【申命記】永遠の契約【解説】#3

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黙示録には、「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」(14:6)とあります。ここに出てくる「永遠の福音」という言葉に注目してください。この永遠は、常に存在し、いつもそこにあり、「永遠の昔に」イエス・キリストにあって約束されたものであることを意味します(テト1:2)。

したがって、聖書が「永遠の契約」(創17:7、イザ24:5、エゼ16:60、ヘブ13:20)について述べていることも不思議ではありません。なぜなら、福音の本質は契約であり、契約の本質は福音であるからです。神はその恵みと愛ゆえに、あなたが受けるに値しない救いをあなたに提供してくださるのです。その愛に応えて私たちは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」主を愛するのです(マコ12:30)。「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(1ヨハネ5:3)とあるように、この愛は主の律法に従うことによって表されます。

私たちは、申命記に表現されている契約という思想と、そこに明示されている契約に含まれる意味を学びます。

契約と福音

聖書の全体を通して、契約と福音は一緒に見られます。ノアに与えられた契約など、イスラエル国家が誕生する以前に契約という概念も、契約による約束もすでに存在していました。そのことは、父祖や族長たちをはじめとする民との神の関わりの中に顕著に表されました。そして、契約の中心的な真理は、最初から「信仰のみによる救い」という福音でした。

問1

創世記12:1~3、15:5~18、ローマ4:1~5を読んでください。神はアブラム(後のアブラハム)とどんな契約を結ばれましたか。この契約の約束の中に福音はどのように表されていますか。

アブラハムは神を信じ、神の約束を信じました。それで、彼は神の前に義と認められたのですが、この宣言は決して「安価な恵み」(cheapgrace)ではありません。創世記22章にあるように、彼はモリヤ山で服従によって、神との契約における彼の側の責務を全うしました。数世紀後にパウロが、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(ロマ4:3)と書いて、契約の約束によって生きるとは何を意味するかを示すためにアブラハムをその例として用いたのはそのためです。

これは聖書全体を貫いて流れるテーマです。パウロはガラテヤ3:6でも、「彼の義と認められた」アブラハムの信仰について、再度、創世記15:6を引用しています。契約の約束は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、「信仰によって生きる人々」(ガラ3:7)すべてに対して結ばれたものであり、律法によらず信仰によって義と認められる人々は、強いられてではなく、それが契約であるがゆえに律法に従うのです。

エレミヤは、律法の文脈の中で新しい契約について次のように語りました。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレ31:33)。このみ言葉はレビ記の、「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」(レビ26:12)とのみ言葉を思い起こさせます。

契約とイスラエル

問2

「あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである」(申命記9:5、同9:27も参照)。この聖句には、どのように契約の約束の現実性が示されていますか。

ここにも恵みの契約が登場しています。神は、民の度重なる過ちにもかかわらず、彼らのために働かれました(今日でも、確かに福音はこのように働かねばなりません)。そして、父祖たちと結ばれたこの契約のゆえに、神の恵みはその子孫に与えられたのです。

モーセは契約の約束を与えられた民全体に語るとき、その契約が先祖たちと結ばれたものであることにしばしば触れました。

問3

出エジプト記2:24、6:8、レビ記26:42を読んでください。これらの聖句は、契約の約束がどのように働くかについて何を語っていますか。

神の救いの恵みの大いなる象徴であるエジプトからの救出も、主が彼らの祖父たちと結ばれた契約に基づくものでした。つまり、その契約の受益者たちが生まれる前に、約束は彼らのために交わされていたのです。したがって、彼らは、(控えめに言っても)自らの功績なしに、神による奇跡と出エジプトの出来事を通して、約束されていた救出にあずかったのでした。

もちろん、この物語はここで終わっていません。彼らはエジプトを出て、どこへ行ったでしょうか。契約が「正式に」制定されたシナイへ行ったのでした(出20章参照)。その契約の中心は、福音と律法(十戒)であり、彼らは十戒に従うために召され、その十戒は、彼らをすでに救出しておられた主との救いの関係(福音)を世に示すものでした。そのようなわけで、申命記の中では何度も何度も、シナイで批准された契約のうち、彼らが果たすべき部分である律法に従うように召されているのです。

契約の書

神とその民との関係を表す契約という思想は、聖書全体を貫いていますが、申命記には非常に多く見られるために、「契約の書」と呼ばれます。

問4

申命記5:1~21を見てください。契約という考え方が、申命記の中心的なものであることを示すどんな出来事が書かれていますか。

イスラエルの子らがエジプトから救出されてほどなく、彼らがかつて約束の地を前にしたときのように、神はシナイで彼らと契約を結ばれました。それから、40年間の遠回りの後、再び約束の地を前にしたときのように、契約の約束の中心を成す部分として(創12:7、出12:25参照)、主はモーセの口を通して再び彼らに十戒をお与えになります。それは、彼らが神との契約に伴う義務の重要性を再認識するために必要なことだったのです。

主は、彼らと結んだ契約の約束を成就しようとしておられました。しかし今、契約において彼らの側で果たすべき義務が示されます。「主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された」(申4:13)。神は十戒をシナイでお与えになり、今一度、数世紀前に彼らの父祖たちと結ばれた約束によって、彼らが約束の地を取ろうとするその前に、モアブで再度十戒をお与えになりました。しかし、この「永遠の契約」は実に、世界が存在する前にすでに天で立てられていたのです。

「地の基が置かれる前から、天父とみ子は、人がもしサタンに征服されたらこれをあがなうという契約に一致しておられた。キリストが人類の保証人になられるという厳粛な誓約をおふたりはかわしておられた」(『希望への光』1117ページ、『各時代の希望』下巻386ページ)。

問5

申命記5:3を読んでください。私たちはこの聖句をどのように理解することができるでしょうか。

モーセはここで、彼らの父祖たちはすでに亡くなっており、父祖たちと結ばれたすばらしい契約の約束は今、彼ら自身と結ばれているのだという事実を強調しているようです。これは、モーセが彼らに父祖たちの失敗を繰り返させないための方法だったのかもしれません。約束(とその義務)は今、彼らのものなのです。

神の特別な民

現代の私たちにとって、イスラエルが荒れ野をさまよった時代の古代の世界について多くを知ることは難しいことです。大帝国でさえ、(もし残っていれば)遺跡を残すのみで、そのすべてが消え去ってしまったのだとすれば、イスラエルと同じ地域の多くの異教の小国について知ることはさらに困難です。

しかし、多くはありませんが、一つのことはわかっています。それは、これらの民が偶像崇拝と多神教に染まり、ある民は子どもを犠牲としてささげるなど、完全に堕落しきった行為に走っていたという事実です。いかなる理由であろうと、神の名のもとに自分の子どもにそのようなことを命じるほど堕落した邪悪な文化や宗教を想像できるでしょうか。

疑いなく、何度も何度も、古代イスラエルの全歴史を通じて、主はその民に、周囲の民に倣うことへの警告を与え続けてこられました。「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない」(申18:9)。

だからこそ、神はこの民を特別な目的のために召し出されたのです。神との契約に入ることによって、彼らは特別な民となり、世に天地を創造された神、唯一の神の証人となるのでした。

問6

申命記26:16~19を読んでください。ここに神とイスラエルの間の契約関係がまとめられています。契約に忠実であることが、彼らをどんな民にするのかを世に示すべきでした。そこから私たちはどんな教訓を学ぶことができますか。

モーセがこの4節の中に「今日」という言葉を、「今すぐ」という意味を込めて3回も用いていることに驚きます。彼は17節に再度、神が命じておられることを繰り返し、これらすべてを行うよう民に命じます。忠実で聖なる民となることによって、契約の民として召し出された真の理由である特別な民となるように迫っているかのようです。彼らこそが、真の神を知り、その神についての真理を知り、神が民に望んでおられる生き方を知っている唯一の民でした。真の意味において、彼らは「現代の真理」を持っていただけでなく、彼ら自身を通して、「真理」そのもの(ヨハ14:6)であるイエスがおいでになるときまで、その真理を世にあって体現する民となるのでした。

他のたとえ

イスラエルと神との間の契約と諸王国間の契約的合意との間には類似点があると、聖書学では長く考えられてきています。しかしこの類似は驚くには及びません。主は単純に、彼らが理解できる社会的・文化的環境で神の民と共に働かれたのです。

また、契約という考え、すなわち規則、約定、規定に基づく二者間の法的合意は非常に冷たく形式的なものに見えます。確かにそのような要素はありますが、人の作った契約制度は、神がその民との関係に望まれる深く、広い関係を十分に表してはいません。ですから、神とイスラエルの間の契約を描くために、申命記では他のたとえを用いて、その描写に奥行きを与えています。

問7

申命記8:5、14:1、32:6、18~20を読んでください。ここではどんなたとえが、神がイスラエルに望まれる関係を描写するために用いられていますか。

問8

申命記4:20、32:9を読んでください。ここではどんなたとえが、神がイスラエルに望まれる関係を描写するために用いられていますか。

それぞれのたとえに共通するのは家族という考えです。理想的には、そこには最も近しい、親密な、そして最も愛しい絆があるはずです。神はいつでもその民との間に、そのような関係をお望みになります。十字架を前にした、弟子たちの恥ずべき否認の後でさえ、復活されたイエスはマリアに次のように言われました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタ28:10)。復活された後でさえキリストは、弟子たちを「兄弟たち」とお呼びになりました。それは愛の模範であり、間違いなくそれを受けるに価しない者たちへの、愛から流れ出る恵みでした。それは神と人類の間に常にある関係の本質、すなわちそれを受けるに値しない者に与えられる恵みと愛なのです。

さらなる研究

「捕らわれの精神は、律法の要求に自分の力で応えようとする、善行による救済の宗教に従って生きることによって生まれる。私たちの唯一の希望は、アブラハムの契約の下に行くことにある。それはイエス・キリストにある信仰による恵みの契約である。アブラハムに語られた福音は彼に希望を与えたが、同じ福音が今日、私たちに語られており、私たちもその中に希望を見いだすのである。アブラハムはイエスのうちに、信仰の創始者であり、その完成者であるお方を見ていたのである」(『SDA聖書注解』第6巻1077ページ、英文)。

「地の基が置かれる前から、天父とみ子は、人がもしサタンに征服されたらこれをあがなうという契約に一致しておられた。キリストが人類の保証人になられるという厳粛な誓約をおふたりはかわしておられた。この誓約をキリストは果たされたのである。十字架上でキリストが、『すべてが終わった』と叫ばれた時、彼は天父に向かって話しかけられたのであった(ヨハネ19:30)。契約は完全に果たされた。そしていまイエスは、こう宣言される。父よ、すべてが終わりました。わが神よ、わたしはあなたのみこころをなしました。わたしはあがないのわざを完結しました。もしあなたの正義が満足させられましたならば、『あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい』(ヨハネ17:24)」(『希望への光』1117ページ、『各時代の希望』下巻386ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

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