この記事のテーマ
申命記の最初の3章は基本的に歴史の教訓であり、それまでにどんな経験をしてきたかを人々に思い起こさせるものでした。4章に入ると、この歴史的教訓は説教的な調子を帯びます。歴史を振り返るのは、歴史愛好家のためのものではなく、民の中に働かれる神の力と恵みと、たとえ民が失敗してしまっても、主が彼らと結んだ契約を守り続けるつもりであることを示すためのものでした。
4章は、「そして今」あるいは「それで今」を意味する「ウェ・アッター」というヘブライ語(接続詞と副詞)で始まります。彼らがそれまでの歴史を振り返り、神がそこに至るまでの道で何をされたかを思い起こさせた後に、「そして今」、その応答として、今度は彼らが、神に命じられたことを行うのでした(申10:12参照)。
ですから、「それで今」に続く最初の動詞が「シャマ」なのです。それは「シェマ」の祈りの初めに用いられているのと同じ動詞(申6:3)です。それは「聞く」または「聴く」、あるいは「従う」を意味し、申命記を通して何度も出て来る言葉です。
このようなわけで、この章は、「イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい」(申4:1、口語訳)で始まっているのです。
加えることも減らすこともしてはならない
問1
申命記4:1、2を読んでください。ここで主が彼らに与えられた、主の「掟と法」に関する特別な警告は何でしたか。なぜここでこのような警告が与えられたのでしょうか。
主は彼らに、主の「掟と法」を忠実に守るように、そしてそれに加えることも減らすこともしてはならないとお命じになります。誰が神の律法を変えたいと望むのでしょうか。私たちはもちろんその答えを知っています。
「サタンは忍耐強く、倦むことなく、神の律法を変えるという天で彼が始めた働きを遂行するために力を注いでいる。彼は、彼が天から落とされる前に言い始めた理論、すなわち、神の律法は不完全であって改正されなければならないという考えを世に信じさせることに成功した。キリスト教会を公言する教会の多くが、もし言葉によってでないとすれば、その行為によって、彼らが〔神の律法を変えるという〕同じ誤りに陥っていることを示している」(『セレクテッド・メッセージ』第2巻107ページ、英文)。
古代イスラエルの歴史を振り返ってみると、彼らは多くの問題を抱えていました。彼らは律法の教えを無視し、律法からすべての実際的な目的を取り除いただけでなく、律法に規定されていない行為を持ち込んで、律法に付け加えたのでした。それは、彼らをさらなる律法違反へと導きました。
問2
マタイ15:1~9を読んでください。モーセがイスラエルに警告したのとは異なる文脈ですが、ここにこの原則のどのような例を見ることができますか。
ヘブライ人は、最終的に約束の地に入ってからも、偶像礼拝などに関する警告をしばしば無視しました。その結果、彼らは多くの異教の慣習に従い、それらをヤハウェへの礼拝にも取り入れました。イエスご自身が「神の言葉を無にしている」と言われたように、彼らはイエスの時代までにあらゆる種類の人間の言い伝えを持ち込んでいました。
加えるも減らすも、いずれにせよ、律法は変えられ、民はその結果に苦しんでいました。
バアル・ペオル
申命記4:3、4には、イスラエルの子らに対する歴史の教訓がさらにもう少し続きます。それは、彼らが過去から学び、そこから実際的かつ霊的教訓を得るためでした。
問3
民数記25:1~15を読んでください。どんな事件が起きましたか。この大きな過ちから民はどのような霊的、実際的真理を学ぶべきでしたか。
イスラエルが周囲の異教の国々を滅ぼしたという記録は、私たちの耳に心地よいものではありませんが、上記の聖句はその命令の背後にある論理を理解する助けになります。イスラエルは、周囲の異教の国々に対して、唯一の神である真の神の証人となるべきでした。真の神への礼拝はどのようなものかを示す模範とならねばなりませんでした。それなのに、彼らは、彼らが世に示すべき真の神に逆らい、異教の「神々」に執着したのでした。
「淫行にふける」という表現は、しばしばイスラエルが異教の神々を追い求め、その習わしに従うことを表し、霊的な意味を含みます(ホセ4:12~14参照)。しかしこの表現(とそれに続く物語)は、少なくとも元々は性的な罪を意味するものでした。サタンは、異教の女たちを用いてイスラエルの男たちを誘惑させたのでした。男たちは明らかに自ら進んでその誘惑に乗り、サタンはまんまとこの堕落した人類を彼の言いなりにしたのでした。
肉体的な淫行は、疑いなく霊的な淫行をも生みます。イスラエルの民は最終的に異教の礼拝行為に夢中になり、「ペオルのバアルを慕った」のでした。いずれにせよ、彼らはこの偽りの神に愛着を覚え、遂には犠牲までささげるのです。彼らはすでにすべて教えられていたにもかかわらず、情熱と欲望の熱に浮かされ、自らすべての教えを捨てたのでした。
なぜこんなことが起きたのでしょうか。簡単です。最初の罪、つまり肉体の罪によって彼らの良心をかたくなにし、その罪が熟すことでサタンの最終的ゴールである霊的な罪に陥る準備が整ったのです。聖書の記録によれば、彼らの霊性はあまりに鈍っていたので、1人の男がモーセと民が幕屋の入口で嘆いているその前に、ミディアンの女を連れて来たのでした。
あなたの主に従いなさい
バアル・ペオルの罪のために数千人が死にました。「主はペオルのバアルに従った者をすべて……滅ぼされ」ました(申4:3)。しかし、背教に加わらない多くの者たちがいました。それらはどんな人々だったのでしょうか。
問4
「あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている」(申4:4)。この聖句は罪に堕ちた者たちとそうでなかった者たちの違いをどのように説明していますか。ここに、罪と誘惑、そして私たちの人生に働く神の力について、どんな重要なメッセージが語られていますか。
4節の「皆」と3節の「すべて」の違いに注目してください。バアル・ペオルに従った者たちは「すべて」滅ぼされましたが、主に従った者たちは「皆」生き残りました。その中間はいませんでした。そして今もいないのです。私たちはイエスの味方か、敵かどちらかなのです(マタ12:30)。
この「つき従う」という言葉は、ヘブライ語では通常、自分以外のものへの強い執着や忠誠を意味します。同じ語根を持つヘブライ語が、創世記2:24(口語訳)には、人はその父と母を離れて、妻と「結び合い」として出てきます(ルツ記1:14参照)。申命記には、いずれも同じように、彼または彼らは、神に「(つき)従わねばならない」という文脈で、この言葉が4回出てきます(申10:20、11:22、13:5〔口語訳4〕、30:20)。それは彼らが、自分を神にゆだね、神の力を受けなければならないことを意味します。
ここで重要なことは、この動詞(従う)の主語が、イスラエルの民であることです。まず彼ら自身が、神に「従う」ことを選ばねばなりません。その時、彼らは神の力によって罪から守られるのです。
問5
ユダ24と1コリント10:13を読んでください。ここに、申命記13:5(口語訳13:4)の原則がどのように語られていますか。
神は忠実なお方ですから、私たちを罪の堕落から守ることがおできになります。しかし、私たちはそのためにバアル・ペオルで忠実であった者たちのように、意識的に神に従うことを選ばねばなりません。そうすれば、どんな誘惑の中にあっても、私たちは神に忠実でいられると安心できます。
大いなる国民がどこにいるだろうか
申命記4:4に続く数節に、聖書全体の中でも最も深く美しい聖句が続きます(原語のヘブライ語は実に荘厳です)。要するに、申命記のメッセージの本質がここにあり、これ以外の箇所はその解説であると言えるでしょう。これらの聖句を読むとき、私たちはここに、今日にもさまざまに適用できる原則を見いだすのです。
問6
申命記4:5~9を読んでください。主はここでなぜモーセを通して、主がイスラエルにされたことを語られたのでしょうか。
主は、主の民が、彼らは特別な目的のために召し出され、選ばれた民であることを理解するように望まれたのでした。彼らは、ちょうど神がカルデアで最初に、「わたしはあなたを大いなる国民にし……」と言って召し出された通りの「大いなる」国民なのでした(創12:2、同18:18も参照)。
しかし、彼らを大いなる国民にする目的は、「地上の氏族はすべて」(創12:3)彼らによって「祝福」(同12:2)されるためでした。さらに、究極の祝福はメシアなるイエスが彼らの血統から生まれるその時まで、彼らは世の光となるのでした。「わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(イザ49:6)。救いは彼らの内にあるのではなく、彼らを通して、唯一救うことのできる真の神が現わされるのでした。
異邦人たちは岩、石、木、そして悪霊を礼拝していましたが(申32:17、詩編106:37)、イスラエルは天地の主、宇宙を造られた神を礼拝し仕えているのでした。
なんという明確な違いでしょう!これらの聖句を通してモーセは、イスラエルを特別にしている二つのことを指摘しています。第一は、聖所という非常にユニークな方法で、主が彼らの近くにおられたということでした。第二は、「このすべての律法のように正しい掟と法」を持っているということでした(申4:8)。
問7
申命記4:32~35を読んでください。ここで主は、彼らが与えられた特別な召しについて彼らに理解させるために何を語っておられますか。
疑いなく、イスラエルは実に多くのものを与えられていました。今、彼らはどのように応えるでしょうか。
あなたたちの知恵と良識
申命記4:1~9は、単にイスラエル民族の特別な身分を力強く表現しているだけでなく、宣教への召しの表明でもあります。そのすべてに、主が命じられたことに従い、守り、行わねばならないとの思想が織り込まれています。
問8
申命記4:6をもう一度読んでください。主は、諸国の民に彼らの「知恵と良識」が示されることについて、具体的にどのように語っておられますか。
さっと読む限り、掟と法自体が彼らの知恵と良識であるように思えます。しかしそれがこの聖句の意図ではありません。彼らに掟と法を教えられたのは主ですが、彼らの知恵と良識は、彼らがそれらを守り、従うことによって得られるのでした。彼らの服従こそが彼らの知恵であり良識となるのでした。
イスラエルは、かつて世にあった中で最も優れた法律、規則、規定体系を持つはず(実際に持っていた)でした。しかしそれがどれほど優れたものであっても、彼らが従わなければ意味をなさないのでした。彼らが生活を通してリアルタイムで神の律法を実践して初めて、それは彼らの知恵、良識となるのでした。彼らは、主が彼らにお与えになった真理に生きなければなりませんでした。ただ真理に従うことによってのみ、彼らは真理に生きることができるのでした。すべての光も、すべての真理も、彼らがその真理を実践しないなら、彼ら自身にも、異教の民に対しても、何の力もないのでした。だからこそ、彼らは何度も何度も従うように召されたのです。なぜなら、世に対する証しとなるために、掟と法そのものではなく、掟と法に対する彼らの服従こそが問われていたからです。
「神の律法に従順であることは、世界の諸国の前で彼らに驚嘆すべき繁栄を得させるものであった。すべての巧みなわざをなす知恵と技量を与えることのできる神は、いつまでも彼らの教師となり、神の律法に対する従順を通して彼らを高められるのであった。彼らは、もし従順であれば、他の諸国を襲った疾病から守られ、豊かな知性に恵まれるのであった。神の栄光と尊厳と大能は、彼らの繫栄の中にあらわされ、彼らは祭司と王の国となるのであった。神は彼らを、地上最大の国家とするためのあらゆる必要なものを提供しておられた」(『希望への光』1297、1298ページ、『キリストの実物教訓』266ページ)。
さらなる研究
「天における大争闘のその最初から、神の律法を覆すことがサタンの目的であった。彼が創造主に対する反逆を始めたのは、この目的を達成するためであった。そしてサタンは、天から追放されたけれども、この地上で同じ戦いを続けてきた。人を欺き、それによって神の律法を犯すようにさせることこそ、サタンが着々と追い求めてきた目的である。このことは、律法全体を廃することによって成し遂げられても、あるいはまた、戒めの一つを拒むことによって成し遂げられても、最終的な結果は同じである。『その一つの点』でも犯す者は、律法全体に対する軽べつをあらわすのであり、その影響と手本は罪に味方するものであって、『全体を犯したことになる』のである(ヤコブ2:10)」(『希望への光』1882ページ、『各時代の大争闘』下巻343ページ)。
バアル・ペオルについて、エレン・ホワイトは次のように書いています。
「彼らは禁じられた場所に足を踏み入れ、サタンのわなに捕らえられた。歌と踊りに浮かされ、異邦の女たちの美しさに魅せられて、彼らは主への忠誠心を捨ててしまった。一緒になって歓楽に身をゆだねるにつれて、酒が感覚をくもらせ、自制心を失わせた。情欲がすべてを支配し、みだらな思いで良心を汚した彼らは、勧められるままに、偶像にひざをかがめた。彼らは異教の祭壇に犠牲を捧げ、最も堕落した儀式に参加した」(『希望への光』236ページ、『人類のあけぼの』下巻67ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。