【申命記】あなたの門の内にいる寄留者【解説】#5

目次

この記事のテーマ

前回学んだように、イエスは1人の律法学者の「第一の掟」についての問いに答えて、唯一の神である主をお認めになり、「第一の掟は、これである……。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とお答えになります(マコ12:29、30)。

しかしながら、イエスは続けて、律法学者が尋ねていない「第二の掟」についてもお語りになります。イエスはその掟の重要性について十分ご承知の上で、「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マコ12:31)と宣言されます。

イエスは、これらにまさる掟はない、とまで言われました。イエスは神への愛と隣人への愛を結びつけて、すべてにまさる掟とされたのでした。

イエスは、ユダヤ人が聞いたことのなかった新しいことを言われたのではありません。神を第一に愛しなさいとの召しは、隣人を愛すること、すなわち、神への愛を表現する方法として他者を愛するという思想として、すでに申命記の中に示されていたのです。

心の包皮を切り捨てよ

申命記9章に続く10章は、基本的に神がイスラエルと結ばれた契約の再確認です。実際、申命記のほとんどは、神の契約の更新です。それは民が、モーセが彼らから離れたほんのわずかの間に堕落し、偶像を造ったホレブでのいまわしい罪の後でさえ、主はなお彼らをお見捨てにならなかった事実にも表れています。

問1

申命記10:1~10を読んでください。神がなおもその民の罪を赦し、父祖たちと結ばれた契約の約束を更新されたことについてどのように記されていますか。

モーセは十戒の石の板を投げつけて砕きます(申9:17)。それは契約の破棄を意味しました(申32:19)。「モーセは、彼らの犯罪に対する大きな憎悪を表すために、石の板を地に投げ捨て、人々の面前でそれを破壊してしまった。こうして、彼らが神の契約を破ったのと同様に、神の側でも、彼らと結んだ契約を破棄なさったことを示した」(『希望への光』163ページ、『人類のあけぼの』上巻376ページ)。

このように、神がモーセに、「前と同じように」新しい石の板を切り出し、最初の板に刻まれたみ言葉を記すようにお命じになった事実は、神が民をお赦しになり、そのような大きな罪の後でさえ、なお民を滅ぼされなかった恵みを示しています。

問2

申命記10:14~16を読んでください。ここで主がお用いになった例〔心の包皮を切り捨てること〕の示す意味は何でしょうか。

ここで、包皮、心、うなじ〔新改訳2017参照〕など、いくつかのたとえが出てきますが、ポイントは明白です。割礼は契約のしるしですが、それは単なる外面のしるしです。神は彼らの心、すなわち、彼らの思い、愛情、愛をお求めになったのです。「うなじを固くする」(申10:16、新改訳2017)という表現は、彼らの主に従わないそのかたくなさを表しています。そして、この場面に限らずいつでも、主は基本的に、彼らがその気まぐれな忠誠心を捨て、心を尽くし、精神を尽くして主に仕えることをお求めになっているのです。

神があなたの罪を赦してくださったことをすべて思い返してください。それらの経験は主の恵みについて何を語っていますか。

寄留者を愛しなさい

これらの訓戒の中でモーセは、次のように宣言します。「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」(申10:14)。なんと力あふれる主の主権への賛美でしょうか。聖書はほかにも次のように述べています。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの」(詩編24:1)。

問3

申命記10:17~19を読んでください。モーセはここでさらに、神に対するどんな賛美をささげていますか。そして、さらにその結果として、主の民にどのように命じていますか。

ヤハウェの神は、ただ天と地を治められるだけでなく、「神々の中の神、主なる者の中の主」です(申10:17)。これは、周囲の異教の民が拝んでいたような、主に劣る仮想の神々が存在することを意味しているのではありません。それは、唯一の神の存在を表現する手法の一つです(「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない」〔同32:39〕)。それは主の、見えるものも見えないものも、天にあるものも地にあるものも、すべてのものにまさる至上権を主張する表現です。

申命記は次のように続けます。「偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず」(申10:17)。これはすべて、ヤハウェはあなたの神であり、あなたは主の民であり、主に従わねばならない、との大いなるメッセージの一部なのです。

ここにまた、力強い対比がなされています。ヤハウェなる主は、神の中の神、主の中の主であり、万物を支配し、支えておられる神でありながら(コロ1:16、17)、孤児、寡婦、寄留者を守り、愛して、彼らの日々の物質的必要に応えられる神でもあるのです。1羽のすずめも地に落ちないように顧みられる神は(マタ10:29)、社会の片隅で苦しむ人々のこともご存じです。言い換えれば、主はあなたにこう言われるのです。「あなたは特別な存在です。私はあなたを愛しています。しかし私は、あなたたちの中で困っている人、助けを必要としている人も愛しています。だから、私が彼らを愛するように、あなたも彼らを愛しなさい。これが、私があなたと結んだ契約に伴う重要なあなたの義務です」

あなたたちもエジプトの国で寄留者であったのだから

問4

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10:19)。イスラエルへのこのメッセージは私たちに何を語っているでしょうか。

数世紀前に主は、「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう」(創15:13、同17:8、使徒13:17も参照)とアブラムにお語りになりました。もちろん、この記述は、出エジプト記の前半の章に、彼らの劇的な贖い(出15:13)とエジプトからの救出(同14:13)の物語として、彼らの子孫のために書かれたものですが、それは同時に、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた贖いと救済のしるし、型でもあります。主は彼らに、彼らがどこにいて、何であったか、すなわち、彼らは異国で寄留者であったことを思い起こすように望まれたのでした。

言い換えれば、かつて自分たちが奴隷として社会の片隅に追いやられ、自分たちよりも強く、虐げようとする者たちからなすがままにされていたことを思い出すようにと言われているのです。イスラエルは、「祭司の王国」(出19:6)として神に召し出された選民であり、彼らの内にいた寄留者たちとは、特に礼拝行為において違いがありました。しかし、「人権」に関しては、寄留者、孤児、寡婦に対しても、自分たちが望んでいたように公平で公正な扱いをするべきでした。

問5

マタイ7:12を読んでください。この聖句は、主がイスラエルに、彼らの内の弱者に対して望まれた扱いをどのように要約していますか。

社会の片隅にいる人々が動物以下の扱いを受けていた古代社会の常識では、イスラエルへのこの勧告はありえないことでした。

しかし、諸国民を照らす光であるイスラエルは、周辺諸国とは違っていなければなりませんでした。その違いは、彼らが礼拝する神、その礼拝の方法、そして神が彼らにお与えになった真理を表す宗教体系全体を通して表されるものでした。さらに、社会的弱者に対する彼らの親切な扱いは、彼らの神と彼らの信仰の優越性を世界に示す力強い証しになったはずです。世界に対してそのように神を証しすることは、彼らが存在する意味そのものでした。

正しい裁き

神を信じる者として、私たちは神のご品性を反映するように召されています。パウロは次のように書いています。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラ4:19)。つまるところ、罪によって損なわれはしましたが、私たちは元々「神のかたちに」造られたのです(創1:27、口語訳)。そしてこれまで学んできたように、モーセは神の力と威厳について語ると同時に、神は賄賂を取らず、弱い者、捨てられた者を顧みるお方であることも述べているのです。神がそのようなお方であられるので、私たちもそのような者になる必要があるのです。

申命記の次の聖句に共通することは何ですか。

申命記1:16、申命記16:19、申命記24:17、申命記27:19

主ご自身がここで語っておられることは、注目に値します。人間社会のどこにでも見られる不公平は、世に神を代表する神の民であるイスラエルの内にあってはならなかったのです。現代用語で言うなら、主は「法のもとにある平等」を古代イスラエルにお求めになったのです。

しかし、この原則は単なる法律の知識以上のものです。「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ19:2、口語訳)。彼らは真の神であるお方を知っており、正しい礼拝の形を持っており、正しい献げ物をささげていました。それらはすべて良いものでした。しかし、彼らが弱い者や貧しい者を虐げていたら、それらは何の意味もありません。主は預言者たちを通して何度も、イスラエルの貧しい者、助けを必要とする者たちを虐げる人を叱責されました。他者を虐げながら、同時に「聖である」ことは可能でしょうか。どんなに厳格に宗教的儀式を守っていても、それは不可能です。

神の御前に清く汚れのない信心

問7

申命記24:10~15を読んでください。ここに、私たちの監督下にある者たちをどう扱うかについて、どんな重要な原則が示されていますか。

私たちは再度、人間の尊厳に対する主の基本的な配慮について学びます。もし誰かがあなたに何らかの負債があるとします。その負債の返済の期限が来たときに、あなたはその人に敬意と尊厳を持って接するでしょうか。強引に彼の家に押し入って取り立ててはなりません。彼が出て来て、あなたに負債を返すのを外で待たねばなりません。申命記24:12、13には、もし貧しい人が「担保」として彼の衣服を差し出すなら、少なくとも夜には彼がそれを掛けて眠れるようにしなさいと言っています。他の節では、搾取されてしまいやすい貧しい雇い人をどのように扱うべきかが書かれています。彼らを搾取してはなりません。なぜなら、神の目にそれは罪であり、主を悲しませることだからです。過ち、偶像崇拝、悪、罪に満ちた世界にあって、イスラエルが神の証人となり、聖なる民として真理の内を歩むならば、彼らは最も弱い者、最も社会の片隅に押しやられている者たちに親切でなければなりませんでした。そうでなければ、彼らの証しには何の意味もありません。

問8

ヤコブ1:27~2:11を読んでください。ここでヤコブは主がその民に申命記で命じていることをどのように語っていますか。ヤコブは貧しい者たちに不当な扱いをすることと十戒をどのように結びつけていますか。

十戒は、貧しい者よりも富む者を優遇することに直接言及してはいませんが、律法を文字通り厳格に守る一方で、貧しい者や助けを必要とする者たちを不当に扱うなら、その人が告白する信仰も、戒めの遵守の主張も偽物です。自分を愛するように隣人を愛することは、神の律法の最高の表現であり、ヤコブの時代や、モーセが聖なる土地の境で語ったときと同様、今もなお現代の真理なのです。

さらなる研究

ダビデやソロモンが治めていた最良の時代にも、イスラエルの国が神に祝福されていた一方で、彼らの内の貧しい者、助けのない者、打ち捨てられた者たちが虐げられていたというのは、想像しにくいことです。

「お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている」(アモ5:11、12)。

「主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした』」(イザ3:14)。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次