【テサロニケの信徒への手紙1・2】喜びと感謝をもって【最大の希望】#4

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パウロによる『テサロニケの信徒への手紙I』は、祈りを強調することによって、つまりパウロがどれほど真剣に彼らのために祈っているかを強調することによって始まっています。そのこと自体、パウロがテサロニケの教会に対して抱いていた深い愛と関心を表しています。

パウロはこれらの聖句[Iテサ1:2、3]において、テサロニケの信者が全体として忠実に歩んでいることを喜んでいます。なお多くの問題を抱えていたにもかかわらず、彼らの生き方は生活を変える聖霊の力についての豊かな証拠となっていました。

パウロと彼の教えに対するテサロニケの信徒の寛大さが彼らを真の「アドベンチスト」に導いたと述べることによって、パウロは第1章を結んでいます。彼らは、イエスが自分たちを「来るべき怒り」から救うために天から来られる日を待ち望みつつ毎日を送った信者でした。

今回の研究では、新しい信者が伝道の始まった後で直面した課題にどのように対処したかについて詳しく学びます。

感謝の祈り(1テサ1:1―3)

『テサロニケの信徒への手紙I』の中に、パウロの無我の精神を読み取ることができます。この手紙の著者は明らかにパウロであるのに、彼は同僚のシラスとテモテを自分と同列に置いています。

この手紙の書き出しは古代ギリシアの手紙に典型的なものですが、一つ興味深い特徴が見られます。典型的なギリシアの書き出しの言葉(「恵み」)に加えて、パウロは一般的なユダヤの挨拶「平和」(ヘブライ語で“シャローム”)を付け加えています。「恵み」と「平和」―まさにイエスとの経験を描写するのにふさわしい言葉です。

シルワノとは、だれのことでしょうか。この名前はアラム語の「シラス」に相当するラテン語です。パレスチナの外に生きるユダヤ人はふつう、ユダヤの名前に加えてギリシア語またはラテン語の名前を用いていました(「サウロ」が「パウロ」になったのはそのため)。シラスはマルコと同様、エルサレムのクリスチャンで、パウロの最初の旅行に同行した同僚の一人でした。エルサレム教会の信頼されていた指導者たちを自分の宣教旅行に同伴することによって、パウロは努めて教会の一致を保とうとしたのでした。

問1

コリントIの13章で有名な一連の三つの言葉がテサロニケIの1:1~3でも用いられています。その三つとは何ですか。

パウロはその祈りの中で、軽薄な霊性ではなく、現実を重視しています。信仰は真剣な働きを促します。真の愛は熱心な働きをもたらします。そして、希望は強い忍耐を要求します。これらの言葉に強調されているのは抽象的な思想ではなく、行動です。信仰、愛、希望という順序は新約聖書の中で異なりますが、これら三つのうちで最も重要なものがどの場合でも最後に来ています(Iコリ13:13参照)。3節における順序は、パウロがテサロニケの信徒への2通の手紙の中で終末の諸事件の重要性を強調していることを示しています。

テサロニケの信徒が福音に応答した様子を思い起こし、パウロは神のみ前に感謝しています。パウロはまた、彼らがパウロの賞賛に対して積極的に応答することによって、間もなく明らかになる関心事にも寛大な心をもって応答するように望んだことでしょう。

神があなたがたを選ばれた(Iテサ1:4)

テサロニケIの1:4を読んでください。私たちが神から選ばれたとはどんな意味なのでしょうか。

パウロが「感謝しています」という言葉で書き始めている2節の文章は、4節まで続いています[英語聖書参照]。パウロが神に感謝をささげる理由の一つは、神がテサロニケの信者を「選んで」くださったことを、パウロが知っていることにあります。

クリスチャンの中には、この「選ばれて」いるという思想を極端に解釈する人たちがいます。そのような人たちは信者の関心を生き方や行動から逸らそうと望みます。そして、私たちの救いが私たち自身の選択でなく神の選択にかかっていると教えます。そのような教えはまた、神の恵みが少数の人たちだけに与えられていて、人は一度救われたなら滅びることを選ぶことができないという思想につながります。

問2

次の聖句は、救いが私たち自身の選択であることを理解する上でどんな助けになりますか。ヨシュ24:15、Iテモ2:4、黙3:20

信仰は神の導きなしではあり得ません。しかし、最終的には、人間が神について、また神が私たちのためにしてくださったことについて自分自身で決定するのを、神はお許しになります。神が私たちのためにしてくださったこととは、キリストにあって私たちを「選ぶ」ことです。私たちはみな、救いにあずかるために「選ばれて」いるのです。救われようとしない人たちがいる―自分自身に提供されている救いを要求しない人たちがいる―ということは、選択が彼ら自身によるものであって、神によるものではないことを表しています。神の選択はすべての人が救われることです。パウロがテモテIの2:4で述べているように、神は「すべての人々が救われて真理を知るようになる」ことを望んでおられます。

キリストにある確信(1テサ1:5)

テサロニケIの1:5を読んでください。5節は「、というのは」または「なぜなら」という言葉をもって始まっています[英語聖書参照]。パウロはこの聖句の中で、テサロニケの信徒が神によって「選ばれて」いると、自分が確信する根拠について詳述しています(Iテサ1:4)。彼はまた、自分の祈りが感謝で満ちていることのさらなる理由について強調しています(Iテサ1:2)。テサロニケの信徒が神に応答したこと、また神が彼らを是認しておられることについての、現実の証拠に接して、パウロは喜んでいます。

パウロは主のみ前におけるテサロニケの信徒の立場についての目に見える、外面的なしるしに対する喜びをもってこの聖句を書き始めています。福音に対する彼らの受容は単なる教えや教理への知的な同意ではありませんでした。彼らの毎日の生活が神の臨在と力を証ししていました。毎日の教会生活の中に、神の介入としか説明することのできない出来事が起こっていました。祈りが答えられ、生き方が変わりました。彼らの信仰が本物であることがその働きの中に表されていました。

問3

聖霊が人の生活と教会のうちに臨在し、実際に働いておられることはどのようにしてわかりますか。ガラ5:19~23、Iコリ12:1~11参照

聖霊の結ぶ「実」は、神が積極的に働いておられることの力強い証拠です。愛、喜び、平和といった美徳は長期間にわたって捏造することも可能ですが、日ごとに教会内の人間関係のストレスにさらされるうちに、本物が最終的に偽物とより分けられます。聖霊が生きた臨在となられるとき、罪深い人間にとって自然でなかったものが次第に自然なものとなります。クリスチャンのうちに、以前は見られなかった恵みと親切に満ちた行いが見られるようになります。テサロニケの信徒の生活が聖霊の超自然的な働きによって変えられたことについての豊かな証拠を、パウロは見ました。

パウロにとって、神がテサロニケの信徒を選んでくださったことの最終的な証拠は、福音が真実であって、神が自分の生活の中におられるという彼らの深い確信と内なる自覚でした。そのような確信は絶対的なものではありませんが、真正な福音にはふつう、自分が神と正しい関係にあるという強い確信がともないます。

パウロに倣う者となる(Iテサ1:6、7)

テサロニケIの1:6、7を読んでください。たいていの翻訳ではそうはなっていませんが、6節において、パウロは2節で始めた同じ文章を10節まで続けています[英語聖書参照]。この長い文章の主題は、パウロが祈りの中であげている数々の感謝に対する理由です。6節と7節は5節の初めにある「なぜなら[」新国際訳]にさらに二つの感謝すべきことを付け加えています。パウロは感謝(2節)しています。その理由(5節)は、テサロニケの信者がパウロと彼の同僚に倣い、彼ら自身、倣うべき模範となっていたからです(6、7節)。

私たちはしばしば人に警告して、キリスト以外の人に倣うことは危険であると言います。確かに、そうです。なぜなら、どんなに立派な人でも、私たちを失望させることが時々あるからです。しかし、実際には、私たちは自分の模範となる人を必要とします。私たちはときどき、特定の問題や困難を乗り越えるための導きや勧告、助けを与えてくれる人を必要とします。よい勧告、よい模範の素晴らしさを体験したことのない人はいないでしょう。

また、好むと好まざるとにかかわらず、ひとたび教会の指導者になると、人々は私たちに倣います。したがって、「ベテラン」のクリスチャンが自分の説くことを実践し、自分の語ることを生活の中で行うことはいかに重要なことでしょう。

同時に、パウロはここでいくつかの安全策を講じています。第一に、倣うこと(6節)は受けること(5節)の結果としてもたらされます。テサロニケの信者の第一の関心事は神の御言葉を受けることであり、それを聖霊によって自分の生活に直接、適用することでした。神の御言葉はいつでも信頼できるものです。第二に、パウロは彼らの思いを最高の模範である主に向けています(6節)。イエスがなさったこと、またなさることは、パウロがなすことよりもはるかに安全な模範です。パウロは決して自分自身と自分の品性について思い違いをしていたわけではありません(Iテモ1:15)。

しかしながら、パウロはそのように言った後で、テサロニケの信者がパウロを愛する教師・指導者として倣い、彼ら自身、倣うに値する模範になろうと願っていることを賞賛しています。ここで、特に倣うべきものとされているのは苦しみの中にあって喜ぶことでした。苦しみは人を不幸にもすれば、幸福にもします。テサロニケの信者は、パウロとシラスが先に経験したように(使徒16:22~25)、福音と聖霊の力によって、苦しみの最中にあって超自然の喜びにあずかりました。

さらなる信仰の証拠(1テサ1:8―10)

テサロニケIの1:8~10を読んでください。パウロは2節で始まった文章に続けて、テサロニケの信者がマケドニア(テサロニケの所在地)やアカイア(コリントの所在地)にいるほかの信者の模範・型となったことについて自分の知っていることを語っています。

第一に、テサロニケの信者は伝道活動と成功の模範でした。彼らを通して、神の言葉はこれらの地方とその先の至るところに「響き渡って」いました。パウロはまた、彼らが模範的な信仰を持っていると考えました。というのは、彼らがパウロと福音に対して開かれた心を持っていたからです。彼らは素直に教えを受け入れました。彼らはまた、偶像や一般的な礼拝形式を捨てることによって、喜んで自分たちの生き方を根本的に変えました。

古代ローマ世界においては、よく整備された道路と広く行きわたった往来のお陰で、情報は比較的速く伝わりました。したがって、彼らの信仰が「至るところで」知られているという言葉は、ローマやアンティオキアのような都市の人々がすでにパウロとの交流の中でそのことに言及していた可能性を示唆するものです。

人は他人の期待にかなうように生きたいと願うものです。賞賛には、隠れた期待感が含まれています。圧倒的な言葉をもって彼らの信仰を賞賛することによって、パウロはなおいっそう信仰において成長するように彼らを励ましたのでした。テサロニケの信者の回心には、特筆すべきことがあったように思われます。異教の偶像礼拝者として、彼らは二つの大きな障害を克服しなければなりませんでした。一つは、一度は死んだが、生き返ったという男についての「狂気じみた教え」でした。もう一つは、それが狂気じみたユダヤ人の教えであるという事実でした。クリスチャンの言うことを耳にしたとき、多くの異邦人は嘲笑したことでしょう。しかし、テサロニケの信者は違いました。彼らは福音の光に照らして徹底的に自分の生き方を吟味しました。

「テサロニケの信者たちは本当の伝道者であった。彼らの心は、『きたるべき怒り』に対する恐れから彼らを救い出してくださった救い主への熱意に燃えた。キリストの恵みによって、彼らの生活におどろくべき変化が起こった。そして、主のみことばが彼らの口から語られると、力がそれに伴った。聞く者の心は宣べ伝えられた真理によって納得させられ、多くの魂が信者の群れに加えられた」(『希望への光』1452ページ、『患難から栄光へ』上巻277ページ)。

まとめ

「パウロがコリントに滞在しているあいだに、シラスとテモテがマケドニヤから下ってきたことは、パウロを大いに励ました。ふたりは、福音宣伝者たちがテサロニケをはじめて訪問したときに真理を受け入れていた人々の、『信仰と寛容』の

『よきおとずれ』を彼に携えてきた。パウロは、試練と逆境の真っただ中にいて、変わることなく神に忠実につかえている信者たちへ、優しい同情の心を向けた。パウロは自分で彼らを訪問したいと思ったが、その時にはこれが不可能だったので、彼らに手紙を書いた。

テサロニケの教会にあてたこの手紙の中で、使徒パウロは、彼らが信仰を増し加えているというよろこばしい知らせを、神に感謝している。……

『わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している』

テサロニケにいる信者たちの多くが『偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようにな』っていた。……主に忠実に従っている彼らは『マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった』とパウロは述べた」(『希望への光』1452ページ、『患難から栄光へ』上巻276、277ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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