってすべての者が神の命令に従って歩むことができることを証しされた。……私たちの身代金は私たちの救い主によって支払われた。だれひとりサタンの奴隷になる必要はない。キリストは私たちの力強い助け主として私たちの前に立たれる」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻309ページ、英文)。
ローマ書では12章まで「しなさい」という命令がほとんど登場しません。十戒も「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言で始まっています(出エジプト20:2)。ローマ11:36まで私たちは、「である」をしっかりと聞きましょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。