この記事のテーマ
パウロは、すべてのクリスチャンに対して神への従順に心を向けるように求めています。この従順は私たちの心と思いの内なる変化から来るもの、また神に献身した者のうちに働く神の力を通してのみ与えられる変化です。
従順を得るには順序があります。まず、従順とは何かについて知り、神に対して従順になりたいと望み、最後に、従順を可能とする力を求めます。
このことの意味するところは、行いがクリスチャンの信仰の一部であるということです。パウロは決して行いを軽視しているのではありません。彼はローマ13章から15章において行いを強調しています。このことは、彼が信仰による義について先に述べたことを否定するものではありません。対照的に、行いは信仰によって生きることの具体的な表現です。新約聖書における要求は、イエスが来られた後に新たに与えられた啓示のゆえに、旧約聖書における要求よりも難しくなったとさえ言うことができます。新約の信者はイエス・キリストにおいて正しい道徳的行いの模範を与えられています。キリスト、しかもキリストだけが私たちの従うべき模範です。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(フィリ2:5)。これ以上に高い標準はありません、いや、あり得ません!
生けるいけにえ
11章をもって、『ローマの信徒への手紙』の教理に関する部分は終了します。12章から16章には、実際的な教えと個人的な言葉が書かれています。とはいえ、これらの締めくりの章は非常に重要です。なぜなら、これらの章には、信仰生活のあり方が具体的に記されているからです。
第一に、信仰は従順の代わりになるものではありません。信仰は主に従う義務を不用にするようなものではありません。道徳的な規定は、なお拘束力を持っていて、新約聖書の中で解説され、詳述されています。自己との、また罪との闘いはいつでも困難をともないます(Iペト4:1)。クリスチャンは神の力を約束され、勝利が可能であると保証されています。しかし、私たちはなお敵の世に生きているので、誘惑に対する多くの闘いを経験しなければなりません。幸いなことに、たとえ堕落し、つまずいても、私たちは見捨てられたわけでもありませんし、私たちのために執り成してくださる大祭司もおられます(ヘブ7:25)。
問1
ローマ12:1を読んでください。殺されて捧げられた動物と神に自分を捧げる人はある点で似ています。何が似ていて、何が異なりますか。ローマ12:2は12:1の意味をどのように説明していますか。
パウロはローマ12:1で、旧約聖書の犠牲に言及しています。その昔、動物が神に献げられたように、クリスチャンは今日、自分の体を、殺されるためにではなく、神の奉仕に献身した生けるいけにえとして神に献げるべきです。
古代イスラエルの時代、犠牲として連れて来られたいけにえは注意深く調べられました。もしその動物に少しでも欠陥が見つかったなら、それは受け入れられませんでした。というのは、いけにえは傷のないものでなければならないと、神が命じておられたからです。同じように、クリスチャンは自分の体を、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として献げるように求められています。そのためには、彼らのあらゆる能力が最高の状態に保たれる必要があります。重要なのは可能なかぎり潔白で、忠実な生き方を心がけることです。
自分を考える
私たちはこのシリーズ、神の道徳律が永遠であることについて学びました。また、パウロが『ローマの信徒への手紙』において、十戒が廃止された、あるいは十戒が信仰によって無効となったと教えているのでないことを繰り返し強調しました。しかし、律法の字句にこだわるあまり、その背後にある精神、つまり愛、神と人に対する愛を忘れる傾向があります。愛を告白することは誰にでもできますが、その愛を毎日の生活の中で表すことは別の事柄です。
問2
ローマ12:3~21を読んでください。私たちはどのようにして人々に愛を表すべきですか。
Iコリント12、13章と同様、霊的賜物について述べた後で、パウロは愛を高く掲げています。愛(“アガペー”)は最高の道です。「神は愛だからです」(Iヨハ4:8)。したがって、愛は神の品性を描写するものです。愛するとは、神が行動されるように人に対して行動することであり、神が扱われるように人を扱うことです。
パウロはここで、この愛を実際に表す方法について述べています。一つの重要な原則が明らかにされています。それは個人的な謙遜、つまり「自分を過大に評価」しないこと(ロマ12:3)、「尊敬をもって互いに相手を優れた者」とすること(10節)、「自分を賢い者とうぬぼれ」ないこと(16節)です。御自身についてのキリストの言葉はその本質を表しています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタ11:29)。
クリスチャンはすべての人々の中で最も謙遜な人であるべきです。結局のところ、私たちは全く無力な存在、全く堕落した存在です。私たちは救いを自分以外の義に、また自力ではなしえない変化を自分のうちに働く力に全く依存しています。私たちが自慢し、得意がり、誇ることのできるものが何かあるでしょうか。何ひとつありません。私たちは神と人の前における個人的な謙遜という原点に立ち返り、パウロがこれらの聖句の中で勧告しているように生きるべきです。
政府との関係
問3
ローマ13:1~7を読んでください。これらの聖句から私たちと政府の民事権との関係についてどんな基本的な原則を学ぶことができますか。
パウロのこれらの言葉が異教の帝国によって支配されている時代に書かれたという事実は、非常に意義深いことです。それは信じ難いほどに残酷な帝国、芯から腐敗している帝国、まことの神について何も知らないばかりか、数年後には神を礼拝する者たちを激しく迫害するようになる帝国でした。事実、パウロはこの政府によって死刑に処されました。それにもかかわらず、パウロはクリスチャンに対して、このような政府のもとにあっても善良な市民であるように勧めています。パウロがそのように勧めているのは、政府という概念そのものが聖書から来ているからです。政府という概念・原則は神によって定められたものです。人間は規則・規定・標準を持った共同体の中で生活する必要があります。無政府状態は聖書の概念ではありません。
神がどのように運営される政府でも是認されるということではありません。過去の歴史であれ、今日の世界であれ、残虐な支配体制はあちこちに見受けられます。しかし、そのような状況にあっても、クリスチャンは可能なかぎり自国の法律に従うべきです。政府の要求が神の要求に反しないかぎり、クリスチャンは政府を忠実に支持すべきです。時の権力に逆らうような行動に出る前に、祈りをもって、注意深く、また他の人の考えを参考にして、自分のとるべき道を判断する必要があります。神に忠実に従う者たちが将来、世界を支配する政治権力によって迫害を受ける時が来るでしょう(黙13章)。それまでの間、私たちはどの国に住んでいようとも善良な市民であるように神の前に最善を尽くすべきです。
「われわれは人間の政府を神が定められたものとして認め、合法的な範囲内でそれに従うことを、聖なる義務として教えなければならない。しかし、その要求が神のご要求と矛盾するときは、人間よりむしろ神に従わねばならない。神のみことばをすべての人間の法律にまさるものとして認めねばならない。……
われわれは、権威を無視するようには求められていない。法と秩序に反対する者と思われるようなことをしゃべったとして記録されることがないように、話す言葉でも、書く言葉でも、注意深く気をつけなければならない。われわれの道を不必要に閉ざすようなことを、言ったりしたりしてはならない」(『希望への光』1382ページ、『患難から栄光へ』上巻68、69ページ)。
他人との関わり
問4
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ロマ13:8)。この聖句は何を意味しますか。愛するなら、神の律法に従う義務はないという意味ですか。
イエスが山上の説教の中で言っておられるように、パウロはここで律法の教えを詳述し、愛が私たちのすべての行動の動機でなければならないと言っています。律法が神の品性の写しであり、神が愛であるゆえに、愛することは律法を全うすることです。道徳律はなお拘束力を持っています。なぜなら、それは罪を指摘するものだからです。罪の現実を否定する人はいないでしょう。しかしながら、律法は愛の環境においてのみ、真に守ることができます。
問5
律法遵守における愛の原則を例示するために、パウロは十戒のどの条項を例としてあげていますか。特にそれらの条項があげられているのはなぜですか。ロマ13:9、10
愛の要素は新たに導入された原則ではありませんでした。パウロはレビ記19:18の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を引用することによって、この原則が旧約の制度に不可欠なものであることを明示しています。ここでも、パウロは旧約聖書によって自分の福音宣教を支持しようとしています。パウロはここに言及されている十戒の条項だけが有効であると教えているのではありません。もしそうだとするなら、クリスチャンは両親を侮り、偶像を拝み、ほかの神々を主の前に神としてもよいというのでしょうか。もちろん、そうではありません。
パウロは私たちの対人関係、人間関係について論じています。それゆえに、彼はこれらの関係について教えている十戒を特に選んだのです。彼の議論が十戒のほかの条項を無効としているかのように解釈してはなりません(使徒15:20、Iテサ1:9、Iヨハ5:21参照)。新約聖書の記者たちも言っているように、私たちは隣人への愛を表すことによって、神への愛を表すのです(マタ25:40、Iヨハ4:20、21)。
あなたと神との関係、またあなたの人間関係において、愛はどれほど重要ですか。どうしたら、神が人を愛するように人を愛することができますか。それを妨げるものは何ですか。
救いは近づいている
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(ロマ13:11)。
パウロはローマの信徒を念頭にこの手紙を書いていました。その目的は、ローマの教会、特にそこにいるユダヤ人信者のために、新しい契約関係における信仰と行いの役割を明らかにすることでした。論点は救いであり、罪人がいかにして主の前に義・聖と認められるかということでした。パウロは、律法を全面的に強調する人たちのために、律法をその正当な役割・関係の中に置こうとしました。本来、ユダヤ教は旧約時代においても恵みの宗教でしたが、律法主義が起こり、多大の悪影響を及ぼしました。
問6
ローマ13:11~14を読んでください。パウロはここで、どんな出来事について語っていますか。私たちはそのことを思って、どのように生活すべきですか。
パウロはここで、目を覚まして、用心していなさいと、信者に勧めています。イエスの再臨が近づいているからです。私たちはつねに、キリストの再臨が近いことを意識して生活しなければなりません。キリストの再臨は私たちの死ぬときと同じだけ近いのです。私たちが来週死のうと、40年後に死のうと、全く変わりありません。死後、最初に気づくことはイエスの再臨です。死はつねに私たちの目前にあります。私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいています。
『テサロニケの信徒への手紙』と『コリントの信徒への手紙』の中で、パウロは再臨について詳しく言及しています。再臨は新約聖書における重要なテーマです。再臨と再臨のもたらす希望がなければ、私たちの信仰は無意味なものです。
「信仰による義認」も、この素晴らしい真理を完成させる再臨がなければ、何の意味も持ちません。
まとめ
「聖書の中に、神の御心が啓示されている。神の御言葉の真理は、至高者なる神の口から出たものである。これらの真理を自分の生活の一部とする者は、あらゆる意味において新しく造られた者となる。彼は新たな知的能力を与えられるわけではないが、無知と罪によって理解力を曇らせていた闇が取り除かれる。『わたしはお前たちに新しい心を与え』とは、『わたしはお前たちに新しい理性を与え』という意味である[エゼ36:26]。心の変化にはつねに、クリスチャンの義務についての明らかな自覚と真理についての理解がともなう。細心の、祈りに満ちた関心をもって聖書を学ぶ者は、明らかな理解と健全な判断力を与えられる。あたかも、神に頼ることによって、彼はより高い知的水準に達したかのようである」(『マイ・ライフ・トゥデー』24ページ、英文)。
「主は間もなく来られる。私たちは用意をして、主の出現を待っていなければならない。主の贖われた者として主にお会いし、歓迎されることはどれほど栄光に満ちたことであろうか!私たちは長いあいだ待ってきたが、この希望を廃れさせてはならない。栄光の王にお会いすることさえできれば、私たちは永遠に祝福されるのである。私は大声で、『故郷に帰るのだ!』と叫ばずにはおられない。キリストが権威と大いなる栄光のうちに来て、御自分の贖われた者たちを永遠の家郷に迎えてくださるときが近づいている」(『教会へのあかし』第8巻253ページ、英文)。
前にも書きましたが、聖書では鍵となる真理がよく初めに書かれています。山上の垂訓を読む際、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」を忘れてはなりません(マタイ5:3)。律法を見て罪を自覚する時、この御言葉に帰りましょう。ローマ書1~11章をしっかり聞いてから、12章以降を読むべきです。究極的にパウロが勧めているのは「神に自分を捧げること」です。命令のほとんどない1~11章ですが、6:13で「自分自身をささげ」なさいと命じられています。
*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。