【申命記】モーセの復活【解説】#13

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全体を通して学んで来たように、モーセは申命記の中心的存在であり、彼の生涯、品性、メッセージはこの書全体に浸透していると言っても過言ではありません。しかしながら、申命記は神とイスラエルの民に対する神の愛についての書であり、神はモーセを通してその愛を示し、民にお語りになったのでした。

申命記の最後の学びをするにあたって、私たちはモーセの生涯、その地上生涯について学びたいと思います。

エレン・G・ホワイトは、彼を次のように描写しています。「モーセはただひとりで死に、地上の友はだれも彼の最後を見とるのを許されないことを知っていた。前途には神秘と恐れが横たわり、それを思って彼の心はひるんだ。何よりもつらいのは、彼が保護し、愛してきた民、長い間彼の関心と生命とが結びついていた民と別れなければならないことであった。だが、彼は、神に信頼することを学んでいた。彼は、自分と自分の民とを疑うことなく神の愛と憐れみに委ねた」(『希望への光』245ページ、『人類のあけぼの』下巻88ページ)。

モーセの生涯と宣教が神のご品性について多くを表していたように、彼の死と復活もまた神のご品性を表していました。

モーセの罪:その1

何度も、何度でも、神は彼らの背信と荒れ野の放浪の中にあって、彼らが受けるに値しない神の恵みをお与えになりました。そして今日の私たちも、受けるに値しない者でありながら神の恵みにあずかっているのです。そもそも、私たちが受けるに値する者であれば、それはもはや恵みではありません。

荒れ野において主は彼らに、豊かな食物と水の奇跡をもってその恵みをお示しになりました。彼らは乾いた暑い荒れ野にあって、水なしに生きることは不可能でした。この経験についてパウロとエレン・G・ホワイトは次のように書いています。「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」(1コリ10:4)。「彼らの旅の途中で、水が必要なときには、どこでも宿営のそばの岩の裂け目から水がわき出た」(『希望への光』213ページ、『人類のあけぼの』下巻8ページ)。

問1

民数記20:1~13を読んでください。ここにどんな出来事が記録されていますか。モーセのしたことに対する主の罰を、私たちはどのように理解すれば良いでしょうか。

ある意味で、モーセの不満を理解することは難しくありません。主はそれまでも、しるしと不思議によって何度もお救いになり、彼らは今、ついに約束の地の国境にいました。その時、突然水が涸れたのでした。彼らはモーセとアロンに詰め寄ります。それまで何度も水を湧き出させられた主が今、それができないはずはありません。主はおできになるし、そうするおつもりでした。

「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(民20:10)とのモーセの言葉は明らかに怒りを含んでいます。怒り自体は大きな問題ではありません。怒りは悪いものではありますが、〔彼の怒りは〕理解できます。しかし、彼はまるで彼が岩から水を湧き出させることができるかのように、「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのだろうか」(同、口語訳)と言っています。彼はこの瞬間、奇跡を起こすことができるのは神のみであることを忘れていました。彼も、すべての民もこの事実を知るべきでした。

しばしば私たちは理由を探して自分の怒りを正当化しようとします。私たちはどうすればそれをやめ、祈り、怒りを口にする前に神の力を求めることができるでしょうか。

モーセの罪:その2

問2

もう一度、民数記20:12、13を読んでください。主はモーセが約束の地に入れない理由として何をあげておられますか(申命記31:2、34:4も参照)。

この聖句によれば、モーセには、神の代わりになろうとしたこと(これも十分悪いことですが)のほかにも罪がありました。彼はまた、彼のような立場の人物にとっては言い訳できない不信仰を示したのです。彼は燃える柴に始まり(出3:2~6)、ほとんどの人間がしないような神との経験をしてきたにもかかわらず、この聖句によれば、モーセは「わたし〔主〕を信じることをせず」、不信仰を示し、その結果として彼はイスラエルの子らの前に主の聖なることを示すことにも失敗します。言い換えれば、モーセがもし平静を失わず、彼らの背信の中にあっても神に信頼し、信仰を示していたなら、民の前に主に栄光を帰し、真の信仰と服従がどういうものかということについて、再び彼らの模範となったことでしょう。

問3

民数記20:8を読んでください。主はモーセに具体的にどうするようにお命じになり、彼はどうしましたか(民20:9~11参照)。

9節に、モーセは主が「命じられたとおり……、杖を取った」とあります。ここまでは良かったのです。しかし10節には、驚くべき神の力を示す行為として、水が出るように岩にただ命じる代わりに、モーセは一度ならず二度までも岩を打ちます。岩を打つことによって水が出たことも奇跡です。しかしそれでも、ただ命じることによって水が出ることほどの奇跡とは言えません。

確かにこの出来事の表面だけを見れば、神のモーセに対する裁きは厳しすぎるように思えるかもしれません。モーセはあらゆる荒れ野の困難を乗り越えてきたその後に、結局、約束の地に入ることは許されませんでした。人々はこれまで、この物語が語られるたびに、一体どうしてたった一度の性急な行為のために、長い間待ち望んでいたことがモーセに認められなかったのだろうかと疑問に思ってきたのです。

モーセの死

問4

申命記34:1~12を読んでください。モーセに何が起きましたか。主は、彼がどんなに特別な人間であったかについて何と言われましたか。

「モーセは、ただひとりで神の民と運命を共にするために、エジプトの宮廷の栄誉と将来の王位を捨てたときから始まった、彼の人生の変転と辛苦をふり返った。長年にわたり荒れ野でエテロの羊を飼ったこと、燃えるしばの中に天使が現れたこと、また、彼がイスラエルを解放するように召されたことを思い起こした。

彼はまた、選民のためにあらわされたみ力の奇跡と、放浪と反抗の年月を導かれた神の忍耐と憐れみに思いをはせた。神がこうして彼らに尽くしてこられたにもかかわらず、そして、また、彼が祈りと労苦を重ねてきたにもかかわらず、エジプトを出た大群衆の成人のうち、忠実であって約束の地に入ることのできたのはたったふたりしかいなかった。自分の労苦の結果をふりかえったとき、彼の試練と犠牲の生涯はほとんど徒労であったように思われた」(『希望への光』246ページ、『人類のあけぼの』下巻90ページ)。

申命記34:4は非常に興味深いことを述べています。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である」。主はここで、これまで父祖たちと彼らの子孫たちとに何度も語ってこられた、彼らに約束の地を与えるとの契約をほとんど一字一句変えずに繰り返します。

主はまた、「わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」とも言われました(申34:4、強調付加)。紛れもなく、モーセは自分が立っている所から、主が彼に示された土地のすべてを、すなわち、モアブからダンへ、ダンからナフタリへ、そしてそのかなたまでを彼の目で見渡すことができたのでした。エレン・G・ホワイトは、はっきりと、彼はその時点での眺めだけでなく、超自然的な啓示によって彼らが手に入れた後の〔将来の〕土地の様子をも示されたと述べています。

ある意味で、主はモーセをからかって、「私に従っていれば、あなたはここにいられたのに」と言っているかのようです。しかし、主はモーセに、モーセの失敗にもかかわらず、神が先祖やイスラエルと交わした契約の約束に忠実であることを示されたのです。また、これから見るように、忠実でありながらも欠点もあった僕に、主はさらに良いものを用意しておられました。

モーセの復活

「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」(申34:5、6)。このわずか二節によって、モーセ─イスラエルの生活の中心であり、その書き物がイスラエルのみならず、教会やユダヤ教の会堂の中でも生き続けている人物─が死んだと述べられています。

モーセは死に、葬られ、民はその死を悼み喪に服しました。しかし、黙示録のみ言葉は確かに次のような原則を記しています。「『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)。

しかしながら、モーセの死は彼の生涯の物語の最終章ではありませんでした。

問5

ユダ9を読んでください。ここでどのようなことが起きていますか。それは、のちにモーセが新約聖書の中で登場することを説明するのに、いかに役立ちますか。

この短い記述の中に驚くべき場面が描かれています。キリストご自身が、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったというのです。どのように言い争ったのでしょうか。モーセが罪人であったことは疑いない事実です。実に彼の最後の罪は、神に帰すべき栄光を自分に帰したのであり、「『わたしは……雲の頂に登って/いと高き者のようになろう』」(イザ14:13、14)と言って天使の頭の地位から投げ落とされたルシファーと同じ罪でした。キリストが約束されていた復活をモーセのために主張したため、モーセの遺体のことで論争が起こったに違いありません。

どうしてキリストは、律法に背いた罪人モーセのためにそんなことがおできになったのでしょうか。その答えは十字架に他なりません。すべての動物の犠牲がキリストの死を指し示していたように、主は明らかに今、十字架を見据えながらモーセの復活を主張されたのです。「罪の結果、モーセはサタンの権力のもとに置かれていた。彼自身の功績によっては、彼は当然死の捕虜であった。だが彼は、贖い主のみ名の権威によって、永遠の命によみがえった。モーセは、栄光の体で墓から現れ出て、救い主と共に神の都にのぼった」(『希望への光』249ページ、『人類のあけぼの』下巻97ページ)。

私たちすべての復活

新約聖書はモーセが約束の地に入れなかったことは罰であったと見なしていません。地上のカナンやエルサレムでなく、遥かに良い住まいである「天のエルサレム」(ヘブ12:22)が彼の家となるのでした。

モーセは聖書中の死からよみがえった最初の人物です。エノクとエリヤは死を見ずに天に上げられました(創5:24、王下2:11)。しかし、聖書の記述を見る限り、モーセは永遠の命に入るために復活した最初の人でした。

モーセが死んでどれほど眠っていたかは問題ではありません。それが3時間であろうと300年であろうと、彼には同じことだからです。人類史の中で死を経験した人々の、少なくとも死の状態についてはモーセのそれと同じなのです。私たちは死んで目を閉じ、次に目を開けるときはイエスの再臨か、不幸にして最後の裁きかのどちらかなのです(黙20:7~15参照)。

問6 

1コリント15:13~22を読んでください。ここにどんなすばらしい約束がありますか。パウロのこの言葉は、なぜ私たちが死を、復活までのキリストにある眠りであると理解するときにのみ意味を持つのでしょうか。

復活の希望がなければ、私たちの希望はむなしいものです。キリストの復活は私たちの復活の保証です。私たちの犠牲の小羊として十字架で「罪を清め」られたキリストは(ヘブ1:3)、死んで死からよみがえり、ちょうどモーセが、罪を犯してよみがえった最初の人間であったのと同じように、キリストの復活により私たちの復活は確かなものとなったのです。キリストが成し遂げられたことのゆえに、モーセはよみがえったように、私たちもまたキリストの功績のゆえによみがえるのです。

ですから、その人生の終わりにつまずいてもなお、私たちはモーセの中に信仰による救いと、神に忠実であり信頼する人生を通して表される信仰の模範を見いだすのです。そして申命記全体を通して私たちは、モーセが神の民に彼と同じ忠実さを求め、彼らに与えられた恵みに応えるよう訴え続けた姿を見るのです。そしてその同じ恵みが与えられ、永遠の「約束の地」の国境にいる私たちにも今、同じ忠実さが求められているのです。

さらなる研究

「『われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか』と彼らは、怒って叫んだ。彼らは人間的弱さと情をもった彼ら自身にその力があるかのようにふるまい、自分たちを神の位置においたのである。モーセは、絶えず、つぶやき反抗する民に疲れ果てて、全能者なる神が彼の援助者であられることを忘れた。そして、彼は、神の力を受けることをせずに、人間の弱さをあらわして、彼の記録に汚点を残したのである。彼は、仕事を完成するまで、純潔、堅実、無我の精神を保つことができたのであるが、ついに敗北した。神は賛美され、高められなければならない時に、イスラエルの会衆の前で、恥辱をこうむられたのである」(『希望への光』216ページ、『人類のあけぼの』下巻15ページ)。

「モーセは、天に移されたエリヤと共に変貌の山に現れた。彼らは、天父からみ子に光と栄光を伝えるためにつかわされた。こうして幾世紀も前に捧げられたモーセの祈りがついに果たされた。彼は、神の民の嗣業の中にある『良い山地』に立ち、イスラエルの約束がことごとく集中しているおかたについてあかしをした(申命記3:25)。天の神に尊ばれたモーセが、歴史において、人間の目の前に現れたのはこれが最後である」(同249ページ、同97ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

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『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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