【申命記】律法と恵み【解説】#7

目次

この記事のテーマ

ほとんどのキリスト教会の教派が律法と恵みについて語り、両者の関係について理解しています。律法は神の聖と義の標準であり、律法に違反することが罪です。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」(1ヨハ3:4)。そして私たちは皆、その律法に違反したのです。「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」(ガラ3:22)。だからこそ、私たちを救うことができるのは神の恵みのみなのです。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8)。

(もちろん、律法の一部である安息日遵守という〔彼らが言うところの〕「取るに足らない細目」については、多くのクリスチャンがさまざまな理由によって、少なくとも現在は、否定することを選び、不十分な言い訳によってそのことを正当化しています。しかしそれは、神の恵みによる罪の赦しとはまったく別の問題です。)

表現方法や場面は違いますが、律法と恵みというテーマは、申命記も含めて聖書全体に見ることができます。申命記には特にユニークな文脈の中で、律法と恵みの関係が表現されています。

天の律法

神は愛の神です。愛は神のご品性の原則であり、神の支配の基礎です。神は、その愛に応えて私たちが神を愛することを望んでおられるので、私たちを道徳的自由、すなわち愛に基づく自由を持つ存在としてお造りになりました。

そして、この道徳的自由という思想の中心に位置するのが道徳律です。素粒子、海の波、カンガルーなどは、ある程度自然界の法則に従っていますが、道徳律には従いませんし、それを必要ともしません。道徳的存在だけが道徳律を必要とします。ですから天においても、神は天使たちのための道徳律を持っておられるのです。

問1

天におけるルシファーの堕落について記しているエゼキエル28:15、16を読んでください。「不正」〔口語訳では悪〕が彼の内に見いだされ、彼は「罪を犯した」(口語訳)のでした。これらの言葉は、天における道徳律の存在について何を示していますか。

「不正」も「罪を犯した」も、人間の中で用いられる言葉です。しかし、聖書はこれらの言葉を天、つまり創造された別の場所で起きた出来事に用いています。このことは、地にあるものが、天にも存在することを示しています。

問2

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ロマ7:7)。道徳的存在である天使たちが住む天にも、少なくとも原則の中に同じ思想が存在するのでしょうか。

エレン・G・ホワイトは次のように説明しています。

「神のみこころは、神の聖なる律法のうちに表明されている。そして、この律法の原則は天の原則である。神のご意志を知ることは、天使たちの達しうる最高の知識であり、神のみこころを行うことは、彼らの力を働かせる最高の奉仕である」(『希望への光』1169ページ、『祝福の山』136ページ)。

天であろうと地であろうと、神がそこに道徳的存在を置かれるなら、神は彼らを治めるために道徳律をお用いになります。そして律法に違反することは天でも地でも罪なのです。

申命記の律法

神の選民であるヘブライ民族は、遂にカナンの国境で神が約束された地を受け継ごうとしていました。そして私たちが学んだように、申命記はモーセの、約束の地を前にしたヘブライ人への最後の訓告です。それらの訓告の中には彼らが従わねばならない命令が含まれていました。

問3

次の聖句を読んでください。これらの聖句に繰り返されている共通点は何ですか。それは民にとって、なぜそれほどまでに重要だったのでしょうか(申4:44、17:19、28:58、30:10、31:12、32:46、33:2)。

申命記にざっと目を通すだけで、イスラエル民族にとって律法への服従がどれほど重要であったかがわかります。真の意味において、それは彼らにとって契約における義務でした。神は彼らのために多くのことをしてくださいましたし、この後も多くのことをしようとしておられました。それらは、彼ら自身ではできなかったことでしたし、彼らにはそうしてもらえる資格もありませんでした(これこそ、神の恵みであり、受けるに値しない私たちに与えられたものです)。そして神が私たちにお求めになる応答が、神の律法に忠実であることなのです。

それは今も変わりません。律法の行いでなく、神の恵みが私たちを救います。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ロマ3:28)。そして、〔その恵みに対する〕私たちの応答が律法への服従なのです。しかし、私たちが律法に従うのは、それによって救いを得ようとする無意味な試みではありません。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(同3:20)。しかし、私たちは救いを与えられたことに感謝するあまり、その応答として律法に従うのです。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(ヨハ14:15)。

申命記は、恵みと律法についての一つの大きな実物教訓であると考えられます。神は恵みのゆえに私たちを贖うという、私たち自身ではできないこと(イスラエルがエジプトから脱出した以上のこと)をしてくださいます。その応答として私たちは、神と神の律法に従う人生を信仰によって生きるのです。アダムの堕落以来、困難な獣の刻印の時代を生きる人々に至るまで、「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たち」(黙14:12)として描かれる契約の民は、律法と恵みの関係に生きる民です。こうして神の恵みは、私たちが神の律法に従えるようにし、神とのこの契約関係から服従が生まれるのです。

あなたのしあわせのために

懐疑論者たちは聖書を否定するための理由を探します。彼らはしばしば、神が旧約聖書で語っている強い言葉を非難します。旧約聖書の神は、特にイエスと比べて非情で、復讐に燃え、狭量だというのが彼らの訴えです。これは新しい議論ではなく、数世紀前に初めて提唱されたときと同じように、現在でも正当性に欠ける議論です。

旧約聖書は繰り返し何度も、神の民イスラエルを愛する主、彼らの最善のみを願う主を描いています。そしてこの愛は申命記にも力強く表されています。

問4

申命記10:1~15を読んでください。これらの聖句はどんな文脈の中で書かれ、彼らの罪の後でさえ、神が民に対してどのように感じておられたか、すなわち神の恵みについて何を教えていますか。

これらの聖句から神の愛が滲み出ています。特に12、13節に注目してください。これは、実のところ長い一つの文、一つの問いです。その問いとは、単純で、「あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、……〔主の〕主のすべての道に従って歩み、主を愛し……、主に仕え、……主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」というものです。

この聖句の中で「あなたの」あるいは「あなたに」と訳されているヘブライ語は、すべて単数形です。神は確かにここで民全体に語っておられますが、もし民が個人として掟に従わないなら、神のみ言葉はどうして民に幸いをもたらすことができるでしょうか。全体は個の集まりとしてのみ成り立つのです。主はここで、イスラエルの民1人ひとりに、個人的に一対一で語りかけておられるのです。

私たちは13節のみ言葉を忘れることができません。「あなたが幸いを得る」ために、主の戒めと掟を守りなさいというのです。言い換えれば、神は彼らの最高の利益のために、掟に従うように命じておられるのです。神が彼らを造り、彼らを支え、彼らにとって何が最善であるかを知っておられます。だからこそ、神は彼らにとっての最善をお求めになるのです。神の律法と十戒に服従することは、彼らの利益になるのです。

律法はしばしば垣根や防御壁にたとえられます。神に従う者たちは、その壁の内側にいることによって、彼らを襲い、滅ぼそうとする多くの悪から守られるのです。つまり、神はその民に対する愛のゆえに、彼らに律法をお与えになり、神の律法への服従は、「あなたの幸い」のためであるということです。

エジプトの奴隷

申命記には一つのテーマが再三登場します。主がご自分の民をエジプトから救いだされたというテーマです。彼らは何度も、神が彼らのためにされたことを思い出すのです。「力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し」(申26:8、同16:1~6も参照)。

事実、旧約聖書全体を通して、神の恵みによるエジプトの圧制からの救出劇である出エジプトの物語は、神の力ある贖いの御業として引用されています。「わたしはお前をエジプトの国から導き上り/奴隷の家から贖った」(ミカ6:4)。

神の偉大な御力による出エジプトは、キリストにある信仰によって救われることの象徴として新約聖書にも引用されています。「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」(ヘブ11:29、1コリ10:1~4も参照)。

問5

申命記5:6~22を読んでください。ここにモーセはヤハウェの神との契約の基礎条項である十戒を繰り返します。第四条に注目してください。ここに記されている出エジプトの記録は、どのように神の律法と恵みの真実を表していますか。

モーセは第七日安息日に安息するという基本的な戒めを繰り返しています。しかし彼は、強調を加えます。十戒はすでに石の板に刻まれていましたが、ここでモーセは彼らにすでに与えられていた戒めを拡大して示します。安息日を創造の記念としてだけでなく、エジプトからの贖いの記念として守りなさいと命じるのです。神の恵みは彼らをエジプトから救い出し、奴隷の苦役から解放しました(ヘブ4:1~5)。彼らは、神から与えられた恵みの応答として、その恵みを今度は他者に届けるのでした。

こうして、第七日安息日は、神の力ある創造のしるしとしてだけでなく、神の力ある贖いと恵みのしるしとなるのでした。子どもたちだけでなく、家の内にいる者は、僕も動物も、寄留者でさえも休むことができます。安息日はユダヤ人に与えられた恵みを契約の民でない他国人にも届けるのです。これこそが神の律法の中心思想なのです。神が恵みによって彼らにしてくださったことを、彼らも他の人にしなければなりません。

あなたの義のためでなく

キリスト教とすべての聖書に基づく宗教の中心は、まぎれもなく、信仰による義という偉大なテーマです。「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』」(ロマ4:3)。

エレン・G・ホワイトはこの真理を次のように述べています。「信仰による義とは何であろうか。それは、土の塵から造られた人に栄光を着せられる神の御業であり、人が自らの力によっては成しえないことを人のためにされる神の御業である。人が、自らの無力を知るとき、彼らはキリストの義を着せられる備えができるのである」(『信仰によって生きる』109ページ、英文)。

あなたが、神はどんなお方なのか、どれほど聖なるお方なのかと問うとき、神と比べて、私たちはどんな存在なのか、どれほど汚れているかを考えれば、私たちの救いが、どれほど驚くべき恵みの業であるかが理解できるはずです。そして実に、その恵みの業が十字架において成し遂げられたのです。罪なきお方が罪に定められて死んだのです。

問6

この対比を頭に置いて申命記9:1~6を読んでください。ここでモーセは民に、受けるに値しない者に与えられる神の恵みの真実を、どんな劇的な方法で示していますか。ここで起きたことは、信仰による義の原則をどのように反映していますか。

福音についてのパウロの教えは、おそらく申命記9:5の次の部分に凝縮されるでしょう。神は、「あなたが正しく、心がまっすぐであるから、〔救われる〕のではなく」、「永遠の福音」(黙14:6)の約束のゆえに、あなたを救われるのです。この約束は、「わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによる」のであり、「永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」たのです(2テモ1:9、テト1:2も参照)。もしこの約束が「永遠の昔に」私たちに与えられたとすれば、私たちは「永遠の昔に」は存在しなかったわけですから、それは間違いなく私たちの行いにはよらないはずです。

あなたの過ち、欠点、固いうなじにもかかわらず、主はこのすばらしい御業をあなたのために、あなたの内になさるのです。ですから、主はあなたに、主と主の律法に従うようお命じになるのです。約束はすでに与えられ、実現したのです。人の行いと服従が十分善いものであるとしても(それはありえないことですが)、それらはあなたを救う手段にはなりえないのです。それらは救いの結果生ずるのです。

主は恵みによってあなたを救われました。今度はあなたが、あなたの心の内に書かれた主の律法とあなたを力づける主の御霊によって、主の律法に従う番です。

さらなる研究

「天で神の律法に逆らったキリストの敵は、熟練し、よく訓練された戦略家として、次から次へと欺きを繰り出し、唯一真の罪の探知器であり、義の標準である神の律法を無力にしようと持てる力の限りを尽くして働いている」(『レビュー・アンド・ヘラルド』1890年11月18日号)。

宇宙には2兆個の銀河が存在し、一つの銀河は1,000億個もの星から成っています。それは100,000,000,000です。2兆個の銀河にそれぞれ1,000億個の星があるわけですから、宇宙には、200,000,000,000,000,000,000,000個の星があることになります。

さて、何であれ、物を考え出し、造り出す者は、考え出され、造り出された物よりも偉大であり、優れているという存在の原理があります。ピカソは、彼によって造られた作品よりも偉大です。私たちの宇宙を創造された神は、宇宙よりも偉大であり、優れていなければなりません。

この原理を頭に置いて次の聖句を読んでください。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1:1~3)。ということは、すべての造られたものを創造されたのは神ですから、すべてのもの、つまり200,000,000,000,000,000,000,000個の星をも創造されたそのお方が「身を低くして」人間の赤ちゃんになられ、罪なき生涯を生き、私たちの罪と悪の罰をその身に負い、十字架で死なれたので、私たちは永遠の命の約束を得たのです。

私たちの前には、十字架のイエス・キリストによって恵みが与えられたという偉大な真理があります。神は私たちに、この恵みに応えて何をするように求めておられるのでしょうか。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(コへ12:13)。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次