【申命記】あなたの神、主を愛しなさい【解説】#4

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ユダヤの宗教における最も重要な祈りの一つが申命記6章にあります。「シェマ」として知られるその祈りは、その祈りの最初のヘブライ語に基づくものです。シェマの語根「シャマ」は、「聞くこと」あるいは「従うこと」という意味を持っており、申命記だけでなく、旧約聖書全体を通して何度も出てくる言葉です。

そのシェマの最初の行は次のように始まります。

「シェマイスラエルアドナイエロへーヌアドナイエハッド」

その意味は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申6:4)となります。ユダヤ人がこの祈りをするときには、目を覆い、神を思う思い以外の邪念を捨てます。シェマの最初の行は、唯一の神としての「アドナイエロへーヌ」すなわち、「我らの神」を表明しており、また他のいかなる「神」でなく、ただ唯一の神へのイスラエルの忠誠を表明しています。

この行は、モーセが約束の地を前に、イスラエルの子らに語った最初の説教の一部です。しかし、この最初の行に続く力強い真理の表現は、当時そうであったように、現代の私たちにも変わらず非常に重要なものです。

神を愛すること

イスラエルの子らに彼らの歴史を思い起こさせた後、モーセは彼らが約束の地に入り、そこで繁栄するためにすべきことを教えます。実に、申命記の大部分はこの教えによって占められているとも言えます。すなわち、主との契約において彼らがなすべきことが教えられています。主は彼らの父祖と結ばれた約束を成就するために、この時、恵みによって彼らと再度契約を結ばれるのでした。

申命記6章は次のように始まります。

「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである」(申6:1、2)。

問1

申命記6:4、5を読んでください。5節で主なる神は、イスラエルの子らにどのように命じておられますか。それは何を意味していましたか。

心を尽くして主なる神を愛しなさい。興味深いことに、律法の中心に、すべての警告、規則、規定のただなかに、神を愛するように命じられているのです。さらに、ただ神を愛するだけでなく、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」主を愛しなさいと命じられているのです。それはこの愛の絶対性を示すものです。

心と魂と力を尽くして神を愛するとは、私たちの神への愛は、あらゆる物、あらゆる人への愛にまさる至上の愛でなければならないことを意味します。なぜなら、主は私たちの命、存在、すべての基礎であり根拠であるからです。神への愛は、あらゆるものへ私たちの愛を、そのあるべき場所に置くものです。

〔日本語訳の聖書にはありませんが〕ヘブライ語では、あなたの神、あなたの心、あなたの力、のように、単数形で「あなたの」が表記されています。ここで神は、民全体に対して語っておられますが、全体は部分があってのみ力を得るように、大きな体の部分であっても、神は私たち1人ひとりに、個人として主に忠実であるように求めておられます。そしてその忠誠心の基礎となるものは、神が誰であり、神が私たちのために何をされたかのゆえに、私たちの中に生まれる神への愛にほかならないのです。

神を畏れること

モーセはイスラエルの子らに、彼らの持てるすべてで神を愛するように命じました。それは命令でした。しかし、その数節前に、モーセは彼らにもう一つのことを命じています。それは「あなたの神、主を畏れ」ることでした(申6:2)。

問2

申命記10:12を読んでください。この聖句は、愛と畏れについて何を語っていますか。また、どのようにこれを理解すれば良いでしょうか。

一つの聖句の中で、神を畏れつつ、同時に愛するように命じられています。神を畏れるということは、神がどんなお方であるか、すなわちその権威と力、正と義のゆえに畏れ敬うことです。それは特に、私たちの罪深さ、弱さ、そして完全に神に依存する存在であることを知るとき、私たちの中に自然に湧き上がる反応です。私たちは堕落した存在であり、神の律法に違反した存在であり、罪の宣告と永遠の死に値する存在であるにもかかわらず、神の恵みによって生かされているからです。

問3

エフェソ2:1~10を読んでください。これらの聖句は、私たちが神を畏れ、同時に愛することを理解するために、どのように助けとなりますか。

私たちは、「神の怒りを受けるべき者」であったにもかかわらず、キリストは私たちのために死んでくださり、それによって私たちに、キリストの内にある新たな命が与えられたのです。それは、罪と過去の罪の宣告からの解放を含みます。

古代イスラエルに適用されたこの同じ原則は、今日の私たちにも真実です。彼らはエジプトの捕囚となり、苦役と圧制の下にありましたが、それはただ、彼らに注がれた神の愛と慈悲が、彼らを大いなる救済へと導くためでした。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」(申5:15)。ですから、彼らにとって、神を愛し、同時に畏れることは必然でした。彼らがそうしたのなら、私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエスの大いなる真理を持っている私たちは、なおさらそうすべきではないでしょうか。

神がまず愛してくださった

申命記に書かれている規則や規定、ユダヤ民族は「神の戒め、神の裁き、神の法則」に従わなければならないという警告と訓戒が与えられている状況においても、彼らは何よりもまず、心と魂と力を尽くして神を愛さなければなりませんでした。もちろん、彼らにはそうすべき十分な理由がありました。

問4

申命記4:37、7:7、8、13、10:15、23:6〔口語訳23:5〕、33:3を読んでください。これらの聖句は神の民に対する愛について何を教えていますか。

モーセは申命記の中で、彼らの父祖と彼らに対する神の愛について繰り返し語っています。しかし、主は言葉だけでなく、行為によってその愛を示されました。すなわち、彼らの欠点、失敗、罪にもかかわらず、彼らに対する神の愛は変わることはありませんでした。その愛は、主の彼らに対する忍耐の中に、はっきりと示されています。

問5

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(1ヨハ4:19)。この聖句は、なぜ私たちが神を愛すべきなのかを、どのように教えていますか。

私たちに対する神の愛は、私たちが存在する前から注がれており、救いの計画は「天地創造の前に」(エフェ1:4)その愛の中ですでに立てられていました。

エレン・G・ホワイトは次のように述べています。「われわれをあがなう計画は、あとで考え出されたもの、すなわちアダムの堕落後に定められた計画ではなかった。それは、『長き世々にわたって、かくされていた奥義』のあらわれであった(ローマ16:25)。それは永遠の昔から神の統治の根本となってきた原則のあらわれであった」(『希望への光』676ページ、『各時代の希望』上巻5ページ)。

神がこのようなお方であることは、なんと幸いなことでしょう。神は愛の神であり、その愛は私たちのために十字架にかかるほど大きく、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリ2:8)な自己犠牲的な愛でした。このように、今日の私たちは、イスラエルの子らが想像もできなかったような、私たちに対する神の愛の啓示を持っているのです。

わたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい

イスラエルは民族全体として神を愛するように召されていました。しかしそれは、民1人ひとりによってのみ実現するのでした。自由な意思を与えられた1人の人間として、イスラエルの民1人ひとりが神を愛することを選ぶ自由を持ち、彼らはその愛を服従によって示すのでした。

問6

次の聖句に共通するテーマは何ですか。

申命記5:10、申命記7:9、申命記10:12、13、申命記11:1、申命記19:9

み言葉の要求は明白です。それはちょうど神が、単に言葉だけでなく、過去の行為と、そして現在も進行中の行為によってその愛を示してくださっているのと同じように、神の民もまた神への愛を行為によって示すのです。これらの聖句は神への愛は神への服従と切り離すことができないことを教えています。

ですから、ヨハネは「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(1ヨハ5:3)と言い、イエスが「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(ヨハ14:15)と言われたのです。これらの聖句はこの基本的な教えを表現しているにすぎません。神への愛は常に神への服従に表れます。過去においても未来もこの原則は不変です。そして神への服従は、神の律法、すなわち第四条の安息日を含む十戒への服従を意味します。十戒の第四条を守ることは、ほかの九つの戒めを守るのと同じように律法主義ではありません。

戒めに従うことが律法主義になることもありますが、そのような従順さは神への愛から出たものではありません。私たちが真に神を愛するとき、特に神がキリストなるイエスの内になされたことを思うとき、私たちは神に従いたいと思うのです。なぜならそれは神が求めておられることだからです。

モーセが繰り返しイスラエルに神を愛し神に従うように命じたのは、エジプトからの救出後でした。彼らの愛と服従は、彼らを救い出された神への応答でした。彼らは主によって贖われたので、主の掟に忠実に従うのです。それは今日も同じです。

第一の戒め

クリスチャンの中にはさまざまな理由から、旧約聖書を新約聖書と切り離そうとする人々がいますが、それはできないことです。それは、すべてではないにしろ、部分的に新約聖書の真の意味を失わせることになります。新約聖書は、イエスを啓示し、その生涯、死、復活、そして大祭司としての働きについて神学的説明を加えることによって、多くの旧約聖書の預言と型の成就を指し示しています。さまざまな形で、旧約聖書は新約聖書の背景、文脈、そして基礎となっています。旧新約両方が神の慈しみと愛を啓示しているのです。イエスを含めて新約聖書が繰り返し旧約聖書を引用している理由がここにあります。

問7

マルコ12:28~30を読んでください。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」との問いに、イエスは何と答えられましたか。それはどこからの引用でしたか。

律法とその適用を知るために人生を費やしてきた律法学者がこの質問をしたことは興味深いことです。しかしながら、彼らが従うべきであると信じていた多くの律法のすべてが(後にユダヤ人の伝統は、律法は613であるとしている)、たった一つの質問に集約されたことは驚くに及びません。

イエスはどうされるでしょうか。

主はすぐに申命記6章から「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(4節)を引用し、心と魂と力を尽くして神を愛しなさいとの次の節も引用されます。イエスは主を神、唯一の神とする主張を指し示されました。この大いなる真理に基づいて、彼らは第一に神を愛するように召されたのです。

この命令にまさる「現代の真理」があるでしょうか。最終時代に、最後の出来事が起き、誰もが皆、どちらの側に付くかを劇的な方法で選ぶとき、神の戒め(黙14:12)が決定的な役割を果たすでしょう。

最終的に私たちが選ぶ側は、それが迫害に直面することであろうと、私たちが真に神を愛しているかどうかにかかっているのです。それは決断の問題です。私たちは、私たち自身で神を知り、神の慈しみ、愛、そして恵みを体験するときにのみ、心と魂と力を尽くして神を愛することができるようになるのです。もし必要なら死をもいとわない愛を持つことができるのです。

さらなる研究

「キリストの十字架は、永遠にわたって、贖われた者たちの科学となり歌となる。栄光につつまれたキリストのうちに、彼らは、十字架につけられたキリストを見る。広大な空間に、数えきれないほどの諸世界を、その力によって創造し、支えておられるお方、神の愛するみ子、天の大君、ケルビムや輝くセラピムが喜んであがめるお方、そのお方が、堕落した人類を救うために身を卑しくされたことは、決して忘れられることがない。また彼が、罪の苦痛と恥とを負われ、天父からはそのみ顔を隠されて、ついには失われた世界の苦悩がその心臓を破裂させて、カルバリーの十字架上でその命を絶たれたことは、決して忘れられることがない。諸世界の創造者、すべての運命の決定者が、人類に対する愛から、ご自分の栄光を捨てて、ご自分を卑しくされたことは、いつまでも宇宙の驚嘆と称賛の的となる。救われた諸国民が、贖い主を見て、そのみ顔に天父の永遠の栄光が輝いているのをながめる時、また、永遠から永遠にいたるイエスのみ座をながめ、イエスのみ国には終わりがないことを知る時、彼らはどっと歓喜の歌声をあげて、『ほふられた小羊、ご自身の尊い血によって、わたしたちを神に贖って下さったおかたは、賛美を受けるにふさわしい、賛美を受けるにふさわしい』と叫ぶのである」(『希望への光』1917ページ、『各時代の大争闘』下巻433、434ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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